[むかしのなぞ] 2004/03

2004/03/01

机に向かっていない日でも、ぼくは必ずどこかで筆を執っているから。

誰かと一緒にいる時間より、独りでいる時間のほうがずっと長いのに。
音楽を聴いている時間より、喧噪に埋もれる時間のほうがずっと長いのに。
触れられている時間より、ぬくもりを恋う時間のほうがずっと長いのに。
どうして満足でなどいられようか。幸せだなんて、言えるのだろうか。
年を経るごとに、体力は衰え、肌は荒れ、人間関係は薄れるばかりなのに。
このままでいたって、新しい世界がひとりでに開けることなどないのに。
毎日何かに没頭していないと息が詰まりそうで、心身が腐りそうなのに。
どうして永続など願うのか。今日の時間を、明日に引き延ばそうとするのか。

振りかざしているものが無滑稽だったから、自分の姿がより滑稽に見えた。
正義は、けして弱い者の味方ではない。
あくまで正しい者の味方なのだ。
それを知ってから、自分がつまらない意見にすがって生きてきたと思った。
道徳の教科書に書かれているような寓話なんて、誰もが平気で踏みにじる。
大人は痛いものを見せようとしないし、子どもは刺激と魔性を求める。
ぼくが口にしたり、思い描いたこと。それらはみな現実とは隔絶していた。
マッチの炎の向こうに想像を抱いたまま、冷たくなって死んでいくのだろう。

正しいとか間違っているとか。
常識だとか非常識だとか。
要領がよいとか不器用だとか。
分類することさえ、億劫になって。他人と見比べることも、怠けて。
それらは、自分の信条を守り通そうとして派生したものではなかった。
争ったり対立することが面倒だったから。主張なんて、したくなかったから。
それまで自分の特性だと信じてきたポリシーを捨てて、無になりたかった。
抜け殻どころではない。脆くて攻撃されやすい、脾臓だけが剥かれたままで。

自分を知るには他人とぶつかるしかないと、それだけは痛感した。
ぼくは数多くの失敗をしてきたけれど、だからって教訓を得たりはしない。
接しかたや考えかたは個人個人違うから。模範回答は存在しえないから。
だから、何ひとつ成長しない。だから、同じ無礼を繰り返してしまう。
親切や厚意なんて自己評価の範疇。重要なのは、相手がどう受け取るか。
それを見ないで慢心だけでシナリオを書いてきたことが最たる過ち。
この世には、ぼくひとりの声を聞き入れてくれる耳など余っていやしない。
届かないものに対して、もう、あえて歌いかけたりはしない。

それなのに、ときどき自分を晒けてみたくなったり。語り並べたり。
無内容なぼくにとって、それはとても烏滸がましいことのはずなのに。
顔の筋肉はすっかり凝り固まって微笑も満足に作れなくなってきているのに。
でも、どこかで心から笑いたいと願っていて。
どうしてだろう。手に入らないものなんか夢見たって、空しいだけなのに。
期待と失望。揺れて離れて。求めることへの恐怖は増幅するばかりなのに。
諦めきれずにいる自分がいることが、今はただただ憎らしい。
外界に意識を向ければ、またきっと、多くのものを壊すに違いないのに。

感情とは創作物だから。書き終えた時点で、練り上げた人格は死滅する。

2004/03/02

どこまで行っても行き止まらない。

これは、享楽なのだろうか。
自分を軽視して、茶化して笑って。
暴力的な態度を見せて罵倒したり、取るに足らないと見くびったり。
自分だけを世界から切り離してみたり、すべてを抱えて傷ついたり。
何らかのステップを消化してでもいるのか。それは何のために。
親に心配してほしくて、わざと非行に走る少年と変わらない。
それとも、己の過ちを忘れていないことの誇示なのか。
自分の体に呪いをかけて動きを縛って、それで誰の許しを請うのか。

解き放たれることは、もうないのだと思う。
すべてをなかったことにして、まっさらにして生きるなんて選べないから。
けれど、悲しみの淵に立たされてはいない。厳しく律しもしない。
ただ願うのみ。
浄化されること。ぼくが去った後の世界が還元されること。
そして、弛まぬよう。心を乱し、磁場を狂わせないように。
そのために必要だと思うから、傾倒することを遠ざけ、煩悩を排した。
毎日新たに発見される悪腫のようなそれを、ひたすら摘み取る作業。

この心を埋没させてしまえば、きっとこれ以上の不安に襲われなくて済む。

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