レイ・ギナーレ

2002/10/23

むかしのひび

ondです。きょうは私のカラダのヒミツを教えちゃいます。いえたいした話ではありませんが、本日ひとり抜き打ち身体測定が実施されまして、おもむろにメジャーを持ち出して胸囲をはかってみました。結果はといいますと82㌢でして、元スポーツメンとは思えないひょろさです。というか肋骨浮きまくりです。しかし80の大台はなんとかキープしているのでほっとしています。はい、女性の場合はトップバストが80㌢あるかないかを大きさの目安にするという話を聞きますが、その数値は男性にとってもデッドラインでありまして(たぶん)、胸の豊かさといいますかたくましさの指標と言えるかもしれません。そして男女とも共通のボーダーラインを用いているということは、はしょって述べますとバストを女性と比較できるということになります。男女の体格差、とくに胸の形はけっこう異なっているので比較することに意味があるかどうかわかりませんけれども、でもここはやはり気分的に勝っておきたい気もしなくもありません。男性はとくに体格で女性に負けてしまうのは恥ずかしい思いをするものです。女性より背が低い、と言われると肩身がせまかったりするものです。それと同じノリで女性より胸が小さいというのはなんとなくくやしい気がします。私だけでしょうか。それとも胸囲くらいは女性に譲るのが紳士のたしなみというものなのでしょうか。もう自分で書いていてわけがわかりませんが、とりあえずもっと体をきたえなくちゃと思った春の夕暮れでした。
さてうって変わって、音楽を聴くときの歌詞について。私が曲をよく聴くようになったのが大学に入ってからでそもそも歴史が浅いのですが、これまで歌詞はあまり聞きこんでいないほうでした。というのもやはりオタク業界からこの世界に入った(?)というのが関係しているのでしょうか、ヴォーカルの声質ですとか、あと曲のノリやアレンジの派手さにばかり関心がいっていて、歌詞をよく聞くということはしていませんでした。今にして思えばなんとももったいない聴きかたをしていたものです。もちろんまったく聞こうとしなかったということはありませんが、どう言ったらいいんでしょう、あまり胸にしみる感じがしなくて。難しいことを言っているなあとか、意味はよくわからないけれど格好いいとか、そういう気持ちになるときもあるかもしれないねとか、歌詞のよしあしと言われてもそれくらいぼんやりした判断基準しかありませんでした。それが今はいろいろ感じとれるようになってきました。痛いくらいに、という話です。ひところはフレーズのひとつひとつが突き刺さってくるように思えてきて聴くのをさけていたときもありました。今はソフトなものからすこしずつ聴くようにしていますが、それでもきついのはまだ聴かないようにしています。あるいは反対に、悲しいときはとことんどんより沈んでみようという逆療法みたいなやりかたがあることも覚えました。あらためて考えてみるとなかなか不思議なものです。現実的なもの、ファンタジックなもの、楽天的なもの、悲観的なもの、そしてしあわせと悲しみ。方向性はさまざまでも、人がつむいだことばが曲にのせて流れてきて、それを聞いた人の心にはたらきかける、感銘を与えさせる、そんな力があります。どうして他人のことばを聞いているはずなのに、その歌詞の中に自分の心情を照らしあわせてしまうのでしょう。重ねてしまうのでしょう。なぜ無意識的に頭がそうはたらいてしまうのか奇妙でなりませんがそれはさておき。けれど歌詞の意味を感覚で受けとれるということは、心にしみてくるようになるということは、聞く人がそれだけあたらしい感情を知ったからだと思います。あたらしい経験をして、そのとき思ったことが胸にのこっているからなのでしょう。自分の質を高めて、より多くのことばに対応できるようにバージョンアップしてはじめて理解できる歌詞があるのだということでしょう。共感できるということは、その人(作詞した人)と同じ考えをもっている、同じ感情を知っているということなのですから。ですのでどのような歌詞を受け入れられるかには個人差があってしかるべきですし、その差異というものはそれぞれの人のそれまでの人生や経験してきたことのちがいに帰着されるものです。なんとなくの意識で感じるレベルではなく、心の奥底で触れあうような一体性、そのときはじめて見えてくるもの、うなずけるものがあって、だからこそ胸を痛めたり感傷的になれたりするのかもしれません。意味を知るということはこんなにも奥深いものなんですね。ですけれど、それがこれほどにも苦しいものならば知らないままでいたかったという気持ちもないではありません。

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