人は畑に麦を踏む

2004/12/13

むかしのひび

「紫の鏡」ということばを大人になるまでおぼえていると死ぬとか、なんかそんなうわさ話が子どものころありませんでしたっけ。思いちがいかもしれませんけど。まあ、すでにすっかりいい大人になってしまった今となってはどうでもよくなったことなんですが。でもどうして、そんな不吉なうわさを流したがる人がいるんでしょうか。京都の三年坂でころぶと3年以内に死ぬとか(京都検定試験問題より)、自分のクローンと出くわすと死ぬとか(またドッペルゲンガーとまちがえてるよこの人)、雪山で遭難して寝たら死ぬとか(そして裸で抱きあうと温まるとか)、死の宣告をくらったらカウント5で死ぬとかー(ゲームじゃねえか)。ねえ、むだに人の不安をあおるようなことは言わないでほしいですよ、まったく。
それはそうと鏡がすきなんです。と言っても、鏡にうつった自分の顔に見とれたりするわけではありません。<だれもそんなこと疑ってないし ものが反射して見えるという特徴というか科学的側面ですかね。小学校の理科の実験でもたびたび登場しました。スリットを通した太陽光を反射させて角度をはかるとか、たくさんの鏡で反射光を集めて水を加熱するとか、好奇心に胸おどらせながらやりました。…実験ぎらいの最近の子どもたちにはこの気持ちはわからないでしょうけれど。ほかにも、遊園地の鏡の迷路みたいなアトラクションとか万華鏡とか手鏡でのぞくスカートとか、鏡が見せる神秘的な視覚の世界は私たちを魅了してやみません。2枚の鏡を平行に向かいあわせで置くと、そのあいだにあるものが幾重にも反射しあっておなじ像が無限にうつります。あれってよく考えたらものすごく不思議な現象だと思います。ものが見える、つまり光が反射して私たちの目に入ってくるまでには、ごくわずかに時間がかかります。どこまでも奥につづく鏡の中の風景は、2枚の鏡のあいだを何十回何百回と往復してきた光がもららすわけです。なので、何重にもつらなっている像のうち、手前のほうにうつっているものと奥のほうにうつっているものとは正確に同一ではなくて若干の時間差があるとか、そもそもあの像は右の鏡から反射しはじめたものなのか左の鏡から反射しはじめたものなのかとか、ちいさな疑問がふつふつとわいてきます。まさに奥が深いっていうか。
鏡といえばもうひとつ。ラジオ体操の先生バージョンがおどれるondです。先生バージョンっていうのは、みんなの前に出てお手本となっておどるもので、鏡写しになるようにすべての動作を左右逆におこなわないといけません。いざやってみるとけっこう頭使います。機会があればおためしください。(どんな機会だよ)

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