[むかしのなぞ] 2005/11

2005/11/03

何を考えているのかわからないような行動ばかり取っているのは自分のはずなのに。

どこに行ってもうまくいかない。
落ち着かずにキョロキョロして、すぐに焦って慌てて取り乱して、そして失敗ばかり。
軽はずみな言動でいつも心配事を増やしている。自分で自分の首を絞めている。
あまりにも不器用で、簡単なこともできなくて、どうしようもなく情けなくなる。
この社会では損をするように仕組まれている。のではないか、という悪意を疑う。
だってそうだろう。へこへこと頭を下げて、そのたびに恥ずかしい思いをして。
利己的に欲張る人間が威張っていて。肩肘を張らない人間の肩身が狭くて。
何も主張をしないのはそんなに劣っているだろうか。ぼくはつまらないだろうか。

仕事であれ責任であれ、人から何かを求められたり期待されることに疲れて。
別れの挨拶も引き継ぎもなしに逃げ出した。事あるごとに。ことごとく。
何か人の役に立つことがしたいとは思わない。うわべだけの奉仕欲などない。
それよりも、自分がただここに存在いるだけで一定の意味をもたらせるようにと願う。
誰かが誰かを守るとか、幸せにするとか、そういう押しつけがましい使命ではなく。
共存共生とは互いに向き合うこと。まずはそこから。心の通わない絆に意味はない。
人のことをわかったつもりになっちゃいけない。人のことなんてわかりっこないんだから。
この人はこういう人なんだと知り、そして受け入れられるようにする譲歩こそ重要で。

このところのぼくは、とても傲慢だった。おこがましいことばかり口にしてきた。
反省しなければいけない。自分の立場もわきまえず過ぎたことを言ったと。
世話を焼かれたり同情されたり。他者の介入は自分が誰より鬱陶しく思っていたはずなのに。
あっさりと自分の不文律を裏返してしまうような、判断力が鈍った状態だったのだろう。
では何のために警戒を緩めたのか。安全なものを識別するセキュリティでもあるのか。
冗談もいいところだ。自分自身が最たる危険人物だというのに。何に怯えるというのか。
過ちだった。認識は共通している。それを戒めに向けるか贖いに向けるかという葛藤。
相手が求める最適な自分でいられるためにはどうすればよいだろうか。たとえば今日は。

反応が見えないとこうも不安になるものか。それがそっくり、きみを傷つけた。

2005/11/07

マクロ視点でちっぽけなのではなく、ミクロ視点でちっぽけな存在である。

カラスが屋根の上を歩く。ケトルが蒸気を噴く。お守りについた鈴が揺れる。
身近な風景にありふれた音を、あまり聞かなくなってきたような気がする。
聴力が鈍ったというわけではない。日常に耳を傾ける意識が薄れたためだ。
身の回りのもの、当たりまえのものから、徐々に好奇心や関心が薄れていく。
音は偶発的で言葉も持たないから、情報量や伝えるメッセージには乏しい。
だから耳をそばだてなくなるのだろうか。意味がないからと切り捨てて。
それは恐ろしいことだ。世界の一部を感受できなくなっているのだから。
それは悲しいことだ。一日一日を愛する心が廃れてしまっているのだから。

最低だ。今日も散々だった。前も見ず後ろも見ずただ嘆くばかりの日が。
堕落しきってふらついて、生きたうちに入るのかもわからないくらいの虚無。
怠け者で意志が弱くて。どうしようもなく動かなくて。それを改めたかった。
次は頑張ろう、今度こそ立ち直ろう。誓っては潰えて奮起しては挫折して。
腐った生活と少しだけまともな生活とが。死んだり生きたりを繰り返すかのように。
何度でも新しく生まれる。しかし、決して生まれ“変わる”ことはない。
先が読めているのに。同じところでまたつまづいて、泥沼の末路を歩かされる。
そして失った時間の膨大さばかりが立ちはだかって胸に重くのしかかる。

目新しいことなんて何も思い浮かばない。危機的状況なのかもしれない。
こんな毎日が楽しいだろうか。楽しんでいるだろうか。とても答えられない。
正直に生きようとして、欲に溺れまいとして、心は豊かであろうとして。
そんな目標はむなしく聞こえるだけ。空気を相手に拳を振り回すようなもの。
具体的に何をしたか。いつどこにいたのか。一向に書けないではないか。
それこそが証拠だと気づいたから、とても下らないものに思えてきてしまった。
ぼくのやっていることなど。孤独ではない、寂しくない、という必死の遠吠え。
だから、区切り線を設けてここから再出発しようなんて無駄なあがきなんだ。

特別でないただの自分。だからこそ、もう頼れるのは自分しかいないのだと。

2005/11/10

目覚めが欲しかった。本当の自分などというものが眠っているという仮定で。

いつの世も、重圧というものは。どれだけ遠ざかっていても感覚は薄れないらしい。
よくも悪くも静穏を妨げる夜明けを招く。いや、よいことなどどこにあろうか。
けたたましく鳴る電子音が息の詰まる会議へと誘う。仕組まれた実質上の強制参加。
心に期するものなどない。声は裏返りはしない。胸の奥から叫びなど哮ることなどない。
それなのに。疑問を抱えたたった一人を置き去りにしたまま議事はよどみなく進む。
そして気がついたら、もう自分が手を挙げるしかないような状況になっていて。
ああ。うんざりする。場を丸く収めるために身を削る自分に。嫌っていたはずなのに。
同情の視線が痛々しい。そして誰も手を差し伸べない。またひとつ、孤立する要素が。

ぼくは我慢なんてしていない。自ずから進んで何かしたいと思うことについては。
そういった意思や気概がないだけだ。関心のないことには一切目を向けず無視する。
どんなことにでも好奇心を抱くのは大切なことかもしれない。子どもにそう教える。
だが大人はどうだろう。面倒くさがって、耳を塞いで、道を諦めて。その繰り返し。
ラッシュアワーの人波で渦を巻かないように、流暢にたゆたうことが模範とされて。
足を止めて道端のものに目をやることは、それだけで反社会的分子だと敵視される。
だから、強いて挙げるならそういった抑制の中に生きること自体への反骨心だろうか。
あえて凝り固まっているのは。蝕まれていると自覚するほどに身を縮めてしまう行動は。

夢中になったとき、つい、キャパシティというものの存在を忘れることがある。
心身の限界を超える量の作業をして、力を使い果たして疲弊してしまう。計画性のなさ。
だが、それくらい物事にのめり込めるほうがよいのではないか。そんなふうにも思える。
少なくとも、何もしないことよりも何かをしていることに意味があるから。重きがあるから。
ふんぞり返っているだけの人間が、懸命に取り組む他人の姿をどうしてとがめられようか。
人を突き動かすのは威厳や命令ではない。自ら行動し結果を残して初めて人を従えられる。
頑張れ、という激励が人を傷つけることもあるのだと、きちんと知らなければならない。
言葉はときに高飛車で無責任だから。簡単に気持ちを表明できるぶん、取り扱いもまた難く。

今起きて見ているこの姿態が紛れもない現実なのだ、真実なのだ。いい加減目を覚ませ。

2005/11/13

きれいな色。泥や藪や土煙にまみれた、そこにしかない色。

夜どおし花火で遊んだ後の火の不始末のようなものだった。
ぼくたちは。燃えきらずにくすぶった火薬が発した幼い声。
背後に多くの事件を抱えていて。笑えない笑顔を浮かべて。
過ぎ去った時間への後悔として。何度も履行されるけれど。
それでも、紛れもない事実を見ない振りなどできないから。
身構えず自然に接していられる関係にありがたみを感じて。
そして気づく。暗号化せずに伝送していたこと。久しい間。
もうどこにも残りかすはない。秋の夜長の夏の空に舞った。

どうにもならないことも世の中あると、わかりかけてきて。
たとえば、看過。たとえば、憤慨。単にエネルギーの浪費。
振り返ってばかりいてはそのうち進行方向も失念しそうで。
理由を考えるのに飽きたら、物事がシンプルに見えてきた。
楽しんでいられることは、それだけで尊い時間なのだから。
幸せだと思えることは、それだけで豊かな瞬間なのだから。
虚無の快楽に溺れているのだとしても。邪魔されたくない。
一人ではないという陳腐な実感から、もたらされる未来を。

大抵の色は思い出せる。白と赤。何かを刺激するベースだ。
そこに起伏を求めたり審美眼を求めたり、求めなかったり。
新しい催しが始まる前のわずかな不安が、不思議となくて。
だからきっと正しいと言える。こんなにも満ち溢れるから。
愉快に生きよう。我慢せずに。恋をして。いろんなものに。
驚けるから。自分が大声で驚いた事実に、驚けるのだから。
楽しく酒が飲めるようになった。たとえばそれも成長の証。
短所や悪口に悩んで気を取られてばかりいないで、と思う。

光り輝いている。そのまばゆさに、醜い自分は浄化される。

2005/11/15

一歩踏み出す前に足下から崩れ落ちてしまうほど弱くて駄目だった自分に見切りをつけて。

底冷えのする寒い寒い砂漠の真ん中に、いつ掘られたのかも知れない涸れ井戸があった。
周囲に村落の跡はない。砂に埋まっているのか。ならばなぜ井戸だけが顔を出しているか。
こんな世界のなれの果てに、彷徨える旅人だって道に迷って訪れることもないだろうに。
それでもぽつんとそこにある。穴の地中奥深くから無限に空しい星空を見上げている。
底に水は溜まっているのか。水面に映した月影を揺らすのが唯一の楽しみなのだろうか。
きっと誰とも触れ合わないが、きっと誰よりも多くを知っている。きっと星座の羅針盤。
覗き込んでみたら、中に何が見えるだろうか。無数の星が巡廻する逆さプラネタリウム。
地上のどこかにあって、けれど何人たりとも辿り着けない場所に。万象を蓄え携えている。

毒など存在しない。毒素など体内に溜まらないし、舌の根の乾きを阻止することもない。
冒されていると感じるのだとすれば、自分にとって何らかの害をなすものと判断しただけ。
つまり、体内に取り入れた物がよいものか悪いものかは、個人個人の主観で決められる。
たとえ人体の健康を脅かそうと心を傷つけようと、そういった作用をもたらすだけのもの。
他人あるいは自分を殺害することを目論む人間には、毒薬は有用な目的物であるのだし。
しごきのような自虐で罰を与えるのも、それで本人が納得しているのならそれだけのこと。
だから気にしなければいい。降りかかる火の粉はいちいち払えばいい。手ずから自分で。
たかが主観、耳を貸さなくても。真理は世界のどこか、かの井戸の中にあればそれでいい。

そうやって無視して無視して生きてきた先ではまった隙もまた現実だと説かれればどうか。

ぼくは自分をとても汚らしい生き物だと思っていた。心の汚れた部分を取り去りたかった。
そのためには何もかもを洗いざらい吐き出す必要があるのではないかと、そう思っていた。
ずっと書き続ければ、惨事そのものは消せなくても、その重責を軽くできるのではないか。
その一心だった。しかし、ふと指が止まる。立ち止まる。本当にこれで合っているのか。
人前にさらそうがさらすまいが、人目から匿おうが匿うまいが、事実は変わりはしない。
最近では、心の暗い部分よりも明るい部分をこそ隠したいと思うことさえある。不思議と。
自分の中で何かが変化している。何かを感じて始めている。もう終わりにしたらどうだと。
ただそれは、心の二面性を捨てて自身に正面で向き合おうとするベクトルとも異なって。

一つの答えを与えるとするならば、万物を知る井戸は他のどこでもない、ぼくの中にある。
自分でもそれに近づくことも中を覗き込むこともできないが、存在だけは確かに、ある。
人によってはそれを自身や信念の拠り所にするだろう。人によっては神様と崇めるだろう。
そういうもの。ずっと前からあったから。映像を捉えられなくても範囲は絞られている。
究極的には、どうあがこうが自分は変わらないということ。そして、簡単に変われもする。
そこに思いを寄せる。後ろめたい気持ちがないのなら、もう何も隠す必要はないのでは。
とても人に言えない自分だけの秘密を、恥ずかしい痴態を、これからも持っていていい。
それが真に正直に生きるということだから。誇らしげに自分を推敲することはもうしない。

月明かりが照らした影の断片を切り取って闇のかなたに投げて入れておくような「すべて」。

2005/11/20

再びこの世に生まれてきた感想を、きっと話したくてたまらないんだ。

未踏の地を目指して足を踏み出した震える夜。サクッという雪の感触。
一歩二歩と歩いて振り向いて、さあどうだろうか。何を感じるだろうか。
具体的な表現などいらない。ただ慌ただしい。時間も忘れるほどの時間。
それでいいのではないだろうか。本来、こういうものであったはずだと。
報告の義務も提出の必要もどこにもない。お役所仕事じゃあるまいし。
大勢の人に囲まれることや親しくない人との会話に苦手意識がある中で。
一人でいることの孤独ではなく、集団にいることの孤独と対峙までして。
始めようとしている。この肌が赤く傷ついても。そして、始まっている。

人を疑うのではない。信じることだけでは強くなれないと思ったから。
ぼくだけがぼくのことをわかっていれば、何も不自由することはないと。
気遣ってくれる人もいるだろう。手を差し伸べてくれる人もいるだろう。
ありがたいと思う一方で、自分を甘やかさないでほしいと願ってもいる。
自分に鞭打つのではない。縛られていないと不安を覚えてしまうから。
励ますとか元気にするとか、そんな一時しのぎの治癒はもうたくさんだ。
不満や悩みを抱えたままいかに立ち止まらず歩き続けられるか、という。
気を落としてうつむいたら、次は壁に激突してのけ反るくらいの勢いで。

ブランクが空きすぎて、頭の中が空っぽになったようだ。歯抜けの記憶。
そんな状況下でも連綿と受け継がれたもの。大事に胸にしまっておいたもの。
忘れることはなくても、降りつもる日々に埋め尽くされるかもしれない。
それでも挑むのか。心の痣をさらして切々と痛みを訴える街頭演説に。
そして求めるのか。寂しさを愛などと取り違えた時限爆弾つきの行為を。
誰もが傷つく。泣いて過ちを悔いる。病んでいく。破壊と再生の中毒。
そんなふうに蝕まれていくのをもう見たくない。どんな人の悲惨な姿も。
大丈夫。見ているから。届かぬこの場所で。しっかり離れているから大丈夫。

だから誰にも話さない。本当に思い描くものなんて。満ち足りた世界なんて。

2005/11/21

何が自分にそうさせたのか。つまらない記憶をわざわざ掘り起こしてまで。

かろうじて、ピンポンラリーは続いている。生体反応という名の。
いつも嘆いてばかりだった。放置してきた関係の、断絶の深さについて。
もはや祈りは届かない。いや、祈りに委ねてなどいる時点で望み薄。
本当に重大なもの。他人とつながること、その接点を。無に帰して。
距離を言いわけにするな。隣近所の人間とさえ挨拶を交わさない時代。
時間を言いわけにするな。余裕を作る努力をしなければその程度のこと。
自分の求めるもののために、どれだけ必死になって奔走しているだろうか。
面倒がって軽んじていれば、それ相応の充実度までしか手に入らない。

忘れていたのではない。きっとそう。おそらく、同じことを言うだろう。
遠慮していた。きっとそう。けれど、気遣いなんてかえって悔しいだけ。
気持ちがすれ違って。噛みあわなくて。そして待つことしかできない。
だから、秘密などないのに何かを黙していると誤解されたりするんだ。
息苦しいまでに圧着した蒸すようなむかごには入りたくないとしても。
遠くからそれとわかるくらいの距離で、見ていたいものだってある。
ただその一方で、そんな自分勝手な立場なんて願ってよいものかとも思う。
自分には無用のものと一度は捨てた手札を再び欲しがるような策略は。

知っている。この先どこまで行っても、運命など待っていないことを。
今の生活環境のままで得られる幸福感なんて取るに足りないものだと。
だが、それは悲観ではない。諦めの気持ちからそう至ったのではない。
全ては自分の行動に従うものだから。日々を積み重ねて今があるように。
関わらなければよかった、なんて思ってはいけない。挑んだ成果だから。
日常にありふれているのに疎かにしているもの、見落としているものたち。
身近で待っている誰かに。自分を探している誰かに。向かっていこう。
どんなに冷たくて心ない人間でも、血は赤いし体温は36度あるのだから。

自分を変えられるのは自分しかいない。そのきっかけは自分では作れない。

2005/11/24

大事なことだと脅されれば脅されるほど、ぼくの心からは離れていく。

意見を語らなくなったことで、ずいぶんと気楽に生きられるようになった。
何も持ち合わせていないことにすればいい。譲れない主張なんてものは。
人の言うことにいちいち頷いて、そのとおりだと賛同したことにすればいい。
言い争いなんて醜いから。勝ち負けにこだわる人間をおだててやればいい。
特別に好かれることよりも、嫌われないことでよしとする自衛手段。
それで十分だった。自分にふさわしい量より多くを望んではいけないから。
そうしたいかしたくないか以前の話。ここにとどまっているべきなんだ。
これからも多分何も言わないだろう。薄のように無抵抗に枝垂れるだけ。

こことは別の場所に、今とは別の幸せがあると。作り話のような作り話。
耳にたこができる。転職や引っ越しや結婚を、お節介にも勧められてばかり。
きっと何もわかっていないんだ。そんなものはただの器でしかないのに。
重要なのは舞台を変えることではない。その上で何をどう演じるかであって。
どういう生活ができれば満足を得られるか、それは本人にしかわからない。
それを何も考えずに無責任に吹聴する。空想まじりの指図など受けるものか。
自分よりもそういう連中のほうが夢ばかり見ているのではないかと思う昨今。
ぼくは踊らされない。誘惑されない。本当に納得するものが見つかるまでは。

切り札は最初から持っていない。そもそも他人を蹴落とす機会がないから。
危険な場所に立ち入らなければ、窮地に立たされるような場面も来ない。
自然のままに生きることが、きっと自分の中では一番の美徳になっている。
目の前の現実を、ありのままを受け入れられるように、常にゆとりを持って。
さまざまな声に耳を傾け、柔軟に姿勢を変え、しかして芯は不動にして。
そして、強さとは自生。寄りかかることなく、しっかりと立てるように。
初めから高いところを見るのではなく、土台を固めてから上を目指す。
その際、体裁や見てくれは一切気にすることなく。誇らなくていいのだから。

ちゃんとわかっている。最終的には他の誰ともわかりあうことはないと。

2005/11/26

黒い歴史が自分にもあるのだとすれば、それはむしろ現在なのかもしれない。

星空を見上げるのがなんとなく好き、とつぶやいた言葉を思い出す。こんな夜は。
暗闇の中、ひとり自転車を走らせる。
先ほどまでの温かな時間が嘘のように思えてきて。けれど確かにあって。
いつまでも浸かっていたらとろけてしまいそう。幸せだから、離脱したかった。
これから季節は本格的な冬を迎える。やたらと夜の冷え込みが厳しくなるこの地も。
そのための予行演習なのだと。すべてのことが、そこへ向かう準備として。
習慣になってしまえば、空気の冷たさにも痛みを感じなくなるだろう。寂しさにも。
そういう人生を送ると、もう決めている。

公開された日記だから。ここにさえ、本当に本当のことなど書けるわけがない。

2005/11/30

すでに歌に閉じこめたはずなのに。何度でも棺を開けて蘇ってくるものは。

今日もまた、探してしまっている。
すれ違う道々。駅のホーム。居合わせた店。そして汗を流す間にも。
それらしい人影を見かけてはちらりと顔を見て、そしてため息。
情けないくらいに。浅ましいくらいに。見苦しいくらいに。その繰り返し。
明らかに可能性のない場所まで調べている。地図も持たずに闇雲に。
何を追いかけているのか。追いかけて、一体何を挽回しようというのか。
そんな無意識の不可思議な行動によって、逆算的に思い知らされるのだ。
未練を。捨て切れていないことを。

もう、数としてカウントできない。
それほどに溝は深く。亀裂は方々に伸びる枝のごとく。ひび割れている。
一日また一日と、一人の時間が続く。思い出すことを、何度となく忘れる。
それでいいと思おうともした。出会う前の状態に戻るだけのことだから。
現金だ。ぼくは。自分や自分の趣味に無関心な人を相手にしようともしない。
自分を知ろうとしてくれる人だけを周りに置いて、天狗になっているだけ。
そんなだから、いつまでたっても本当に望むものには辿り着けないというのに。
とっくに終わっていることなのに。

不満が募って、敵対心ばかり膨らむ。
この時間の間隙に、いつもいらついていた。どん底にまで失望させられた。
ブランクが長すぎた。だからもう、復縁することは現実的にないと思っている。
頭を切り換えなければいけない。最初から交わりなどしなかったのだと。
報われない待ちぼうけをいつまでもしていたって、いい加減しょうがないのだと。
だがそれも、結局同じパターン。次に取りつく島の目星をつけたというだけ。
向けるのは悪意や恨みや、そんなお決まりの裏切り。きっとまた。いつだってそう。
いとも簡単に、気持ちを踏みにじれる。

きみを殺そうとしているのではない。記憶の中のきみを消そうとしている。

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