大きな花は美しい いつも楽しく歌う花

2003/02/28

むかしのひび

朝の電車で向かいの座席のひとが広げていた新聞を見ていました。もちろん離れているので見出しくらいしか読めないわけですが、その日のおおまかなニュースをざっと頭に入れるにはこれでじゅうぶんなのかもしれません。その中でも、全面広告のページにATOK16本日発売と書かれているのが目にとまりました。前版では話しことばや関西弁もうまく変換できるようになるなど独自の進歩をつづける日本語IMEの大御所ですが、今回はなにを売りにしているんでしょうか。
こうしたバージョンアップには企業側の不断の努力がうかがえますが、実際のところはむしろそうでなければ生き残れない、という話。こまめに改良して発表しなければ売り上げが伸びない、という、いちどスタートしたら走りつづけなければならない宿命をしょっているのがソフトウェア産業なのです。ソフトウェアは情報でありコンピュータなどの機器で利用されるデータですが、ほかの一般的な商品とのちがいのひとつに品質の恒久性があげられます。物品は消耗したり破損するたびに買い換えることになりますが、ソフトウェアは基本的にその必要がありません。デジタルデータは劣化しませんから。つまり一度購入すればもう買い換えることはなく、それは売る側にしてみたら売り上げがその一回だけで終わってしまうことになります。たとえ一時的にもうかってもあとがつづきません。そのため改良や新規開発をくり返す必要が出てくるわけです。これはゲームソフトなどもそうだと思います。膨大な開発期間をかけて作品をつくってもユーザーにはものの数日で攻略されてしまう、だから次から次へと新作を出しつづけなければならないのです。これでは気苦労がたえないわけで、実はそもそもの料金体系に問題があると考えることができます。商品としてのソフトウェアのもうひとつの特徴である、物体として形をもたない情報であるということを私たちは見落としがちです。たとえばパソコンソフトやオーディオCDを買う場合、ディスクの入ったケースやパッケージの箱を手にとってレジに持っていくので、ふつうの商品を買うのと同じ感覚に考えていますが、実際に購入しているのはディスクそのものでなくその媒体に記録されたデータなのです。つまり形のある商品ならば一個二個とかぞえて買い物をするけれども、ソフトウェアはそういうふうにかぞえてはいけない、と扱うときの立場がちがってきます。無形財を商品とみなす考えに慣れていないとむずかしいかもしれませんが、売り上げをパッケージの流通量で計算するのはおかしいという話になります。コンサートや映画を観るときは行った回数だけ料金を払います。テレビ番組のライブ中継やロードショーもおそらく局側が放映のたびに権料を支払っているでしょう。ではなぜ購入したCDや映像ソフトは一回きりの支払いなのに何度も利用することができるのか(※)。こう考えるとどちらが不合理な料金体系かというのは見えてくるかと思います。では利用回数に応じて課金するようにするか、と考えるとこれもなかなか酷な話です。CDを一回再生するごとに、パソコンソフトなら一回起動するごとにいくらいくらと料金が発生する、これは相当ややこしくなりそうです。そこで中間策として利用期限を設定して月々いくら、年間いくらといったように利用料を徴収します。これは現在すでにいくつかのケースで実施されています。ウィルスソフトのライセンス期間などが例ですね。このような点を見直して収益を安定させることによって、ソフトウェア業界がもうすこし落ち着きのある状態になってくれればいいのですが。音楽もゲームも大量生産大量消費で右から左へと投げ捨てられてしまうような扱いを受け、アプリケーションはバージョンアップまでのスパンが短くいつが買いどきなのか判断しかねるうえ、無理なスケジュールでの製品化の影響であらたなバグがどんどん搭載されていく。こうした殺伐とした現況を目にしているかぎり、そう願ってやみません。たとえ形はなくとも「もの」ですから大切に使っていきたいものです。

※…これは用途が個人使用にかぎられている場合に特別に認められているのだと思われます。利用回数や期限を導入するのも実現性にまだ無理がありますので、しかたなくパッケージ販売されているのが現状でしょう。しかしソフトウェアは100㌫無形の著作物ですのでこのように切り売りされるのは本来のぞましいことではありません。

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