[むかしのなぞ] 2005/09

2005/09/02

生存競争を模した自己主張のぶつけ合いの果てに。

どうしようもない不安に駆られることがある。
自分が存在していない世界。
生きるとか死ぬではなく、存在自体が初めからなかったことになっている世界。
きっと世の中は何も変わらないだろう、と思う。
淀みなく、つつがなく。流れていく時間。不純物の一つや二つでは惑わされない。
ぼくには堰き止めることはできない。
誰の心の水面にも波紋を投げかけることはできない。
だから自分はいなくなってもいい、と考えるのは安直だろうか。

生きている、んだと思う。たしかに生きてはいる。
それを実証する手段は、独りきりでパソコンに向かって文章を打ち込むことではない。
盲目的に頼っている。実体のない触れあいに。
温度がなくてもそれをそれとして見分ける。それは自分の頭の中でそう考えているだけだ。
日々、想定応答集を作成する作業。
スクリプトのような決まりきったパターンでしか会話をしなくなっている自分に気づく。
相手が誰であっても。面と向かっていようといまいと。ただエコーするだけ。
バーチャル世代だ。ゲーム感覚だな。

物事に価値や意味を求めることを軽視していたこともあった。
やっても意味がないとか、将来の役に立たないとか、そんな理由で食わず嫌いしたくなかったから。
しかし、一概にそうも言っていられないのではないか。
どんな経験も糧になるなんて、幻想めいている。
それにぼくはもう子どもではない。いつまでも成長できるわけではない。
選ぶことが、必要になってきているのだろうか。
ありふれた人間に帰化しようとすること。帰属意識の表れ。
やはり手放すしかないのか。ごめんな昔のオレ。

漠然とでも生きながらえていたいと思えるようになった、という進歩。

2005/09/06

それは何月の詞だっただろう。

揺り戻し。
後ろから髪を引っ掴まれるように、ぐいっと意識が過去の方向を向かされる。
それは懐かしい友からの誘いであったり、はてまた懐古に浸る幻想であったり。
昔歩いた道を懐かしみながら辿ってみたりしている。
自分の進行方向に背を向けること、後ろ向きであることを、恥じていたのかもしれない。
未来に向かって生きるのだから前だけ見ていればいい、なんて。
どうして簡単に得たものを手放すようなことを言ってしまえるのだろう。
正にその通りに。過ぎし日をけなして生きてきてしまったのだろう。

手元にあるものをなげうってでも欲しかったもの。
希望があるから、あったから、足を踏み出すことに躊躇しなかったのか。
だがその結果どうだ。取り返しのつかないふたつの過ち。
体と心をめちゃくちゃに蹂躙した。欲望の醜さをようやくわかった頃になって。
ぼく一人では事ひとつ円満に運べない。ろくでもない人間だと知ったに止まる。
度胸がなくて。意志が弱くて。会話ひとつ盛り上げられなくて。
どうしようもない存在と自覚したから、繋がりを保つことがたまらなく怖かった。
この罪が明るみに出たときのことを危惧して身軽になっておく必要があった。だから。

ぼくはどこにも戻らない。いかなる団体に属することも、断じて。
集団における自分というものを省みて、規律を乱すだけの厄介者だと思ったから。
けれど、塀の外でだって道は続いているし人とも会えるのではないか。
どんなに惑っていようといずれは時が引き寄せる。周回軌道を描きだす。
一本の道を手を繋いで歩かなくても、並行する道をそれぞれ歩いていける。
すべてを知る必要はない。簡潔にまとめて報告すればよい。より深層での理解。
そういうつきあいかたが最善だという答えに、到達することができたのだから。
もう安心してどこまでも引き返していいだろうか。追っ手は来ないだろうか。

桜の季節まで遡れば、きっと記憶もきれいに巻き戻っているに違いない。

2005/09/09

光と闇とは、けして対になって存在しているものではない。

遺言を何も考えていない。
それはきっと、いつその時が訪れるかまったく見当がつかないからだろう。
姿を消すそのときに。なんて言って託せばいいのだろう。
自分という面倒の種がひとつ消えるそのときに。
感謝の言葉なんて無意味。それは生前痛いほど感じ取ったこと。
お願いするような事後処理もなければ、いよいよかける文言など思いつかない。
ウェブサイトはすぐには消えない。一定時間放置される。
一瞬で抹消されるのは、自らそれを実行したとき。つまりは自刎。

どうして忘れてしまうのだろう。
どうして忘れられないのだろう。
こんなにも弱くて。あるいは強すぎて。適度に人に頼ることを知らない。
それは悪いこと。いけないこと。いつもそんな靄がかかって足が止まる。
逆転の発想をさらにひっくり返す。いとも簡単に。表裏なんてその程度のもの。
誰もが見放した水底へずぶずぶ沈んでいくことへの、えも言えぬ安堵。
ぼくは排除されてしかるべきなんだ、と思う。隔絶されて、ただの存在として。
淀んでいくこと。粘っていくこと。いっそグロテスクに。中も外も。前も後ろも。

二面性なんて何も珍しいことではない。
鏡に映った自分の顔と、写真に写った自分の顔すら異なるのだから。
そうと意識すること、または主張することは、いっそ厄介なのではないか。
危険人物であることを露呈するようなもの。ぼくが気取ったのはそういうもの。
だから駄目なんだ。嘘などついてはいけない。最も基本的な信頼の約束。
明るい部分と暗い部分とがあるから物体は立体に見える。
人間としての幅や奥行きといったものは、その彫りの深さから生み出される。
それなのに。顔や肌や心にいろんなものを塗りたくってくすみを隠してしまう。

光が闇を照らし出すのと同様に、闇もまた光を浮き上がらせるのだから。

2005/09/10

それで最後なのか。

線引きの難しさ、というひとつの類型がある。
ここからここまでと明確に間隔を区切れるか。
勝敗がはっきりしているか。その審判は公正であるか。
ギブアップは認められているか、などなど。
進退の判断基準がはっきりしているものほど、人はそれに積極的に挑める。
そうではない、ゴールも採点方法もわからないものには、えてして戸惑う。
たとえば人生。こうすればいいというものはない。だからあてもなく彷徨う。
そして大抵の場合、自分のことさえ考えればいいというのでもない。

戦争反対とは異口同音の決まり文句だが、その重みをわかって言っているだろうか。
自分が面倒なことに巻き込まれるのが嫌だと思っているだけではないのか。
非戦闘状態と比較して、いざ戦争となれば世の中なにかと煩雑になる。
行動が制限され、税金が増え、自由を奪われる。今の便利な生活を失うという一点。
いわば被災者気分。せいぜい被害者たる一市民としての自分しか想定しない。
そんな生ぬるい話などどうでもいい。もっと悲惨で陰鬱で執拗なものなのだと。
政策や主義や国民感情の名のもとに人を鬼に変える。同族殺しのおぞましさ。
悔恨や憎悪は子々孫々まで何十年にも渡って受け継がれる。まったくの好例だ。

終わりがないからこんなことになる。
みんなでこうしよう、という共通の目標さえあれば分かち合えるのに。
それがないから憎しみを抱く。途方もない将来を見越して資源を略取する。
誰もが不安の中であえいでいて、その結果心が乱され思考が狂わされる。
なんで誰もがこんなに一生懸命になれるのだろう。
これは誰かのためだなんて平然と心にもないことを言えるのだろう。
自ら働かず他人のものを奪うという行為が、実は最も賢いのではないか。
ぼくも狂いかけている。人類として生まれた以上、例外は一切認められない。

お涙ちょうだい、という金策。

2005/09/12

シュプレヒコールというラブコール。

きつく閉じられたままの心。
息を吹きかければ目を覚ますだろうか。
偶然通りかかった誰か、では悲しすぎる。
素直でなかったことなど一度もない。
降臨を願い一心に祈りを捧げる横顔。
もし、誘い出してほしかったのだとしたら。
今となっては何の言い開きも無用。
ぼくにはその資格がなかった。

繰り返す過ち。ひたすら愚かに。
遠い日ばかり。心のふるさと。
空を見下ろして。地の奥深き底から。
旋律を奏でる弦。鼻毛を抜くように。
叫ぶことになり。業界の方針から。
このままでいたい。不変の前提でもって。
滑り落ちた岩肌。鯉を植えよう。
何度もすれ違う。生きている限り。

一番純粋な感情を忘れかけていた。
自分に気づいてほしいと望むこと。
小さな変化でも、小さな達成でも。
誰かにそれを見つけてもらいたかった。
どうして今さらになって気づくのか。
優しさなどわからなくてよかったのに。
たったそれだけの、けれど重大な。
閑寂な往復の中をかすめた一筋のきわどい光明。

つかまえてごらんなさい、と誘って。

2005/09/16

望む結末を自ら引き寄せたのだとしたら、とんだ疫病神なのかもしれない。

笑えない冗談を口にすることを、誰に言われるでもなく避けたがる大人たち。
それは言霊というものの存在に、その魔性に気づきはじめたからではないか。
軽い気持ちで発した言葉が現実に訪れようなどという馬鹿げたことを。
目に見えない現象や不確かな迷信を、むしろ一因としてとらえだしている。
無論、言ったことを実行に移せる行動力を得たからこそそう考えるのだが。
悪気のない悪口ひとつで人が死んだり殺したりする世の中だから、なおのこと。
だから現実主義とからかわれるのだろう。次の瞬間の予測のもとに動くから。
甘ったれた空想やつまらない不満や絵空事の野心など、おいそれと語らなくなる。

そうした束縛が、いっそう予言の魔力を確信的なものへと変えているというのに。
民意が社会を動かす。それが政治家の詭弁であろうと、結果世の中は立ち回っている。
むしろ市場原理。需要があればそれに応えるための商品がいずれ作り出されるように。
誰かが望んだり口にしたことは、意図的でも潜在的でも、何者かによって執行される。
周囲と同調することや目上の人間に従うことを求められ、行き詰まった空気ばかり。
そこに何らかの風穴を開けたいということは、おそらく大半の人員が考えていよう。
現状を打破する方策を模索するとしたら、まず保守勢力の締め出しに向かうだろうか。
目立つ行動をすれば簡単に目をつけられる。誰のものともつかない攻撃が一斉に。

陰でそのマーキングを施した張本人がぼくだったとしたら。仕組まれた捕物帖だとしたら。
いわれのない理由をこじつけるなんて、案外造作もなかった。例えば一通のメールでも。
それが総意だと、集団の誰もが暗黙に期待していることだと、とんでもない誤解をしたまま。
裏工作を続ける日々。結審の日には、その成果が表の状況証拠として提示されるであろう。
長い時間、そういうことをしてきたんだ。人を恨むという、最も基本的な誤った感情のもと。
それがこんなことになろうとは。排除は目論んでも存在自体まで否定するつもりはなかった。
この場から消してしまいたいと思っていたら、まさか本当にそうなってしまったなんて。
分離したままの心がそれぞれ勝手に悲鳴を上げる。同じ砂を描きなおすなんてできない。

死ぬべきはぼくなのではないか。逆恨みで人を嫌って自分も嫌悪するしかできないのなら。

2005/09/19

別れの寂しさなど、せいぜい一晩かぎりのもの。

忌み嫌っていたのではないとしても。
もう何の感情もこの心に蘇ってはこない。
そういうものだ。あっけないもの。
わかりあう努力も機会も足りなかった。
少なくとも、ぼくたちの関係性は「その程度」と言って切り捨てられるほどだった。
これまで会ってきた時間の中で、そこまでしか進めなかったということ。
こうなってしまったぼくにとって、いわば最後の切り札だったかもしれない。
それを、と惜しむ気持ちもある。だがそれ以上に望んでいなかった。明確に。

ミスをした瞬間、糸がほつれる瞬間なら、幾度となく目にしてきたと思う。
他人と意見を闘わせることに疲れて、会話そのものを避けて生きてきた。
そんな及び腰のぼくに、いつも容赦がなかった。平気で人を踏みにじる。
自分とはそりが合わない人間の典型例だったから、その型にはめたっきり。
はっきりとわかった。誰もいらない。
誰にも触れられたくない部分が心の中にある。
手の内を明かして墓穴を掘るのはこりごりだ。
だから、どんな質問にも口をつぐみ通した。

その口を無理やり開かされて押し込まれた。苦いものが注がれるまで。拷問同然に。

人にあれこれ心配されたり、身辺のことで同情されたり、それが無性に悔しくて。
見せかけだけでも強く生きようと、一人前になろうと。そのことにばかり必死だった。
特別なものなど何一つ持っていないことに気づいたから、というのもあっただろう。
自立することや、人に頼らないことは、自分にとって人一倍重い意味を持っていた。
断ち切れえない関係を否定するため。絶対の命令に逆らうために。従わないために。
涙を見せられるたびに辛くなる。情に流されそうになるのを毎年のように堪える。
甘えてしまえばいいのに。何度自分に負けそうになっただろう。それはできないんだ。
今になってようやく、こんな生き方を頷けるようになった。ぼくはやっていける、と。

何年もかけてたどり着いた答えを、いともあっさりと鼻で笑ってくれた。
その悔しさがわかるか。いや、もとより人から誉められることはしていないけれど。
それ以上にこたえたこと。わかるだろう。自分自身よりもかけがえのないものを。
触れてはならない糸だったのに。その瞬間、敵とみなすしかなくなった。
最低限、他人の幸せのありかたにケチをつけるなんて禁句だろうと思っていたのに。
それを簡単に踏み越えてきた。ぼくと友人たちとの仲を否定された。侮辱された。
以後、一切の情報提供と交渉窓口を断った。自分と自分の大切なものを守るため。
これ以上心を侵されないようにするための防衛手段。かろうじて実力は行使された。

どうしようもなく屈折して堕落した人間だ。ますます誇れる。

2005/09/20

微妙にどの季節も醸し出さない、高級さだけをひけらかすためのシャンデリア。

前を見ても後ろを見ても人の波。あんぐりと見渡すだけの鱗のひとつの自分。
巨大な何かを造形しようとするように、奔流となろうとするように、蛇行する。
衣服や宝石や時計や家具や絵画や玩具や中華料理や。きりがないほどの調度。
群がる人たちの羽振りのよさといったら。不景気などどこの話だろうかと。
何階ものフロアをぶち抜いた背の高い看板を見上げてはぐるんと首を回す。
天井に何か吊されている。赤い玉、緑の玉、金銀の玉、星。薄空に瞬いている。
誰もが憧れる場所というのはこういうところなのだろうか。気品があって上品で。
問題は、これだけ多くの人間がやすやすと願望を叶えていること。夢の住人として。

すぐに気がつく。自分は場違いなところにいると。立ちつくすこともままならない。
誰のための場所なのだろう。一部の人たちのものではないということのなのか。
現に自分だって入場だけならノーチェックだった。お客様という来賓になっている。
目が回ってしまいそうな広大なフロアを道に迷わず歩けるだけでも肝が据わっている。
息が詰まる。単に人混みに気圧されたというのではない。にじみ出るものの違い。
もっと言うなれば身分の違い。こんな高級感の中にはそぐわない人間がひとり。
ずっとくすぶっていた疑問。適応すべき社会の、出題範囲のあまりもの広さを。
機会平等とは名ばかりの篩が、いつでも不適格な人間をつまみ出そうと検問をしかける。

当然、そんなところで何もできるはずなく。誰もが楽しんでいるショッピングを。
何がそんなに楽しいのだろう、と疑いを持ってしまうほど。間違いは自分なのに。
それをどう言い表してよいのかも分類してよいのかも訴えてよいのかもわからない。
きっと耳など貸さない。心の病気ではないのだから。ただひねくれているだけだから。
性格や主張や、そういったものの差異や特質とはまったく別の次元で。
ぼくは誰ともわかりあえないだろう。誰にも理解することはできないだろう。
きっとこの世で自分だけが変な星のもとに生まれてきた。だから世の中がおかしく映る。
けれど多数派を非難する勇気はない。無条件の真理。この国はとても裕福なんだ。

と、天井のシャンデリアや高い階の看板ばかり見上げて文句を言っているだけ。

2005/09/25

走馬灯の手回しハンドルを根元からポキンと折ってしまうんだ。

これは危機への入口だと、早すぎる警鐘が鳴った。
まだ何も。言葉らしい言葉も交わしていないのに。行動らしい行動もないのに。
いや、あったのだろう。そういう人間だった。小さなことから徐々に取り入っていく。
よき話し相手として、よき理解者として。言葉の上でだけなら簡単に演じられる。
そして馴れ馴れしさをエスカレートさせる。“夢中”になっていることにも気づかず。
他人を嫌うのではない。他人の中に自分の一部を見つけるとそれがたまらなく悔しいのだ。
厭なものを見てしまうから。自分自身の欠点を突かれているようでいらいらするから。
自分にないものを持っている人間に惹かれるのも、きっとそれを忌避して安堵を得るため。

ぼくは、どうなのだろう。何かあるごとに主張をコロコロ変えてきた。
出しゃばりすぎて行き場を失って自分を保てなくなって、集団から逃げ出してばかり。
失敗の責任も取らずに後始末もせずに。一人隠れて被害者ぶってめそめそ泣く。
やりたい放題だ。だから、向いていないのだと思う。適さない。人にもまれて生きるのは。
迷惑をかけたくない、という気持ちは、けして他人のことを気遣っての遠慮ではない。
自分が面倒なことに関わりたくないから。これ以上、問題児として冷視されたくなかった。
それなのにどうだろう。すべてリセットしてやり直したはずの“ぼくの”これまで。
あちこちで浮かれて羽目を外してトラブル起こして。あまりにも愚かで笑えてくるよ。

あとは惰性で回り続けるだけ。コマ送りが止まって突っ立ったポーズで。

とりあえずとか何となくとか、そんな接頭辞をつけて行動することが多くなった。
自分の中に一本の太い柱というか筋の通ったものがないということを、実感させられる。
いわば骨のない軟体動物のよう。流れのままにたゆたうだけ。泳ぎを覚えもしないで。
人に罵られても揶揄されても、ただ黙って笑うだけ。自尊心がないから怒りもしない。
時間や季節の移ろいを綺麗だと思う。日が沈んで星が見えて風が吹いて草が靡いて。
だが自然を愛してはいない。雨が降れば窓を閉めるし、洗濯物に紛れたハチは指で潰す。
だから柳のように生きるというのも違う。外敵には抗いたい。花らしい花をつけたい。
分厚い皮とトゲを身に纏って。わずかの水だけで生き延びる。そんな“エコ”ライフを。

簡単に意見を曲げる。背を丸める。頭髪はくねくね。夜な夜な布団の中でくねくね。
このままここでただ朽ちてゆくだけの人生、と予感しつつ、やはり対策も講じることなく。
だったら逆に聞きたい。どうすればいい。どうすれば現状から抜け出せる。脱却できる。
誰かを“宛わせる”だなんて。弱くて依存した生き方を見つめさせるなんて。
歩いていた。懐かしさをひたすら追った。自分のマーキングの跡を嗅ぎ回る犬のように。
いつかどこかにいた自分なんて、もうどうだっていいのに。アクセスログになんて執着して。
現在に向き合うのが怖いだけだろう。それで回顧とか反省とかうそぶいて後ろ見てばかり。
何をうろたえているのだろう。人間を知らないからこんなことになる。言われたとおりだよ。

スリットから目を遠ざけて上から眺めれば、同じフォームを繰り返す永遠の輪廻がほら。

2005/09/29

これでは、かつてぼくを嘲笑していた人たちとなんら変わらないじゃないか。

敗者に当てる光などいらない。たしかにそう言った。
滅ぼされたんだ。血筋が断たれるくらいのことは覚悟していただろうに。
勝利は勝者にもたらされるのではない。生き延びた者にだ。
生きていればまたチャンスは巡る、なんて甘ったれたことは言わないが。
それでも、生存するということはとても強いことだ。この競争社会では。
わかるだろう、その重みが。無関心という罪で見殺しにした命の重みが。
踏み台にして糧にして勲章にして。人の上に人は立つ。
戦争なんか起きなくたってみんなちゃんと必死になっているんだから。

誰にもわかってもらえないような不思議な焦燥に駆られる。
日に日に、ぼくの変人度が低下してきているような気がしてならない。
変だ変だと言われ続けて育って、いつしかその言葉が誇りにまでなった。
それなのに今はどうだろう。目立たずに人並みに生きる方策ばかりで。
誰の真似もしない、誰にも真似されない人間に。そう願ってきたのに。
中途半端に格好を気にして、中途半端に世渡りなんてものを身につけるから。
自己評価とはいえ明らかにつまらなくなった。素凡に埋もれる体たらく。
無理めな夢なんか本気にして欲を出すからだ。あわよくば、なんて思ったか?

他人の中にアブノーマルを見出したとき、とくに強く己の劣化を感じる。
自分が気にしている差異などとても小さなことだ、と気づかされるから。
仲間外れにされることを今さら怖いと思うなんて。どうかしていた。
世の中、ただ生きているだけで不条理をこうむる人もいるというのに。
差別。社会に確実に存在している。人が人を蔑み、罵り、指さして笑う。
表面の正義感や法律では庇いきれない、人々の心を根深く巣食うものが。
それは平均化意識。異端を嫌い、ブサイクを嫌い、スタンドプレーを嫌う。
罪もなく締め出される人がいて。そしてそれをじっと横で見ているぼく。

こんな自分だから、と必ず二言めには言う。あまりに似すぎている。

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