[むかしのなぞ] 2006/01

2006/01/06

また始まった。
終わりが、始まった。

書き初めをしてみたら、半紙に穴があいた。二本の線が重なった場所で。
この一年を占いでもしているのか。まさか、まさかな。

忘れるなんて簡単だ。思い出を語るのをやめればいい。
言っておくが、次の恋なんかしたって無駄だからな。

自慢話をするのがいけないというのではない。
ただ、その根拠のない自信はどこから出てくるんだ。

一人一票、三人で三票、百人で百票。
まったく数がものを言う世界。青い人間と白い人間が含まれていなければ。

他人に愛を説くひまがあったら、まず自分を愛せ。
赤の他人に愛を説くひまがあったら、まず家族を愛せ。

地元の病院を思い出す。建物の横に螺旋状の滑り台がついている。
存在そのものが非常だ、と二度目に思った瞬間。

すべての区切り線は、人間が勝手に定めたものだ。
CGの世界にもトゥーンレンダリングが導入され、自然の景観が損なわれた。

何も考えていない、としらを切れば免罪符になる。
一生懸命になることって本当に愚かなんだ。ばかげているんだ。

インターネットでコミュニケーションが取れるなんて思ってはいけない。
単方向の書きっぱなしメディアじゃないか。

2006/01/10

まるで歯車のようだ。咬み合わなかったり、軋んだり、狂ったり。

闘争本能が渦巻く。誰と戦う必要もないのに、どうしてか血を求めたがる。
変わりばえのしない毎日を穏やかに過ごしたいと願う一方で、ズタボロにしたくなる。
物を壊したり、弱者をなぶったり、力の限り暴れることでの快楽が、多分にある。
避けようがないのかもしれない。強いて言い繕うなら、そういう民族だから。
けれど。もう二度と、利己的な欲に溺れて拳をかざすようなことはしたくない。
幾度となく目にしてきたから。ぼくが自分を抑えきれずに、してきたこと。
本来ならこんなところでのうのうと笑っていていいわけがない、呪われし重罪。
せめて、自分の中ではっきりと決着をつけておかなければ。凶暴性の封印によって。

時間はただ流れゆくものだなんて、流転するものだなんて、子供じみた言いわけ。
そうではない。時間は自力で動かすもの。自在にとはいかないが、螺子なら回せる。
自身を律するということ。時間を有効に使うということ。平たい表現ならいくらでもある。
支配するのは己のみでよい。それすら出来ないことが常なのだから。欲など出さずに。
モラトリアムの時期が、何とも言えず翳っていたように思う。堕墜に甘んじる不実な日々。
何となく心地よいが、いつまでもここにいてはいけないという、漠然とした危機が迫って。
ただ、それだけでは脱出に躍起になりはしない。しかして劇的な転換があった気もしない。
だからきっと、年相応の緩やかな肥大だったのだと。ゆっくり押し出されるように、動いた。

切り離されているのではない。しかし独立している。一人ひとりが、並行する光線となって。
保護された被膜の中を走るのではないけれど。受像器に拾われることもないけれど。
それでも、柱になる。頼りない天に向けて、豪語して、確立して、完全体となる。
地獄の底に垂らされた糸を逆立ちして見ているようだ。だから、奈落へ延びているのか。
縒り合わせることはしない。誰も救い出しはしない。強いとは、とても寂しいものだ。
それでいい。何でもかんでもがっつく必要はない。よりよくしようとなど、思わなくても。
自分の時間をただ生きるのみ。進化も退化もしない。ここで何も残さず滅ぶ種だから。
人間は未熟だから他人と寄り添うのだと。ぼくは、そういう生き方にのめれなかったひとり。

振り子がいつまでも乱れないから。歪めないから。だから振り落とされる。

2006/01/12

まあまあ次は私がおごるし。そんな口約束で。

そこにいるのは、自分だけではなかった。それどころではなかった。
人がひしめく、夜の繁華街。眠らない街。カルチャーショックさえ覚えるほどに。
すべての喧噪が、うわごとのように聞こえる。貝殻に耳をあてたときの音のような。
言葉として意味をなしていない。日本語なのに。さながら異世界。新世界。通天閣。
そういうものが、チカチカと瞬くネオンランプの光隙を縫って飛び交っている。
ここでもし大声を出しても、もしくは気を失って倒れても、誰も見向きもしないだろう。
けたたましいくらい賑やかなのに。その場所を、とてももの悲しいところだと感じた。
すべての存在が軽々しく思えてくる。自分の心配事など、さらに取るに足りないものではないか。

嫌疑。疑うことから始まった。ぼくが人間関係をこじれさせる常套手段だった。
何も深読みして考えなければ、まったく健全な仲でいられたはずなのに、といつも思う。
いったん猜疑心が芽生えだすと、摘んでも摘んでも、枯れるどころかいっそう青々と茂る。
どうしてこんなに脆いのだろう。誰も自分に悪意など向けていないと、なぜ信じられない。
いや、そうではなかった。闘おうとしていた。勇気を何度振り絞ったことか。
本当は信じたいからなのだと。信用したいがゆえに、ふと浮かんだ些細な疑問すら口にする。
そこで嫌悪されるなら所詮それだけの関係。今までは、そう考えていたけれど。
そもそもそこが落とし穴だった。せっかく根ざした苗木を、わざわざ引っこ抜くのだから。

過去のすべての失敗をフィックスして、その集大成として会っているように感じられた。
あらゆる経験が糧になるとは思わない。無意味なことや報われないこともたくさんある。
成功すれば無論報酬を得る。失敗から学ぶことも多い。困るのは、成功も失敗もなかったとき。
だが、無を恐れて何も行動を起こさずにいることが、結局は無を招くことになる。
自分のことを特別だとも思えないが、その一方で、他人と同じようには生きられないと思う。
最大限の譲歩を引き合いに出しても、ぼくをわかってもらうことは叶わないだろう。
欠けているのはただ一点。積極性、これに尽きる。見せることも隠すことも含めて、主導する。
だから、もう一度扉を開いた。はぐらかされたままで終わるのが、どうしても嫌だったから。

みんな口実。貸しを作れば次の機会を設けやすくなる。だからわざと、あんなことをした。

2006/01/17

やっと痛感した。ただ一人の絶対悪なのだと。

いつからか離れてしまっていた。その起源を追うことももはや叶わないくらい、遠く。
もともと駄目だったのだろう。距離が空いた時点で、どうしようもないハンディキャップ。
「気づき」は確かにあった。自分が犯してきた過ちや、忘れてはならないものについて。
とんでもないことをしてきたと。取り返しのつかないことをしてきてしまったと。
だが後の祭り。壊れたものは修整がきかない。自分は愚かだったと悔いるより、ほかには。
誰が定めたわけでもないのに、誰もが、気がついたら自分固有の枠にきっちり収まっている。
自分にはこんなことできないとか、こういう生き方しかできないとか、簡単に決めつける。
ちょっと玩んだくらいで、己の何を発見したつもりなのか。自分で自分に法や則を宛うなんて。

自分のことしか考えてない。それは基本的にはみなそうだろう。そういうことではなく。
関心を持てない。もしくは持とうともしない。世の中のさまざまなものに対して。
とくに問題なのが、他人。自分以外の人間に興味を示さない。最悪、自分のことすら。
相手のことを知ろうとも思わないから、話題のきっかけも掴めないし、記憶にも留めない。
そしてまた、他人と触れあうことを嫌っている。ハリネズミになって身を縮めている。
自分の内に築き上げた世界が多少なりとも変形することを、ひどく警戒しているのだ。
本来、人と人との関わりのなかでもみくちゃにされ、鍛え上げられていったはずの自我。
それを形成する場が失われている。口先だけの喧嘩ばかりで、本心からの論争をしていない。

だからなのだろうか。熟考せずとも楽に答えが手に入る環境に、慣れてしまったせいか。
なればこそ、思い改めなければいけない。現実世界にはフレームワークなど構築しえないことを。
他人にとって事実であったり有効な手段であっても、それが自分にも当てはまるとは限らない。
見ず知らずの人間から教わったことを、そのまま鵜呑みにしているだけではいけない。
自分で調べ直したり計算して、本人が確認しうる事実を見出す作業。それが勉強というもの。
情報化社会とはよく言ったものだ。膨大なデータや字句を、右から左に垂れ流すだけ。
人から聞いた話を、さも自分の見解のように他の人に言いふらす。そのフローを指しているだけ。
そうではない。個人の中にストックされた情報のみが真の価値を持つ。知識という財産になる。

身近な人たちのことを何も理解していなかった。それが裏切りでなくて何だろうか。

2006/01/20

何と言うことはない不安。そんな、生易しいものではないだろうに。

忙しさに追われる日々に、自分では一定の理解を示しているつもりだ。
心の平安を保つために必要な仕事なのだと、そう解釈することにして。
何も手を動かしていないと、体を動かしていないと途端に心許なくなる。
諦念的な荒廃した感情がぶくぶく太る。心の中で人と争ってばかり。
そこに陥りたくなくて、逃れたくて、時間を潰すことに躍起になっている。
自らを追い込む行為に没頭していれば、対象を他人に向けなくて済む。
こんなにも。いまだに、蝕まれて。漂う。さまよう。虚しいまでに。
ただやり過ごすだけの毎日から、どうして新しい一歩を踏み出せようか。

いつもそうだ。面倒なことから目を逸らして、火の粉を被らないように。
実際、多くのものを見落としてきた。見捨ててきた。何という頼りなさ。
誰も変わっちゃいない。本質なんて、そう簡単には。ぼくだってただの振り。
世渡りというものを学んで、自分の意見を主張する機会がめっきり減った。
何をしたいのか、何を考えているのかわからない。よく人に言われる。
自主性を持っていない表れだろう。こんなことで自立した成年だなんて、よくも。
けれど、それしか自分を庇う手段を思いつかなかったから。口をつぐむこと。
不用意に所信表明や約束をして、履行しなかった際の責任を取りたくない。

向こう岸に飛べずにいる、のではない。立っているのはすでに向こう岸。
決断を渋っているのは、引き返すこと。かつて自分で一度は通過した道を。
長い距離を後戻りしてやり直すことの手間を考えると、どうしても及び腰で。
そもそも、やり直したいなどと思い至ることが浅ましくて傲慢なのだが。
これまでのぼく。人の気持ちに無頓着だった。人付き合いを軽んじてきた。
その罰なのだろうか。拒絶されるつらさを、誰よりわかっていたはずなのに。
今さら思いやりを作ったところで、容易に取り戻せるものではないのだろう。
傷は、けして癒しにはならない。傷は傷。次なる傷を生む。そして傷つく。

ただ生かされるだけの役務。自分自身という、人生最大の失敗作を抱えて。

2006/01/22

だからせめて、自分の言ったことだけは実行しないと。

こういうギャラリーは苦手だな、と感じた。襖もないのに、閉じこもっているような空気。
針でも刺さないことにはガス抜きできないのだろうか。目に映るものをいちいち目障りと。
そして一人で反省会を始める。建設的な意見を出すメンバーがいないから、いつもうじうじ。
思い耽るとろくなことがない。気持ちがやせ細っていくだけ。こんな副産物まで捻る。
そうならないための環境づくり、基盤整備のはずだったのに。手段が目的と化してしまって。
何も崇拝していないから、何も信仰していないから。だから誓いの一つも立てられないで。
自分を信じるなんて選択肢、久しく放棄している。許諾されえないほど過失は多大で。
もしぼくに強い意志があるのなら、まずぼく本人をこそ導いてほしい。なんて白昼堂々と。

こんな姿になってなお、自分の扱いや出し加減を計れずにいる。情けないことだと思う。
人前で疲れた顔を見せることに躊躇はないのか。罪悪感はないのか。我慢を知らないのか。
不調だったなどと言い訳したくはない。すべてが本番であり、すべて全力で挑むべきだから。
それでも、息も詰まるような違和感というのはどこにでもあって。順応できなくてそのたびに。
いつから、こんなに簡単につまずくようになったのだろう。ジベタリアンになったのだろう。
もはや自分の足で歩いてすらいないのではないか。この日々が、ときどき非常に疑わしくなる。
本当なら励まさなければいけない立場なのに。自分から積極的になることがどうしてもできない。
そればかりか。平坦な道にすら挫かれる。あざ笑うかのように迫り立つ、招かれざる客人。

崖の先端に立って両手を広げる。後は身を投げるだけなのに、自信が持てなくて萎縮する。
誰かのために何かをしたいなどと望むことが自分にとってそもそも間違いではないのか。
何かを人に働きかけられるほど先導的な立派な人生を、果たして歩んでいるか。などと考えて。
そこまで思い詰めてはいないにしても、愛想を尽かされるには十分なほど遠慮深すぎると感じる。
結局、まだまだ発展途上なんだ。他人と関わることで自分も成長したい。自分も人を求めたい。
その気持ちばかりが先走って、似つかわしくない格好のつかないこともしているけれど。
一つわかっているのは、発言すれば何らかのレスポンスは得られる。しなければ、何もない。
未来には、答えは待っていない。答えならとっくに出ている。そこ目がけて飛んだ先にある。

だからせめて、その他大勢の人に謝っておかないと。

2006/01/25

道源が、あるのだとすればそれは。

24時間が自分の時間であるはずの、この生活。
なぜ毎日、こんなに窮屈に感じるのだろう。
なぜ毎日、こんなに億劫に感じるのだろう。
半ば生かされているような気分に陥るのは。
何かに邪魔をされているとか、何かに妨げられているとか、恨んで。
上手くいかないことがあるたびに、自分以外の何かのせいにして。
不幸だとすぐに口にしたがる。自分だけが哀れな目に遇っていると。
努力や苦労が報われないなんて、まったく自然の理なのに。

そんなときだから、少しの笑顔にも心が弾む。
照れ笑いで口元が緩むときのような、ふっという息を吐く。
知っているんだ。ぼくは、わかっている。
どうすれば自分が温もりに包まれていられるか。穏やかでいられるか。
そして知っている。どうすれば心のゆとりを失って荒むのかも。
わかっていてやっている。生まれたり死んだりを、繰り返す。
その気になれば、いつだって。いくらでも。なかったことにできる。
全てをリセットするくらいの覚悟でなければ、捨てられない。

昨日の自分は、もう自分ではないなどと考えているのか。
だからためらいもなく過去を殺せるのではないか。
歩んできた意思の一つひとつを、否定してしまえるのか。
なんと無責任なことだろう。自分の成り立ちを、何もわかっていない。
ドミノ倒しのピースでしかないことを。
今日の勢いを明日に繋げるため。背中を押したら、そこで息絶える。
一日でさえそうなのだ。人から人へ、親から子へ、生命の歴史そのもの。
連綿と続く時間の、ほんの一片。角など立ててはならない。

我を封印してはじめて、命として生きる要件を充足する。

2006/01/27

満ち足りた日々の終わりに、それは待っていると伝えられている。そんなお伽話。

どんなに探したって見つかるわけがない。希望を諦めない、前向きに進む者には。
そこは吹き溜まり。堕落しきって、這い上がる気力を失ってようやく入口へ辿れる。
何度も、足を突っ込んだ。自分の人生はどうなってしまうのだろうと、途方に暮れた。
いや。どうなってもいいとすら。だから易々と自分を棄てられた。粗末にしてきた。
無気力で。やらなければならないことは何かわかっているのに、手がつけられない。
ただ寝転がって物思いに耽るだけ。妄想の産物に、耽るだけ。それで消費する一日。
意志の弱さがどうしようもなくて、無性に悔しくなって、恥ずかしくも涙をこぼす。
明るく幸せで満ち足りた日々には逆立ちしたって届きそうもない。未来をただ呪った。

それはけして、自分を見失ってうろたえていた時代だけの話ではない。そう、今も。
時々訪れる。何の前触れもなく、意欲も気力も根こそぎ奪われて、立ち上がれなくなる。
きっとあの頃、サボリぐせがついてしまったのだろう。簡単に困難に屈する悪い癖が。
何をすることも面倒臭く感じる。何もしない、遊ぶことすらしない生活を、夢に見る。
こんなにも脆くて。突けば折れるほどのひょろひょろな決心しかなくて。目を背けて。
一人前になんてなっていない。こんな情けなくて腐った自分を誰に見せられようか。
自分で自分のことも奮い立たせられないのに。いったい誰に働きかけられるというのか。
この身こそが虚ろ。これまで生きてきた、仮初めの年月が虚ろ。発する全ての言葉が虚ろ。

あれもこれも、なんて手を伸ばさなくていい。だいいち、そんな余裕もないのだから。
人はただ生きているだけで尊いのだと。価値があるのだと。よく言ったものだ、と思う。
以前のぼくだったら、そんな言葉を鼻で笑っただろう。何もしないやつに意味はないと。
だとしたら、その嘲笑に真っ先に存在を抹消されるのは今の自分だ。とんだお笑い草。
ただ健康でいることや、ただ元気でいること、しかもそれを毎日キープし続けること。
それがどんなに難しいか。困難なハードルであるか。今の今まで気がつかなかったなんて。
後悔が襲う。これまで他人や自分に、どれだけの無理を強いてきたか。捲し立ててきたか。
もう、やり直しなんてきかない。地の底に足をついてしまった限りは。この病に朽ち果てるのみ。

だからこそあえて言う。頑張れと。ここで、このままで終わるわけにはいかないんだから。

2006/01/31

こんなふうに、潰えていくのだと思った。今日もまた、ひとりのひとが。

心が荒れていた。鬱ぎ込んでいた。変わり映えのしない状況にただ息をついて。
そんなことだから気づかないのだろう。すぐ身の回りで起こっている異変にさえ。
意味は違うが、シンクロしていた。どこかで通じ合っていると、高を括っていた。
今と変わらない同じ日々がこれからも続くのだと、漠然とそんな気がしていた。
馬鹿みたいだ。何となくなんて感覚をあてにして、何もしないできたのだから。
いつかは閉じる時が来る。別れ別れになる。その日のために、絆を結ぶことを。
信頼関係など一朝一夕に築けるわけもないのに。努力を怠ってきた、これは報い。
今さら繋ぎ止めておけるはずもない。この日を境に他人になるから。無関係だから。

また同じことの繰り返し。後悔の意味を、重大さをわかっていないからこうなる。
失ってしまう前にもっと何かできなかったのだろうか。頭を抱えたってもう遅い。
いつも似たような状況で立ち往生する。気づいたときにはすでに修復不可能で。
排反で起こる事象なのではない。すべて内部的に推移している。壊れる音を聞く。
その一方で、この冷淡さこそが世界の実状なのだとも。そうわかりかけている。
万物は死に絶える。そして新たに息吹く。願えばそれだけで簡単に転生できる。
泥水を張った水たまりが底なしに深くて、別の時空に続いているかもしれないし。
あるいは、落ちた先は永劫の闇かもしれない。どちらであっても、大差はない。

そんなとき、ふと自分のことについて浸ってしまう。ぼくの現在や未来のこと。
考えるだけ辛くなるから、それとなく避けて、考えないように生きているのに。
日に日にひとつまたひとつ失ったり破損していくばかりで、何も作れていない。
実りのない毎日と言えばいいのだろうか。あるいは意味か、理由か、大義か。
楽になりたいとは、思わない。適度に不便で満たされないことが必要だから。
だとして。この人生はどこへ向かっているのだろう。これから何を為すのだろう。
答えは出ない。だから惑う。頼りもなく、道しるべもなく。来月も再来月も。
命を賭して気づかせてくれた人がいるのに。その決死さえもう心には届かない。

毎日を反復するのは、それは昨日と今日が異なるものであるがゆえのことなのに。

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