カルロス・ゴーン逮捕のニュースの中で、彼の経営手腕について
「ただのリストラだろ。あんなの俺でもできる」
とかドヤ顔でインタビューに答えている人がいてアチャーと。
じゃあやったら? と。他に誰もできなかったからあの人が長年
CEOを務め続けたという事実が頭から抜け落ちているようです。
逮捕容疑に関してならいくら非難しても気持ちはわかりますが、
それ以外のことや人格批判まで飛び出すのは言ってよいことと
悪いことの区別もつかないのかと声を荒げざるを得ません。
逮捕された時点で悪人呼ばわり、そして悪人の全てを否定する、
という風潮が日本社会には根強くあります。
昔話や時代劇から続く勧善懲悪ストーリー、単純な二元論。
その考え方は、凶悪事件が起きたときの報道にも表れています。
犯人の人となりや生活環境を徹底的に調べあげ、こんな背景が
あったから凶行に至ったに違いないと理由づけようとします。
犯罪を犯すべくして犯すような人物だった、という結論に持って
いこうという思惑がうかがえます。なぜそうしたいのか。
- 世の中には善人と悪人しかいない
- 犯罪を犯すのは悪人だけ
- だから悪人がいなくなれば犯罪がなくなる
という何から何まで誤った論法に従って人々をグループ分けし、
自分たち多数派のいる側は安全な社会だと強調して安心感を
もたらそうとしているのではないでしょうか。
異物を排除すれば平和になる、なんてのはぼくに言わせたら
いじめと根底を同じくする危険思想にしか思えませんけども。
だから報道機関だけの問題ではなく、そのような情報を欲して
安堵したがっている視聴者こそ集団として危うさを感じます。
ぼく自身の欠点でもあるのですが「罪を憎んで人を憎まず」が
なぜできないのでしょう。
現実にはどんな人だって法律に違反したり逮捕される可能性が
あるわけですが、いざそうなったら人格やそれまでの人生まで
全否定されてよいのでしょうか。
親しい人や信頼されていた人から突然手のひら返したような
態度を示されても受け入れなければならないのでしょうか。
事件を起こす前と後とではその人自身に何も変化はないはずで、
それにもかかわらずです。
自分の立場に置き換えて考えれば、たとえ犯罪者でも罪状以外の
部分には口出ししてはいけないと想像がつくと思うのですが。
そう考えられない人は、自分は絶対に犯罪者にならないという
自信…という名の思い込みが強いか、もしくは自分は善人だから
犯罪を起こさないという偽りの論法にすがっているのでしょう。
いつか言葉の刃が自分にはね返ってくるであろうことも知らずに。
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