空は、ふたりのこと

2002/10/16

むかしのひび

思うことがあります。たとえばこの日記を書いているのが私ではなくて、私になりすました他人だったり、自動日記生成スクリプトだったとしたら楽ちんです。読む人にとっては私の顔が、私がこれを書いている現場が見えない以上、それを確認することができません。人の存在というものはそれくらいあいまいなものなのです。取るに足りない、あるいは簡単に取って代わられるような、それくらいちいさなものなのです。ある日べつのものに変わっていても、あるいはなくなっていても、それすら気づかれることなく時間はすぎていくかもしれません。なにごともなかったかのように、ひとりぶんの存在を置き去りにしたまま流れていくことでしょう。流されていくことでしょう。存在という記憶など、忘れられても消えてしまっても、ただそれだけのことでしかないのです。悲しむ必要すらないのです。ささいなことなのですから。そう。失うとはそういうことなのです。自分が自分であることを証明すること、そして自分というものを保つことは、それほどに困難なことです。やがては自我を失っていきます。
人はなにか困ったことがあるとすぐ他人のせいにしたがります。景気が悪いのも企業の不祥事が相次いで起こっているのも政治家のせいだ、国のせいだとよく言います。けれど政治家というのはそもそも有権者が選挙でえらんだ人たちであるわけですから、その人たちを選出した私たちにもともとの責任があると言えます。まあ長年かけて築き上げられた体質なんてものは正義感のある人がちょっとがんばったところで容易にくずせるわけはないのですけれど。自分のまったく関与していないところで起こったことで不利益をこうむるという場合はおそらく少数で、自分の努力が足りないことを棚に上げたり、自分の行動に責任をもたずに文句を言っているケースというのがよく見られるように感じます。みずからの行いを振り返ろうとせず、目の前の問題や自分のことを自分の力で解決しようとせず、なんでも人任せの他力本願な印象を受けます。いえ今さらいい子ちゃんトークを展開したいわけではありませんが、なんでもかんでも他人のせいにするのはやはり見苦しいかと思います。不利益の場合ももちろんそうですが、…利益の場合も。誰々のせいで、誰々のおかげで、という表現はプラスの意味でもマイナスの意味でも用います。そのことを言っているのです。結論を、または原因を他人という道標に集約させたがる行為、それは問題の過程ならびにその打開をその人に委ねようとしているだけのことです。盲目的に頼っているだけなのです。甘え、だったのです。だからこんなにも弱体化してしまったのです。
このまま堕ちていくのでしょうか。このまま朽ちていくのでしょうか。だれも望んでいないはずのことが、たとえば崩壊、絶滅、戦争、枯渇、そういうものが目の前で展開されている現状があります。あるいはこれは意図がはたらいたうえでのことなのでしょうか。世界の終わりを欲する圧力が。

ソーシャル/購読

このブログを検索

コメント

ブログ アーカイブ