老練老練老練

2002/10/17

むかしのひび

時間はなぜこれほどに不均質なのでしょう。1日24時間、それは固定されていて、その時間を生活に振り分けて私たちは1日を過ごしています。ではその時間の流れ、そのスピードは、その重みはつねに一定なのかというと、もちろんそうであるはずなのですけれど、感覚としてはそうは認識できない場合のほうがはるかに多いのではないでしょうか。楽しいことをしているときや人と話しているときは時間がすぐ経過してしまうように感じますし、めんどうな仕事をしているときは時間の進みかたが遅いのではないかと思ってしまったりします。スピード感覚もそうですけれど、ほかには時間のすききらいと言ったらいいのでしょうか、待ち遠しい時間とあまり来てほしくない時間というように、受け止めかたも時間帯によってかわってくることもあります。それは当然のことで、私たちは等間隔に区切った時間軸上でスケジュールを管理しているのではなく、用件や人との約束など、イベント単位で行動しているからです。そしてもちろん、やりたいこともあれば、あまり気が進まないけれどしかたなくと思ってやることもあるでしょう。試験前におもむろに部屋の掃除をはじめてみたり、やらなければならない仕事があるのに遊んでしまったり、今やりたいことをとりあえず実行するほうについ時間の使い道をさだめてしまうこともよくあります。そういった意識の差が時間の進みぐあいのちがいとして感ぜられているのだと思います。自分のほしい時間だけを寄せ集めて、使いたくない時間、やりたくない用事は徹底的に遠ざけて。それだけではいけないことは知っているのでしょうけれど。きっと。
さて、仕事、ここからは私の仕事の話ですが、慣れてくるとしだいにだれてきたり、あとは物足りなさを感じはじめたりしてきます。着実にステップを踏んでいるという意味ではいいことなのでしょうけれど、なんだか、このままでいいのだろうかと思う気持ちもどこかにあります。今は帰りもそんなに遅いというわけではなく、ですからこうして不愉快な駄文を吐きつづける余力があったりするのですが、正直言いますとそんな力はあまり残っていてほしいものではありません。会社に寝泊まりしなければならないくらいの多忙さというのもまだ経験したことがありませんで、むしろ泊まってみたいです。どうせ帰宅しても空虚と失望しか待ってはいないのですから。陰鬱なルーチンワークを無意味にくり返すだけなのですから。ときどき家族と電話するときも、仕事で根を詰めすぎないようになどと小言を受けたりしますが、そもそも体力を使う仕事ではないのですくなくとも肉体的には疲れるということはありませんし、くり返しになりますが背中が痛いのは私の寝相が悪いからですし、そんなに大変だという印象はまだありません。まあ、それはまだ私の経験が不足していてあまり大きな仕事をまかせてもらえないからというのが第一ですので、まずはそこからなのでしょうけれど。でも働きすぎて倒れたり、胃に穴が空いたりって本当にあるんでしょうかね。私はたばこもコーヒーもあまり飲まないのでそういうふうに体をこわす要因は少ないかもしれませんが。それに今はどこも仕事が少ないでしょうから、むしろ仕事をしたくてもない場合のほうが多いと思われますので、無理をしすぎるという状態そのものが出現しにくいと言っていいかもしれません。不景気はきらいです。もっと仕事をしてみたいです。どれだけ積み上げられたら精神的にパンクしてしまうのか、あるいは体にがたが来るのか、自分の限界をいちど知ってみたいという気持ちはあります。そこまでいかずとも、すくなくとも毎日毎日こんなつまらないことばかり考えてしまう余裕がなくなるくらいの忙しさを求めます。単調なくり返しの日常に追いやってしまって、そして流されていくのも、などと考えています。多忙に振り回されてほかのことがなにも手につかなくなって、そしてしだいに離れていって、それもまたひとつのありかたなのかもしれません。なにも追わず、知ることも知られることもなくひっそりと、おそらくは目標もなく。そういう人生、それだけの人生、それもそれで、なんて。これは前向きな意欲などではありません。目の前のかなしみを振り払おうとしているだけだということです。逃げているだけです。それとも私は、そうすべきではないのでしょうか。この現実から、希望と絶望が表裏一体になったような綱渡りの現状から、目をそむけてはならないのでしょうか。それが今の私に、私のしたことに対して科せられた責任だというのでしょうか。罰なのでしょうか。すべては未初期化のブランクデータとして。そう。その経歴として私は自己判断のもとで歪みつついるのです。

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