[むかしのなぞ] 2003/03

2003/03/01

すべては練習台でしかない。
すべては魚の餌でしかない。
すべては肥やしでしかない。
すべては生け贄でしかない。

人づきあいにおいてぼくたちが行っているのは、すべからくそういうもの。
別者との関係のためにある者との関係を献上する。比較する。話題にする。
純粋にその者への好意ではなく、利用価値を見出して近寄っているだけだ。
真に手に入れたいものへの目的も持たぬまま右から左へと信頼を売り捌く。

2003/03/02

狭苦しいバスタブにぬるめの湯を張ってぶくぶく潜りながら一日のしあわせを思った。
犯しつづけてきた非道と冷酷への重科にはあまりにも不相応なほど多くの悦楽と許しが与えられていてこんなにも満たされていると知り同時にそれがたまらなく申しわけなかった。

2003/03/04

思えば、喋りすぎた。
人体の構成元素を把握せずとも生活に支障はない。それ以外にも、自分についての多くのことは知らないままでもなんら問題はない。なかったのに。
正面から論破を吹っかけても勝ち目がないから許しを請う魂胆で卑下と謙譲の意を表する。ときには激しく叱責して。自分のやりかたを知りつくしているからよけい浅ましい。
関係のためでも規律のためでもなんでもなく、ぼくはぼくを保有するために寡黙たらねばならなかった。
必要以上に自己を規定してしまえばその箇所から自由度が減ぜられて首が回らなくなる。それはほらを吹きすぎて後戻りできぬ状況を作ってしまったよう。
あるいはことばに深く依存していたためだろうか、肝心の疎通はまるで進展が見られずにいた。
結局のところ、なにをも通いあってなどいなかった。だれをも信用してなどいなかった。
この口は災いしか生まない。ぼく自身にとっての。

2003/03/05

もっと早くにこうなってしまえばよかった。

責任の所在が明確にされていれば原因ははっきりしているのだからその点においては扱いが難しくない。中途半端に誰のせいでもないなどと擁護しあうから対処がややこしくなってくる。
ぼくは幸運に恵まれているのかもしれなかった。離合と集反がわかりやすい態度で提示され、それに追従するかたちで進退することができた。すべての原因は自分の中にのみ存在する、とあらばサーチの手間も省ける。
数々の背徳が、自棄を自棄たらしめてきた致傷が個別の事象単位で氷解しまたは風化して、ときには膨大な時間やせっつかれた忙殺に押し流されるように、しぶきの一粒一粒となって砕けていく。
ようやくになって包囲的な圧力に対抗するための武装を解いても害を被らないと政策の段階において自認できるほどになった。自己の内部での戦争状態は消えずとも、外交方針として生存の道を模索する最大限の努力を払える機会をかろうじてではあるが与えられた。
関係上の損失を低水準に抑えられたのは、皮肉にもこの自我の強さによるものだった。どんな醜悪な自己をも断たなかった、つまりはぼくのままでありつづけようとしたから失わずにすんだ。
他人と出会い触れあうことでさまざまなものが得られるが、別れのときはより多くの成長を概見できる。費やす労力に相関して、ということなのだろう。それは墓標となって道程にて光り輝きつづける。

非を詫びることも無礼を甘やかすことも自己崩壊への最短経路だった。

2003/03/06

わきまえる、ということの意味。

自分を知らしめることと魅せることはかならずしも同一の主張に依拠しない。
たとえば自分のことを話すのは苦手でも他人のおしゃべりに対して聞き上手であればそれもセールスポイントに勘定される。
謎めいた秘密の部分をもつことで人間としての奥行きが増す。どこか気になる存在、と思わせることもできるだろう。
さらけることに臆病なのを恥じることも、逆に誇示することも必要ない。そのままでもそれはじゅうぶんに特性たりうる。
無理にことばを紡ごうとしてかえってつかえたり心にもない冗句を並べてしまうよりは寡黙でありつづけるほうが大事だと言える。
それは自分をわかってもらおうとする目的からは外れるとしても、それでも。

おたがい受けと受けだといっこうに話が進展しやしない。

2003/03/11

関心のないふりをして。避けるふりをして。見て見ぬふりをして。
知らずに生きていけるのなら知らないままのほうがいい。よけいな選択肢を増やして迷うことはしたくない。逃げの一手とはそういうことなのだろう。
つまりは、自分の人生の経歴にこれ以上泥を塗るのを忌んでいるだけ。これ以上傷がつくのを恐れているだけ。ありもしない純潔を守りたがる完璧主義。
叶うならぼくの心がこれほどにもけがれる前に出会い、そして夢のうちに終わりたかった。

2003/03/12

夜空に広がっているのは、気の遠くなるような太古の時代に瞬いていた宇宙の姿。
光が届くまでのタイムラグが、足下で回りつづける現在の時間と、はるか頭上から送出される過去の時間とを同時に見せてくれる。
どこか彼方で恒星が膨張し爆発しても、それを地球上のぼくたちが知るのは何万年もあとのこと。
ひとつの惑星から見た宇宙というものは、何次元もの座標軸をともなう膨大な情報を、森羅万象の史実を、その無質量な空間のうちに包含している。

遠い遠い空の向こうの話にかぎったことではない。
ひょっとしたらこの世界もすでに滅んでいる、あるいは滅ぶことがすでに決定されているのかもしれない。
ぼくたちはそれが目に見える形で通知されるまでのごくわずかなリミットの中でひしめきあって生きている。
与えられた運命をまるまる受容してゆっくりゆっくり履行するだけだという意識も、じりじりとにじり寄ってくる時間の果てのその先にある影に怯えることもなく。

宇宙の絶対性や時間規模と比較すれば人ひとりの生涯や幸福や罪や裏切りなんてあまりにも微細で。
ただでさえ短い人生を、価値のないつまらないものに一喜一憂して浪費している。浮かれたり笑ったり、あるいは思い悩んだり、そんな猶予はないのだ。
次から次へと押し寄せる時間の向かい風に対峙するためには後ろを振り返ってなどいられない、それはそうだとしても。
それでもぼくは、これからの時間もやっぱりこうして過ごしていくのだと思う。痛みを引きずって、悪たる自分を恨んで、また何にでも恋をして、ひたすら無為に。

それに、人間は非力な存在などではない。
自らの星を本当に破壊できる力を、不可侵たる生命倫理を超越する背徳も持っている。
自らの同胞を、ときには愛する存在でさえも、自己存続以外の目的で傷を負わせてしまえる。冷たい刃は誰しもの心の中に、そして無意識の態度や言葉尻に見え隠れする。
あの星と同じ。煮えたぎる憎悪の感情が膨れ上がっていつかは爆発するんだ。

2003/03/13

秘密裏につづけてきた、後ろめたさをも感じさせるその関係は、たとえるなら密室のようなものだった。
誰にも見られていないという安心感が、やがて頭に悪事をよぎらせる。
諫められることも辱められることもなく、目の前の対象を自分の思いのままに扱える自由が与えられたとしたら。深層意識でうごめくありったけの欲望で、まみれさせられるとしたら。
そういう悪魔の自分を心に飼っていることが第一の誤りであるとはつゆ考えず。

相当量の制裁を受けたのだと思う。事実が白日に晒されることによって、加虐は加虐として認識され、そしてこれほどに打ちひしがれて。
真実は善で虚偽は悪。はたしてそうだったろうか。まったく正反対だったのではなかろうか。
自分の中にあるあらゆる正義が心を持たない鈍器のようで。一言発するたびにそれらは振りかざされて。
だからかたくなに口を慎んだり、ありったけの嘘や偽善や無関心でぐるぐる巻きにして封じておかねばならない。ならなかった。

2003/03/14

もともと余地などない場所に無理矢理に割って入ってドメインを奪いあう、そうした歴史の暴君のような略取の、横柄なそれのくり返しだった。
居場所そのものはコンセンサスなしに獲得しうる。だがそれでは足りない、その集団なり社会においてそれ相応の役割を、何らかの形での自分の足跡を残したがる。
たまたま人生の一時点でそこに立っていた、それだけのことなのにそこに因果を見出そうとする。運命、与えられた使命、その場所にいる意義、そんなものありもしないのに考えてしまう。こじつけてしまう。難癖をつけて自分のものにしたがるように。
なぜ、何かをしなければならないと思ってしまうのだろう。なぜ、自分はこのままでいてはいけないと思ってしまうのだろう。なぜ、誰かのことを、気持ちを、わかってあげたいなどと思ってしまうのだろう。わかってあげたい、だって。何様のつもりだろうね。

ほうら、必死になりはじめてきただろう。

遠ざかってしまうのがいやで。時間が経過して離れていかないかと不安で。このまま和解も謝罪もする機会が得られずに自然消滅していくことが、この肉体と同じに老いて朽ちていくことが、怖くて。
我慢できないのはなんと弱いことなのだろう。あふれ出そうになる感情をこられられないことは。落ちこむたびに、かつてこんなに悲しんだことはないと何度も。
このままつながりの糸が白髪のようにはらはらと落ちていっていずれすべてが事切れたようにぴたりとも動かなくなってそのときはじめて自分の本性を見ることになるのだろう。
過去の時間においてあれほど渇望していた孤独というものが、今は神経をみるみる細らせていく不安要素と化している。他人と異なる生きかたを選んできてしまったことが、たとえそうとしかできなかったのだとしても、これほどに悔しい。

2003/03/24

自尊への再起を逸した人間として。
結局のところ、自分を守りつつ他人を慈しむことなど、関係を繕うことなど不可能だったということ。
自分を犠牲にするなんて、口で言うのは簡単で実行するのも案外簡単で、そう思っているのは実際にはさして何も捨てていやしないからだ。
本当に、自分の主柱を欠いて骨抜きにされ起き上がることもままならぬような、それほどの被奪を、喪失感を、活路を閉ざされる実感を知らないからだ。

ぼくは誰かのために何かをしたことがあっただろうか。いや、ぼくはそんな範疇外の事物に心を砕いてはならなかった。
やることなすことが独りよがりで、断片的で限定的な視線でしか予測できなくて、そしてときに欺瞞な企図を帯びて。
結果として損害を与えるのなら、痛みを押しつけるのならそれはやはり悪で。そんなつもりじゃなかった、としても、過失だとしても、罪状は罪状として発生するわけで。
誰かのために、なんてのは独善の根元だ。

図に乗ってしゃしゃり出たりしなければ、秩序は保たれたままだったのに。
あんなこと言わなければ、せっかくの関係を砂にすることもなかったのに。
中途半端に首をはさまなければ、通じ合えるしあわせを見届けられたのに。
そんなことが、いくつもあって。

きっと今だって、いろんな方面を。不愉快にさせている。不安にさせている。後悔としての傷をうずかせつづけている。
こんなに罪作りで、けれど最たる醜悪さはそれに気づくまで時間がかかりすぎたことにあり、また知った上でさらに手を染めることを回避しなかったことにある。どれほどの迷惑が及ぶか、ということを。
自分がそういう人間――程度以上に他人に接近してはならない人間――だということがわかってから、それまでに落としてきた悔痕をどう償えばいいのか、どうすればこれ以上苦しまずにすむのか、そんなことを考えるようになった。
あらゆる関係を断ち切って、あらゆるものから遠ざかって、孤高に生きるために不必要な感情を一切封印して、たとえば笑顔さえも。そう何度も決意した。

けれど、やはり弱くて、自分を殺すこともできなくて。最後までいろんなものを捨てられなかった。
沸騰していた過去に固執しているだけの何とも貧弱な記憶。
それは体内に蓄えたバッテリーのように、折に触れて振り返り思い出しては懐かしさに浸り、そんななけなしの電力のみで現在という時間を生きた気になるのだろう。
それは途絶えることなく。なんて粗末な、そして気味の悪いことなのだろう。

もしいずれ他者から赦しが与えられるとしても、時間が経過してわだかまりが自然に風化していくのだとしても、またはそれ以外の理由で、ひょっこり再縁するとしても。
ぼくは自分が今までしてきたこと、個々の事例ではなくこの人間がこの時間まで存在していたという事象自体に対して、それを自分で許すことはないだろう。
これから先も、たとえば、いつまでも。それはもう決めてしまったこと。
当初の目的はもはやそこになく、これは学習として胸に刻みこまれた習慣であり、その反省の上に生涯を通じての沈静が待っている、それだけのこと。

忘れていくことは罪だと思う。
それは自分の言動に対する責任を果たしていないから。言ったことを履行しない、ヒステリックにわめいて逃避する、それは信頼を傷つけ、そんな行動を取る人間の人格をある程度判断する資料として不足はない。
忘れられぬことは罪だと思う。
それは関係する記憶に付随するさまざまなものを縛りつづけるから。憎悪の念だけが事例を待たずに肥大し、直接の対象とはならないものにまで矛先が向き、やがて取り返しのつかない事態を引き起こす。

ぼくは、ぼくがこんなにきたないことをしっていても。
それでもまだ、ここにいつづけることをえらぼうとしている。
そうであるかぎり、まただれかをきずつけるのに。
いちばんだいじなものをうしなうまで、きっとおわらない。

2003/03/25

自分自身よりも容量の小さな器にそれが収まることはなくて。
そういう無理強いを、つかみどころのない奥底の深淵を、垣間見せただけで息がつづかなくなってしまいそうなほどの圧迫感を覚えるそれを。
わかってもらいたいのではなかった、知っていてほしかった。それさえも、根は深くはびこっていて、土壌のケミカルに汚染されていて。
自己主張とは、他の植物の蔭になり栄養分を略奪し、葉を枯らせ幹を腐らせる、死を伝播させる行為。

拒否されているという予兆はいくらか感知してはいた。
知らないはずの場所をかぎつけ、非公開にだだもれている暗号を抽出し、激しい痛みを味あわせるようにきつく踏みつけて。
終焉を回避する手段として、適度な温度差と距離感が提供されていたのだろうか。
それとも逆の方策として。それほどに冷めていることを、そして離れていることを、身をもって知覚しなければならなかったのだろうか。

疑うことは簡単だけれど信じることはもっと簡単で。
難を唱えることは簡単だけれど認容することはもっと簡単で。
退避することは簡単だけれど安居することはもっと簡単で。
さまざまな面で心を砕いているつもりでも、気をかけているつもりでも、実際は自分にとって楽な生きかたしか、身勝手な振る舞いしか選んではいなかった。

自分のことはどう言われてもいいが、自分の大切な人の悪口を言うことは許さない。
もし理由があるとすればそれだけ。けれどそれも述べるに及ばない。言いわけを作りたくない。口実をこじつけたりどさくさに乗じなければ行動できない人間にはなりたくないから。ずっとそれを遵守してきたから。
自分らしさなんて些細な信念を貫くために、例外を作らないことに躍起になって。自分の中で定式を規定しようとすればするほど行動の幅は狭められていくというのに。言い逃れられる余地も避難場所も奪われていくというのに。だから。重ねれば重ねるほど失効していく上塗りのことばなんて。
それは、ぼくが悪人だとか罪人だとかそんなことも超越して、事実として。ひとつのトゥルーエンドとして。

2003/03/26

裏切りの遺伝子が疼く日。

ぼくの名は祖母から一文字もらったものだと聞かされたのもまだ遠くない。
いたく封建的で相続的で、余計なものまでいくつもこの身体に流れこんできているような気がして虫酸が走った。

歳をとるにつれて顔は細り、日に日に見覚えのある面影を帯びてくる。
覗きこんだ鏡の向こうに暗い影が落ちていくかのようで、そしてその場所に誰かが立っているようで、血の気が音を立てて引いていくような軽い失望感に見舞われる。

他人をののしったり苦しめることは絶対にしたくない、どんなにあがいてみても必死に言い聞かせてみても、たかがインスタンスがコードに振り回されて右へ左へしているだけのことで。
染まりたくないのに。発狂したくないのに。死神はすぐそこで口を開けている。

手にしたものはみんな、買ったばかりのノートにめちゃくちゃに落書きをするように、乱暴にかき乱す。白い心を上書き不可の魔の色に塗りつぶす。
望んでなどいないのに致傷行為を抑えられない、それがぼくという人間で。どうやらそちらが優性だったようで。

人を愛せないという不遇を運命として掴まされ、ここに生まれてきた。

2003/03/27

一回目より二回目のほうが大切だ、とはなるほどと思う。
はじめてのときは場の成りゆきってこともあるだろうし、勢いにまかせて案外無事に済ませられたりするものだ。
次からは自らの意志で行為を選択し決断し入念に準備しなければならない。それはよほどの勇気や労力を要することだ。
だから一度だけ交わったところで相手のことを知りつくしたなどとおごってはいけない。

目を見て話せればよかった。どんなときにもぼくはそれができなかった。それをしなかった。
うつむいて、横を向いて、あるいはテレビを観ながらいい加減な相槌だけの会話をしてきてしまったのかもしれない。
断片的なことばが往復をくり返すうちに一人歩きして何らかの結論を導き出そうとする。それは具体的な示唆であったり感情を伝える表現であったり。ありもしなかったはずのパーソナリティが仮想的に生成される。それは物語を書く手順となんら変わらない。自ら招き寄せた妄想の渦に飲まれて堕ちていくだけ。
創造主自身が未熟であったのと同じように。ぼくが経験してきたことは、いずれもそんな無益無害の、浅ましい夢の出来損ない。

それらの残骸が、腐敗しかかった実体なき肉体が、底のほうにごろごろ転がっていて、低いうめき声とともに足を掴んで引きずりこもうとする。

2003/03/28

ちゃんと言ってくれなきゃわからないよ。
昔と同じことしか、ずっと同じことしか言えないんだね。

相手の気持ちを考えようとしなかったのか、機微に気づく能力に長けていなかったのか、それとも心に触れることに慣れていなかったのか。
ずっと不釣り合いで似つかわしくないことばかりしてきた。そうだと知って、無理をしてきた。

“限界”に挑みたがった結果だ。どこまで壊せるか、どこまで壊れられるか、どこまで壊させられるか。
着古したシャツを切り刻んで縫い直して雑巾に使い回すみたいに、情け容赦なく。

力を持っているから強いのではなく、弱いから弱さをごまかすために振りかざす。
ぼくは今さらどんなものに屈しようはずもない。

2003/03/29

かつて描いた未来が、ここにあったんだろうか。
ずっと嫌がっていた大人という存在に一歩一歩近づいていく日々にあって、ぼくはこれから先、何を見失わずに生きていけるのだろう。

プログラマーになりたかった。
あのころの夢を、たしかに叶えた。
親孝行がしたかった。
実家に仕送りもできるようになった。
取り戻しつつある家族との絆。
そして、たくさんの視線があって。
失われなかった財産があって。
近くても遠くても心は変わらない。

それは幸福そのもの。
ぼくがこの世界にひとりぼっちじゃないだって、信じさせてくれて。
だから満たされているし、生きているという実感をかみしめられる。
息をつないでいられるのは、強くいられるのは、まわりにそういう人たちがいてくれるから、そして今日もここを訪れてくれる人がいるから、ひとえにそのおかげ。
返すことばも見つからないくらいで、頭が上がらないくらいで、だけどいつだって胸がいっぱいになる。
だからこそ自分のいやなところばかりが目について、それが許せなくて申しわけない。
せっかく見ていてくれるのに、つきあっていてくれるのに、こんな自分しか出せないことが、お目汚しにしかならないぼくのことが。
幸福であることが、まるで戒めであるかのように感じられて。

もう未来を描くことはないのだと思う。今があるから。
自分の時間を、ペースを、魂の貞操を守って。ひどく身勝手だけれど、そうすればこれから先も、何も見失わずに生きていけるような気がする。

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