あらたな敵の出現ですこんばんは。いまどきの表現で、さ入れことばというのが横行しているようです。私にやらさせてください、みたいな言いかたですね。ら抜きの次はさ入れですか、まったくやらしいったらありません。「やらしい」から「ら」を抜いて「さ」を入れたら「やさしい」になるっていうのに。(そういうの書かなくていいから) ら抜き表現の是非については以前この場で、私なりの自己決着をみたんですが、こんどのさ入れに関してはそのような酌量の余地(?)はなく、語法としてまったくの誤用であるという意見が大勢です。どうしてこのような助動詞の使いまちがいが起こってしまうのでしょう。
この両者のことばづかいには、ひとつの共通点があると考えます。受身・尊敬・自発・可能の助動詞「れる・られる」と、使役の助動詞「せる・させる」は、それぞれ単語がふたつずつあって、上につく動詞によってどちらを使うか決まります。そこでなぜまちがったほうを使ってしまうのかというと、「れる」と「られる」をくらべた場合、もちろん本当はまったく同等のものなんですが、「られる」のほうが受身や尊敬の意味あいがなんとなく強いような気がしませんか。私はそんなことちっとも感じませんけれど、いまどきの人の感覚ってきっとそうなんじゃないかと思います。そうすると「れる」のほうが相対的に可能の意味あいが強くなるため、可能の助動詞として使うときに「られる」を用いる場合も「れる」をもってきてしまう、そういうことです。同じように、「せる」と「させる」とでは「させる」のほうがいかにも使役って感じがするので、やはり思わず「させる」を使ってしまうのではないかと。
…なんかね、“いかにも使役って感じ”とか自分で書いてていやになってくるんですが。これはよくない傾向だと思うのですよ。単語の正しい意味を考えずに、なんとなくとかフィーリングでことばをえらんでしまうっていうのは。こうした傾向は近ごろの子どもの命名にも見られます。昔のような平々凡々とした名前の子が少なくなってきて、いかにもハイカラな響きのよい読みで、それになんやらこむずかしい漢字をあてているっていう名前が増えてきたように感じます。これは本当に読みというか発音だけで命名しているんでしょうね。昔だったら、お父さんお母さんがいろんな意味や願いをこめた名前を必死こいて考えたものですけれど。漢字一字一字にもこういう意味があるんだとかこういう子に育ってほしいとか、あと画数なんてすごい気にしちゃったり。でもそれが両親がわが子にあたえる最初の愛情でありしつけでもあるわけで。今はなんだかペットかキャラクターのネーミングって印象です。中身がなくて外づらだけ、という点も今風ですし。これでは子どもがかわいそうだと思うのは私だけでしょうか。
さて、だいぶ脱線してしまいましたけれども。きょうはもうひとつもの申したいんですが、さ入れことばを改めたとしても、「~させていただく」の乱用はいけないと思うんです。これの意味をほぐして考えると、相手からの命令や指示があってそのとおりに行動するとき相手の許しをもらう、というふうになります。つまり本来ならば、人になにか頼まれてそれを自分が引き受ける場合にだけ使うものです。なので、前後の文脈なしに「やらせていただきます」とかって使うと、相手方にしてみたら、その人が自分の意思ではなく命令されるままにしぶしぶやっているのではないか、と解釈されてしまうかもしれません。こうした話法も、人から何か言われるまで自分から動こうとしない若者の傾向と言えるのかもしれませんが。単純に「私がやります」「いたします」でいいのとちがう?
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