[SKIP-F] スキップは突然に

 それは、普通のミッド式魔導師だったはずの私、フェイト・テスタロッサに起きた小さな事件。

「失礼します」
「こっちよ。いらっしゃい、フェイト」
「はい……母さん」

 魔法の修練を「卒業」した翌日、私はプレシア母さんの部屋に呼ばれた。
 研究機材や魔法書がうず高く積まれ、室内はインクと埃の臭いに満ちていた。

「あの……、リニス知りませんか? 今朝から姿が見えなくて」
「あら、あの子自分で何も言わなかったのかしら。契約を解除したのよ」
「……どうして」
「用が済んだからに決まってるじゃない。もうデバイスも受け取ったんでしょう?」

 使い魔として魔導師と契約した動物は、元の寿命とは関係なく何年も生き続けられる。
 それが打ち切られた瞬間――。母さんの手前、必死で涙をこらえた。
 恐らく私が間違っているのだろう。リニスやアルフを家族同然に思っている私が。
 けれど、使い魔はただの駒だから、などというふうにはどうしても割り切れなくて。
 やり場のない感情を抑えられず、待機形態のバルディッシュを握る手に力がこもった。

「そんなことより、フェイト。ひとつ頼みたいことがあるのだけど」

 ジュエルシードという、魔力が凝縮された宝石を集めてきてほしいのだという。

「それはどこに……?」
「ある管理外世界。ロストロギアとして移送中に、事故でバラ撒かれたらしいのよ」
「そんな……そんなの泥棒じゃないですか。もし時空管理局に見つかったら……」
「それが何だっていうの? 何のためにあなたに魔法を教えたと思っているの」

 リニスを介する形で教わった魔法の大半が、対人戦闘に特化した攻撃魔法だった。
 ずっと疑問に感じていたが、まさか母さんは最初からこの計画のために――。
 たとえ母さんの頼みでも、魔法を悪事に使ったり、ましてや人を傷つけるなんて絶対に、

「私の娘だもの、できるわよね? 私の可愛いフェイト……」
「は……い……」

 母さんの言葉と、頬に触れた掌が、固辞を決めていた私の心をいとも簡単に溶かした。
 今の研究を成功させるため、願いを叶えるために必要だというジュエルシード。
 それを手に入れてくれば、また以前の優しい母さんに戻ってくれるだろうか。
 おぼろげにしか思い出せない遠い記憶の中の穏やかな笑顔に、一縷の望みをつないだ。

 自分の部屋に戻って出発の支度を整えていると、ふと学習机が目に入った。
 屋外訓練だけでなく、ここで魔法の理論や教養も授けてくれた家庭教師。彼女はもういない。

「リニス……」

 思い出をなぞるように天板を撫でていると、知らずのうちに私は机に着席していた。
 全身を倦怠感が襲う。心の支えを失い、重くのしかかる現実が、椅子に体を縛りつけた。

(……少し、仮眠を取ってから出発しよう)

 今の精神状態のままでは、ジュエルシード回収はおろかまともに歩けるかも怪しい。
 たとえ事実は変えられなくても、いくらかでも休めば気持ちがリセットされるだろう。
 ちょっとくらいなら、母さんも何も言うまい。
 休息を欲する肉体が判断を待っていたかのように、意識はみるみる吸い取られていった。

 

 まぶたを突き抜けて差し込む光がやけに明るい。……ちょっと眠りすぎたかな。
 目を開けると、そこは先ほどまでいた自分の部屋ではなかった。
 白昼光の室内灯が目にまぶしく、豪華な家具や調度品が置かれ、掃除も行き届いている。
 大きなベッドの枕元にはぬいぐるみ。薄暗くて殺風景な私の部屋とはまるで正反対だ。

 一体どこだろう。旅立つ予定だった管理外世界か。でも、いつの間に移動したんだろう。
 椅子から立ち上がると、奇妙な違和感を覚えた。周りの物が、かなり高い場所から見える。
 部屋全体を俯瞰するような広い視界。幼い私の身長では、こんなふうに映りっこない。
 ――嫌な予感がする。背後に鏡台があるのに気づき、鏡を覗き込んだ。

「なっ……、何……これ」

 私であって私でない何者かが、鏡の中にいた。

 成人前後くらいの若い女が、黒っぽい色の制服を身にまとい立っている。
 金色の長い髪、紅い瞳。顔立ちも、大人びてはいるが紛れもなく私そのものだった。
 しかし、鏡に映るこの人物がフェイトかと問われればそうだとは言えない。
 背はすらりと伸び、胸も大きく突き出すように膨らんで、完全に大人の体つきをしている。
 眠っていたのはせいぜい数時間。そんな短時間でここまで成長するなんて考えられない。
 自分とよく似た誰かと体が入れ替わったとでも言うのか。しかしそんな非科学的なこと。

 そこへ、ドアが開く音が耳に飛び込んできた。――誰かがここに入ってきた。
 壁一枚挟んだ向こうから近づいてくる小さな足音に、全身に緊張が走り、じっと身構える。
 やがて、寝室の入り口から顔を覗かせたのは、一人の女の子だった。
 リボンを結んだ左右の髪束が跳ねる。私より年下だろう、誰が見ても可愛いと思える少女。
 少女は私と目が合うと、左右で異なる色の瞳を輝かせながらこう言った。

「フェイトママ! おかえりなさい!」

 その言葉に私はのけぞった。
 彼女は私をフェイトと呼んだ。ということは、この大人の体をした私はやはり私で――。
 それよりも「ママ」って?
 九歳の私になぜ子どもがいるのか。身に覚えがないどころの話ではない。何かの間違いだ。

「ひっ……」

 少女がこちらに駆け寄ってきたが、状況が飲み込めない私は恐れをなし、後ずさった。
 なおも「ママー、ママー」と呼びながら無邪気に迫る少女との距離はみるみる縮まり、

「来ないでっ!」

 とうとうベッドに飛び乗って避けなければならなかった。
 穿き慣れないタイトスカートとストッキングに包まれた両脚がわなわなと震えている。
 たとえ歳の近い女の子であっても、見ず知らずの人に飛びかかられるのは怖かった。

「き……きみは誰? 私のこと知ってるの? お願い、教えて」

 夕立の雲に光がかげるように、女の子の顔から純真無垢な笑顔がスッと消えた。

「フェイトママ……ヴィヴィオのことからかってる?」
「まさか……!」

 両手を広げて掌を見せ、拒絶の意思表示をしつつ、大きくかぶりを振った。
 からかわれているとすればむしろ私の方だ。本当に、これは一体何の冗談なんだろう。

「わたしだよ……? ヴィヴィオだよ? ママ、おぼえてないの?」
「覚えてないっていうか……。ごめん、何も知らないんだ」
「……っ、どうしよう! 早くなのはママにっ……!」

 涙で潤ませる瞳に良心が痛んだが、知らないものは知らないとしか答えようがない。
 私が彼女の知る私ではないことをようやく悟ると、少女はどこかに連絡を取り始めた。

 

 程なくして、栗色の髪をサイドでまとめた白い制服姿の女の人が部屋に駆け込んできた。

「――本当に何も思い出せない? わたしのことも、わかんなくなっちゃった?」
「はい……。いえ、というより最初から知らないんです、なのはさ」
「『なのは』って呼んでくれなきゃ駄目っ。あと敬語とかも使わないで……」

 有無を言わせない物言いだが、今にも泣き出しそうな顔で懇願されるといっそう堪える。
 ヴィヴィオと名乗った、私が最初に会った女の子よりある意味凶悪だ。
 ちなみに、ヴィヴィオもこの場に同席している。心配そうな視線は私に突き刺さりっぱなし。

「わ、わかったよ……なのは。でも私より年上なのに……」
「だから同い年だってば。フェイトちゃんもわたしも十九歳」

 それが本当ならば、私はまるまる十年も歳を取ったことになる。
 なのはの話によると、ここは新暦〇〇七六年のミッドチルダ中央部だという。
 最初に予想した異世界ではなかったが、私には異世界よりもずっと別世界に思えた。
 なにせ十年分の記憶が全くないのだ。心を置き去りにしたまま、体だけ成長したような。
 それとも、精神だけが時間を跳躍してこの未来の世界に飛ばされてきたというのか。

「うーん……ねえヴィヴィオ、フェイトちゃんいつからこの状態だった?」
「……さいしょから。ザフィーラとあそんで、おうちに帰ってきたときにはもう……」
「そっかー。アイナさん何か言ってた?」
「おひるに来たけど、フェイトママにはあってない、って」

 耳慣れない単語が飛び交うなのはとヴィヴィオの会話に、私は注意深く耳を傾けた。
 目の前にいるこの二人が、今は私の置かれた状況を知るための一番の手がかり。
 二人とも、大人の私をよく知っている。この家で一緒に暮らしているらしいのだから。

「そうだ、フェイトちゃん。ほんの二、三時間前のことなんだけど、覚えてる?」

 たしか、母さんの命を受け、管理外世界へ向かうため自室で荷物をまとめていた頃だ。
 そのことならはっきりと覚えているが、なのはが求めているのはその記憶ではないだろう。

「午後の訓練が終わったあと、フェイトちゃん、疲れてるから先に戻るねって言い残して
一人で帰ったよね」
「……。ごめん、何のことだか」

 それが、なのはの知る『私』の最後の足取りだという。心当たりのない私は首を振るばかり。
 こう話が噛み合わなくては、彼女が語る『私』が本当に私と同一人物なのか疑わしい。

「頭でも打ったのかなぁ……。帰り道か、あるいはここに帰ってきてからか」
「フェイトママ、どこかいたいところある?」
「な、ないけど……」

 ヴィヴィオにママと呼ばれることも重荷だった。子どもの私が人の親だなんて笑わせる。
 そもそも私自身、曖昧な遠い記憶の中以外で母さんに愛された覚えがないというのに。
 今だけでも呼ぶのをやめてもらおうか、と考えていると、なのはが私の正面に立った。

「記憶喪失って、なんかショック受けると戻ることがあるって言うよね。……えいっ」

 なのはの両手が私に伸び――我知らず著しい成長を遂げた胸をむんずと掴んだ。

「なっ、なっ、なっ――」

 なのはから逃れるように飛び退き、両手で胸を覆い隠す。いきなり何てことをするのか。
 しかし何だ、今の感覚は。全身に電気が走るような。……なのはも電撃魔法の使い手?
 それとも、これが大人の体になった証ということなのだろうか。
 まだ凹凸に乏しい、私本来の体のときは、自分で胸に触れても別段何も感じなかった。
 それが成長すると今みたいに敏感に……って、こんなときに何を考えているのやら。

 だいたい、胸を触ったりするなんて大人のすることだ。愛し合う男女間の行為。
 ……ということは、なのはと私は女同士でありながらそういう関係にあるってことで。
 その結果が、ひょっとしてヴィヴィオ? それってそれってそれって――。
 ショックどころか、頭が混乱してそれこそ存在しえない記憶まで捏造されてしまいそうだ。

 今さら湧いた恥ずかしさに顔が熱くなる。だが、赤面していたのは私だけではなかった。

「な、な……なのはママのえっちー!」

 ヴィヴィオだった。頬を膨らませて感情を爆発させる。
 小さい子には刺激の強い映像だったと思われる。当事者の私もそうだから間違いない。

「もうっ、なにしてるの! ヴィヴィオがみてるのに、そ、そんなやらしいこと……!」
「あはは……ごめーん。なんか空気が重たかったから和ませようと思って」
「おねがいだからまじめにしてよー……。フェイトママこまってるんだから」
「これでも真面目だよ? ……ああすれば、わたしとの夜を思い出してくれるかなーって」
「キャーッ! だ、だからママってば……! こどものまえでそういうこと言わないの!」

 どちらが子どもなのかわからない説教を、私はぐったりしながら聞いていた。
 どうやら、私はかなりおかしな世界に紛れ込んでしまったらしい。
 これが夢なら、もう目を覚まさなくちゃ。現実に帰る方法を、見つけなくちゃ。

「……フェイトちゃん? どうしたの、怖い顔して。もしかして怒った……?」
「証拠を見せて。ここが十年後だって言うんなら、その証拠を」
「え――」

 かわいそうなものを見るような哀れみの視線を、なのはは私に突き立てていた。

 

 無限書庫。それが、なのはに手を引かれ連れて来られた施設の名前だった。

「ごめんねユーノくん、こんな時間に。急いで調べたいことがあって……」
「あはは、いいよいいよ。いつも通り、自由に使ってくれていいから」

 なのはが司書と思わしき男性と話している横で、雲をつく高さの蔵書をはるか見上げた。
 この中にあるだろうか。私のいた十年前の世界に関する情報が。――帰れる方法が。
 どんな本が並んでいるか確かめようと、自分の体を浮揚させ、本棚の一つに近づいた。
 すでに習得済みの飛翔魔法が、大人の体になっても問題なく使えることにほっと息をつく。
 難解な字句の背表紙を眺めていると、なのはとの会話を終えた男性が近寄ってきた。

「なーんだ、調べ物ってフェイトの方だったんだね。どうしたの? 急な仕事?」

 近くで見たその顔は、中性的なせいか幼く見え、なのはとそう歳も変わらなさそうだった。
 気さくな話しぶりから、彼も間違いなく『私』を知っている。それも、かなり親しそう。
 自分の変調に気づかれないよう、慎重に言葉を選んで受け答えをした。

「えっと……あ、ううん、個人的なこと……」

 なのはと話し合って、私のことはヴィヴィオを含めた三人だけの秘密にすることになった。
 どうやらこの世界では私は有名人らしく、知れ渡ったら騒ぎが大きくなるから、だそうだ。
 目立ったところなどない私が、なぜそんな目に。知れば知るほど自分がわからなくなった。

「そうなんだ? 差し支えなかったら、キーワード言ってくれれば僕が検索するけど」
「ありがとう。それじゃ……『時の庭園』で」

 この膨大なデータベースから有用な情報を自力で見つけ出すのはとても無理だろう。
 大人しく男性の言葉に甘えることにした私は、アルトセイム上空に浮かぶ自宅の名を告げた。
 時の庭園。大魔導師プレシア・テスタロッサが個人で所有する巨大な空中邸宅。
 ――家に帰りたい。幼い子どもらしい純粋な願いが、言葉の裏にこめられていた。
 家に帰れば、母さんに会えば、きっと全てがはっきりする。私の謎が明らかになるはずだ。

 ところが、男性は私の言葉を受けて、眼鏡の奥の目を丸く見開いていた。

「あの……?」
「……ああ、ごめん。君があの事件のことを自ら紐解こうとするなんて意外だったから」

 事件? 庭園で何かあったのだろうか。
 取り繕うように男性は何やら念じると、手の上に一編の報告書を出現させ、私に手渡した。
 薄っぺらな紙束の表紙には『P・T事件』とあった。――母さんのイニシャルだ。
 何だこれは。まるで母さんが悪者扱いではないか。
 強い憤りを感じながら、プレシアの名を拾い読みするように乱雑にページを繰った。

 そして、その記述にたどり着く。

『次元震の発生により時の庭園は崩壊。
事件の首謀者プレシア・テスタロッサは娘の遺体とともに虚数空間に落下し、――』

 頭がうまく働かない。
 体が呼吸するのを忘れていて、脳に酸素が行き渡っていない感覚。
 そんな話、受け入れられようはずもない。家も家族も、いっぺんになくしたなんて。
 私が日々を送った庭園。停泊先の野山で魔法の訓練に明け暮れ、駆け回った毎日。
 冷淡だったけれど、たった一人の肉親。かつての笑顔を取り戻せると希望に燃えた矢先。
 こんなことってあるだろうか。こんな悪夢、あっていいのだろうか。
 何者かが仕組んで私をだまそうとしているのなら、むしろそうであってほしかった。

 それに、娘の遺体とは何だ。――私は母さんの一人娘だった。ならば私の……私の遺体?
 表紙に戻り、一枚めくったページに箇条書きされている事件の概要に目を走らせた。
 日付は十年前の五月。ジュエルシード蒐集を命じられた今日から、ふた月も経っていない。
 その間に……この事件終結の日までに、私は命を落としていたことになる。
 ……じゃあ、私は? 今ここに、十年後とされるこの世界にいる私は一体……誰?

「いやぁぁぁぁぁぁ――――」

 

 意識を取り戻すと、最初にこの時代に現れた場所、なのはとヴィヴィオの部屋にいた。
 ベッドに寝かされていた私の体は、大きいままだった。元の時間に戻ってもいない。
 寝ているのに立ちくらみを起こしたように脳がぐらついた。落胆のショックが大きすぎる。
 再び昏倒しそうになる意識を引き留めたのは、枕元にいた小さな少女だった。

「フェイトママっ……! よかった……もうおきないかと思った……」

 両目に涙をいっぱいに溜めたヴィヴィオが、不安やら安堵やらに表情をゆがめていた。
 私が目を覚ますまで、ずっと付き添っていてくれたのだろうか。
 右腕を伸ばし、ちっちゃな頬にそっと触れると、手の中に包み込むように覆った。
 その手に堪えきれなくなった雫が伝う。とても熱かった。熱くて、そして温かかった。

「私なら大丈夫。大丈夫だから」
「うっ……う、うああああ……」

 ヴィヴィオのことは、ひとまず妹のような存在と思うことにした。
 ママと呼ばれることには依然抵抗があるが、こんなに懐いてくれる子を無下にもできない。

「ほんと心配したよ。ユーノくんも、ごめんって伝えといてって」

 反対側にはなのはがいた。元気がなく、眉を垂れている。責任を感じているのだろうか。

「ううん、誰も悪くない……」
「……ん。今日はこのまま休んで、フェイトちゃん。これからのことは、また明日考えよう?」

 毛布の中で私の左手を握りしめながら、私を気遣い、励ますように声をかけるなのは。
 手のぬくもりが心地よくて、まるで催眠術にかかったようにまぶたが落ちていった。

 私の眼前には暗雲が立ちこめていた。帰る場所も、自分が何者かすらもわからなくなって。
 これからどうしたらよいのか途方に暮れ、真っ暗闇の中で一人でさまよっている状態。
 ……いや、一人じゃない。なのはとヴィヴィオが、そばにいてくれる。
 私にとって最初は見ず知らずの他人だった二人でも、今は不思議と心強く感じられた。

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