朝ごはん☆しびれ雲

2002/10/20

むかしのひび

結論から言うと、私はしあわせなのだと思います。生きる手段、人として生きるそれを模索しつづけています。こんなにもわがままを言える環境が整っていて、その中でやりたいようにやっていて、それでまだなにが不満だというのでしょう。私が後ろめたく感じているのは生きるためのくさびを得ること自体ではなく、それがこのように目につく形になっているという点です。今というタイミングであるということです。逃げ場所を作ってそれを担保にして向き合っているという姿勢が不謹慎だったということです。知らなかったと言えばそれが許される理由になるのではありませんが、稚拙だったと言えばそれが逃げ口上になるのではありませんが、でも子どもだったんだと思います。それは私の意志でした。心のどこかで、おとなになることを避けていました。だから子どもみたいな人間関係しか求められなかったんだと思います。明確に区切りを引けるものではないと言いながらもやはり両者は絶対的に異なるものです。いつか先の私は、今の私を振り返って幼稚だったと思うことがあるのでしょうか。何年先も、ガキだガキだと言いつづけて、そうして年を食っていくのでしょうか。こういう人間がまたひとつ社会をだめにしていくのかもしれません。きっと私は変わらないのだと思います。肝心なところは、なにも。それも“先”があればの話でしょうけれど。…それとも私は、他人に迷惑をかけないことがおとなとしての生きかただなんて思っていやしないでしょうか。
翼をもがれたような気持ちに、なっていました。もう空はないのだと、あの雲も風も太陽も、こんなに気持ちよさそうなのに、今にも手が届きそうなのに、もうけっして自分はその中には入れない、大空に還ることはないのだと、それくらいに失望していました。その感情を自分で整理するための方策として私は罪とか罰という概念をとなえだしました。この苦しみは報いであり償いなのであると。けれどそのせいで自らの掘った泥沼から抜け出せなくなっています。きたない泥水に顔中つかってあっぷあっぷしているさまはさぞ見苦しいものだったでしょう。なんて考えるのも体裁ばかり気にしていることの現れなのでしょうか。ひとつのことにばかり執着して、同じ過ちをくり返すだけの。なにがいけなかったのか正直わからずにいます。けれど自分がどういうものであるかという認識だけは明瞭です。わきまえなければならなかったのです。腐らせているのは、腐っているのはほかでもない自分自身だったのですから。雨は降りつづけるでしょう。けれどぬれてしまっても冷たくても、それは悲しみの色ばかりではありません。雨が涙を隠してくれることもあるでしょう。ほてった頬と高ぶった感情をさましてくれるでしょう。もうすこし、この雨の中にいたくて。私がいたんでいるのは雨のことではありません。その涙の理由を知りません。きっと今の私は世界からいなくなることも躊躇しないような状態にあるかもしれません。けれど要領の悪い頭で考えてもそれはよい選択ではないという気がします。だから生きなければならないのだと。たとえ罰だとしても、たとえエゴだとしても、あるいは推測の域を出ていなくとも。理由はなんでもいいのです、つなぎとめるものがなにかしらあれば。生きなければのぞみはつながらないのですから、生きなければ朝は来ないのですから、生きなければ必要な材料を稼げないのですから。不幸なことなのでしょうか、生きることって。不幸であるということがデフォルトならばきっとそんなに悩まないのだと思います。悩むということは高望みをしているということです。しあわせを知っているということです。その人にとっての満足のかたちを。それが叶わないときに悩むのです。だから自分のことで苦しんだり胸を痛めることは、その向こうにあるよろこびを求める反作用であって、それがつまりしあわせだと言うのです。
ホームページは出席確認だと言われたことがあります。生存証明とも言えますが。更新していれば今日その人が生きていたという目印になります。私は今日も生きています。とりあえず、まだ、生きています。そう。だからここにいます。今はもうそれくらいしか返せるものがありませんから。

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