結局おとがめなし

2002/10/24

むかしのひび

ふと気になったのですが、私はどういう状態なのでしょう。<聞かれても 今月の日記は自分でもあきれるほどの文章量でお送りしておりますが、仕事から帰るのもそれほど遅いでも早いでもなく、ほかにやることがあるわけでもないわけでもなく、いつのまにか手元に妙な買い物があったりなかったり、おいしいものも食べたり食べなかったりと、気分的にはどうであれまったくもってふつうの生活をしております。すずしくなってきて朝ふとんから出るのに時間がかかったり顔を洗う水が冷たく感じられたりというふうに変わってきたというのはありますがそれは季節のせいですし、そう考えるとなにも不具合はないのではないかという気がします。つまり、必要以上に落ちこんだり、傷ついたつもりになってみたりするのはふさわしくないんじゃないかと。いえもちろんわざとこんなふうに振る舞ったりなどしてはいないのですが。因果の中で生き、霹靂の中で生き、思わくはその中間、偶然と必然の中間で生きています。幸運なこと、不運なこと、しかるべきこと、不条理だと感じること、受け入れても受け入れなくても、心にとどまってもとどまらなくても時間はひとしく過ぎていきます。さだめられたルートがあるわけではありませんが、なにかの選択を迫られる岐路に立たされることもあるでしょう。それぞれの点にイベントがあって、なにかを知って、感情をもって、考えて、その繰り返しの中で、だけれどもすこしずつ進化していって生きています。ですから今は悲しむべきところではないのかもしれません。もうなにも見えなくて、でもその先にもっと重くて暗いものがあるかもしれないと考えると、私はうつむいていてはいけないような気がします。不健全なほどやけになって自分のことをないがしろにしてしまったり、深い深い心の闇にすべての思念を投じて気持ちを閉ざして自分を傷つけてしまったり、それは本人にとっても、それを見ているかもしれない他人にとっても悲しくてつらいこと、なのでしょうから。歩きつづけることに意味があるかどうかわかりませんが、歩くことをやめてしまったらきっとなんの意味も生まれない、それはまちがいないでしょう。あるいはこうなってしまったことの責任が私にあるのなら。だからきょうも紡ぎ出します。そう。たとえ嗄れていようとも。…ひとつわかったことがあります。この日記は量は多くても質はスカスカです。
さて岐路と書きましたが。人生の中でなにかをえらばなければならないときはきっとあると思います。私は昔からそういうことはあまり好みませんでした。ものごとを取捨選択したり、優先順位をつけたりといったことでしょうか。やりたいことはみんな分け隔てなくやりたいですし、それがひとつだけだったらとことん突っ走ればいいだけですし、どうしてもこうシリアルにといいますかシーケンシャルに複数の事案を処理するようには頭がはたらかないところがありまして。…優柔不断なところがあるくせにこれだと決めたら考えるより先に体が動くという困ったちゃんなタイプですが。やりたいことや大切なものがいくつかあったときに、それらの重要性をくらべたり順序づけできないことって多いと思うんです。たとえば仕事と私とどっちが大事なの!みたいな。それをむりやりに数値に置き換えてみたり物質的な扱いをして並べ替えてみたりするやりかたがきらいでした。いかにも効率重視のオトナの考えかただなあという感想ももっていました。ですから、まわりの意見に流されやすいという性格のせいだったかもしれませんが、私は今まで重大な選択というものをあまりしてこなかったように思います。これは意識的に避けてきたというより、今までの人生がそんな感じだったのかなあという印象があるものでして。たとえば自分の進路しかり。どの学校を受験するかということは選択できますが、そこに合格するかどうかは自分では決められません。合格通知が来てはじめて入学できる、というように、それは自分の主体性にもとづくものなのかどうかややグレーな部分があります。そういうものも含めての話です。だからえらべませんでした。1年前も2年前も。それぞれが自分にとってどのようなものかなんて考えたことがなかったから。そしてそれは、考えなくて正解だったのです。えらんではいけなかったのです。消極的な敬遠でなく、それが堅持への条件だったことを私は知りませんでした。選択をしないということは臆病かもしれませんが、同時に敵を作らないための、秩序を保つための自衛手段でもあったのです。えらぶこと。えらんだものへ与えるもの。えらばなかったものへ与えるもの。そしてうしなうもの。その結果がこれです。均衡を失った世界は急速に崩壊を迎えます。そして迷いもなく。それがこんなにも喧しいと言うのです。そして今も分かれ道に直面しています。私はなにを消さねばならないのでしょう。あるいは自分自身でしょうか。なにひとつ失いたくなどなくて、でもそれはコドモの考えかただと気づいて、そうしたら人生はこんなにも分岐点でいっぱいなのだということが見えてきて。それとも、自分になんかしらの選択権があるなどという思いこみが傲慢なのでしょうか。そうですね、きっと権利なんてありません。望むらくはもうなにもえらびたくありません。いいようにからかわれてこき使われて捨てられて、あるいは世の中の赴くままに流れていくのが私に見あった生きかたなのかもしれません。その感覚はつらい選択を放棄しようとする逃避本能のいたすところなのでしょうけれど。

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