卯の花腐し

2002/10/29

むかしのひび

俗社会にうといondはときどき♂と♀がどちらがどちらかわからなくなります。これを書いている今もど忘れしています。しかしべつに知らなかったところで日常生活にまるでもって支障は出ないと思われますので頓着しません。といいますか男だ女だという話題からしてトラウマンな昨今ですがいかがお過ごしですか。なんでもかんでもがごっちゃになった今の世の中で男女のちがいとか男性らしさ女性らしさを議論すること自体ナンセンスなのかもしれませんが、私は自分では女っぽいところがあると思っています。また一方で、自分が男性であることにはあまり自信がありません。このふたつの感情が独立なのか相関があるのか自分でわかっていませんが、それをふまえて私はより中性的なものをめざしているようです。女性でも男性でもないべつのなにか、という意味でです。これはなにかコンプレックスみたいなものがあるのかもしれませんが、自信がないというより、自分の男性をきらっているところがあります。ひげや体毛が濃かったり、すぐいやらしいことを考えたり、女性をそういう目で見たり。こればかりは男とはそういうものだと認めることができません。かといって女になりたいかというとそういうわけでもありませんし(なれませんし)、それでどちらでもないもの、と考えるわけです。まあこれは、自分への劣等感やわずらわしさから逃亡したがっているだけで、いわば俗世を捨てて出家したいと思うのと似たような感覚なのかもしれません。もうひとつは社会的な要因でしょうか、私たちのあいだにはそれぞれの性別についてある程度のイメージが固まっています。男性または女性はそれぞれのイメージの枠組みの中で行動することを社会は期待しています。男だからこうしなければならない、女だからこうしなければならない、といったものです。そうした通念にはどうして?と首をかしげたくなるものもたくさんあります。性別というきまりごとにとらわれて自分らしさを発揮できない、そういうしがらみに悩んだり異を唱える人もふえているようです。私に自分らしさなどというものがあるかどうかわかりませんけれど、とりあえず女か男かいずれかいっぽうの世界にしかいられないというのは不便だと感じます。ですので、自分から性的な特徴をできるだけ取ってしまって、どちらの性別にも身を置かない中立な立場にありたいと願ったりします。本当はだれもが肉体的または社会的な性差にしばられることなく生活できるように世の中が変わっていくのがいちばんなのでしょうけれど。ただ、性差というものは生物学でいえばあってしかるべきもので、動物によってはオスとメスとで体の大きさや生態がまったく異なるというものも存在します。そして両者の役割分担はたいていはっきり決まっています。つまり人間にも男性や女性の特徴や相違点が多くあることは当然のことと言えるわけで、そのギャップを否認したり取っ払って差をなくそうと考えるのは生物たることを放棄したがっていることに等しいのかもしれません。

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