[むかしのなぞ] 2003/02

2003/02/01

父「俺はおまえをそんな人間に育てた覚えはない」
息子「それは奇遇だな。俺もあんたにこんな人間に育てられた覚えはない」

ぼくたちは何と何をわかりあっているのだろう。
たとえばことばにしたり、文章にしたり、ぬくもりを伝えたり、肌を重ねたり。
そんなふうにして気持ちがつながっていると確信したつもりになる。
熱はおたがいをのぼせたような状態にさせ問題解決をうやむやにしてしまう。

他人に対して冷たいのは、正反対の意味で親切であるのかもしれない。
妥協して安易な応答を返さず自分の態度を明確に主張する。
言われた相手がどう思うか、自分をどのような目で見るか、他人はそれをもっとも気にしているのだからそれがはっきり示される行動を取ることが望ましいとも言える。
最悪なのは黙って逃げつづけること。

どこかで理解している領分が重なっていなかったり文面の解釈がずれていたりで、結局は多くのことを誤解しあっている。
先方によく確認もせず会話が通じたものと思いこみ、そうした慢心がいずれトラブルの原因となる。
真の絆を築きたければ本心を態度で表明し、相手のことには口うるさく質問をくり返すべきだ。
そこで執拗だと煙たがられるようならはじめからその関係の進展など期待しないほうがいいのだから。

2003/02/02

どれほど多くの時間を失ってしまったのだろう。
言いかけて飲みこんだことばも、雰囲気に圧されてつぐんだことばも、変に気を回して遠慮したことばも。
もちろん過去の選択の誤りを今になって取り沙汰すべくもないし、苦しく無益なものだったとしてもぼくがここまで人生をつないできたことも事実で。
ただ率直に、手に入れられなかったものをうらやむ感情。
今まで世界のどこを見て自分は生きてきたのか、内なる世界観のどこに他者と共有されうるオープンな領域が含まれているのか、そういった劣等感を掘り下げていくとこれまでの自分はなんと愚かなことばかりしてきたのかという主張にたどらざるを得ない。
もっと意志をしっかり持っていれば、自分を見失ったりなどなければ、もっとべつの世界を享受できたのかもしれない、いつだって思う。
けれどそれを言ってもしかたのないことであるし、ぼくがそうした反省を今後に生かして同じ轍を踏まぬように生きられる人間ではないこともよく知っているから、きっとこの先もありえない皮算用に後悔を重ねていくのだろう。
ついて回るのは、もう決して赦されることのない過ちだけ。

2003/02/03

自分に自信がない。
たとえば知識。世の中のこと、とくに文化的なものを知らなさすぎる。まったくべつのフィールドが偏光ガラスを通してぼくの目にだけ入ってくるかのよう。知識ではなく関心のちがいなのかもしれない。話が合わない。
やることなすこと、自分の一挙手一投足が腑に落ちない。ひとこと発するでもなにかの動作をするでも、自分は他人と同じようにはやれていないのではないか、どこかぎこちなく見えているのではないか、不安がつきまとう。
平凡というものにときどきひどく憧れてしまう。

自分らしさを大切にすればいいと言ってくれるものもあるだろう。
だがそれは程度問題で、当人にとって気休めや励ましにはなるだろうが、しかしその人の気持ちを理解したことにはならない。
悠長なことを言っていられるのは、きっと真の変人を知らないからだ。
その場しのぎのいい加減な同情がのちに亀裂の原因になるのだという責任も負うことなく。

どうしてこんなに不器用なのだろう。どうしてこんなに不細工なのだろう。どうしてこんなに無愛想なのだろう。
人前では気前のよいことばかり言ってその裏では正反対のことばかり考えていて、なにかを傷つける場面ばかり想像しても痛まなくて、これほどまでによごれきった心。
もはや将来のどこにも焦点を合わせていなくて、いつ土台から崩れるとも知れぬ精神力はいずれそれ自身さえもあっさり投げ捨ててしまえるほどすさんでいて。
自分はずっとこのままなのだという、淡い絶望。

自分らしさをないがしろにした結果なのだろう、人生のなにひとつろくにやれない不完全なたましいとして育ってしまったのは。
心を捨てたり塗り替えたり、めちゃめちゃに壊したり、そういうことをあまりにも簡単に重ねてしまったから。
へんてこな形に組み上げて、もとどおりにしようにも戻せなくなった積み木のよう。それこそ完全に粉砕して一から積みなおすしか後に引く方法がないという状態まできてしまっている。
ひょっとしたらぼくはぼくのことがどうでもいいのかもしれない。

2003/02/04

臆病な自分は気に入らないが、同情はできる。
勇敢な自分は許せない、殺してしまいたい。

2003/02/05

他人に対して裏切られたという考えを持つのは誤りである。自分が勝手に信じていただけなのだから。都合のよい理想像を、あるいは独りよがりの信頼を築いていた自分を責めるべきで、そこで相手を恨むのは理不尽というものである。ここまでは一般論として。
信頼されることはときに迷惑である。他人が自分の言動に対して期待を持つとき、かの人の内部では自分(実際の自分ではなくその人の中に作られた自分、いわばイメージ)の行動範囲が規定されている。自分がその範囲を踏みこえる言動をとったときに相手はそれは想定外だとして「裏切られた」という感情をもつ。
仕事をしてくれるだろう、時間には遅れないだろう、悪い人じゃなかろう。たとえ自分で自分がそういうものだと主張せずとも、周囲は行動の節々を観察してそこになんらかの一般性や規則性を見出しそれを自分の特徴として認識するようになる。誰々はこういう人物である、と表現または定義しようとすることが内的存在を形成する第一歩となる。
しかしもちろん内部イメージは実際の人物とは異なる。実際のところ、人間の行動規範や性格などを表現的に把握できることなどまずない。そうでなくとも人間とは気まぐれな生物なのだから。もし誰かの性質をひとことふたこと程度で言い表せるとしたら、それは相当に抽象化されたドットパターンであるか、もしくは相当に人間性に乏しいものとして他者の目に映っているかいずれかである。
では他人の性徴を体系化しなければ誤解が生じないかというとそう一方的なものではない。性格を抽出し予想することはその人と接する際に重要な情報となるからである。タイミング、話題、態度などを相手によって無意識に使い分けている。その意味ではイメージングは必要である。ではなにがいけないかというと、信頼し期待することである。
相手がこのように動く、と予測するまでは自分の心の中だけの処理であるから自由であるし誰の目にも触れない。しかしその相手の行動を見越して自分が先になんらかのアクションを起こしてしまうと具合が悪い。目算した利益をあてにして借金をし商品を仕入れるようなものだ。売り上げが予想どおりにいかないと損失が発生する、それは誰の責任であろうか。言うまでもない。
見えないブロックが積まれていると仮定して自分もその上にさらにブロックを積む。仮想的なやりとりが現実から離れて独歩しはじめる。それは妄想である。相手の言動を自分の中で規定してしまう、そこから仮説を立てて自分の行動に参照しようとする、それは行動範囲をせばめる絞首的行為につながるし、期待という圧力によって相手をも窮屈にする。
個人に対してとはかぎらないが、信頼することは一長一短である。なにかを信じなければまったく行動できないし、しかしなにかを信じれば「裏切られた」ときに適切な回避なり対処ができなくなる。同じ対象に対して何度も羨望と失望をくり返して中庸点を模索する、というのが負荷は大きいが確実な手段と言える。

ぼくはただ信じていたかっただけなのに。

2003/02/06

時間がもったいないとか時間のむだだとかをしきりに気にする人にかぎって時間を有効に使ってなどいない。
自分の行動はまともだし並はずれるようなことはしていないと言い張る人にかぎって自分がいかに特異であると周囲から認識されているかに気づいていない。
正直者は遠慮を知らず、親切心は恩着せがましく、愛は独欲である。

自分自身が認識している自分の姿というものは意外とあやふやで。
たとえば趣味や嗜好や仕事を選ぶ基準や余暇の過ごしかたなど、思ったほどはっきりとは自分のプロパティを明示できないものである。
述べられた自分の特徴のうち、どこまでが本当なのか、どこまでが「自分」なのか。

自分のことでさえ把握しきれていないのに、誤解までしているのに、どうしてそれを外部に誇示できようか。
それは自分でも特徴や使いかたをよくわかっていない商品を売りつけようとするセールスマンと変わらないのではないか。
知ろうとする努力も、自己と向きあう度胸も、そして宣伝する外向性もみな面倒くさがって、ぼくはぼくの檻に閉じこもる一辺倒。

2003/02/07

ぶっちゃけ、なんてことばを生涯で一度だけ使ったことがある。
ずっといい子のふりをしてきた。それを心の中で忌んでいたのかどうかも今となっては思い出せないことだけれど、ただ大人しく相手の望むとおりに行動していればそれが善だと思っていたからそうやってきた。
そんな従順な主従関係が確立しきった時分になって、思ったままのことを、胸にわきつづけていた疑問を口にすることがどれほど驚嘆に値するか。それまでの関係を否定する、いわば主に刃向かう行為。
けれど怖かったのだと思う。このまま自分の感じたとおりの表情を出さずに貞淑を保ちつづけることが。相手にとって都合のよい存在として利用され搾取されつづけることが。絶対に逆らえない立場にあるということを自認してしまうのが。
だから少々逆上的に乱暴にならざるをえなかった。
自分をよごしてしまおう。耗弱しきって疲労しきったさまを、狂おしいまでの執拗なわがままを見せつけてやろう。そうして冷たく鋭い感情をありったけぶちまける。居場所を失う覚悟もできている。
人が変わったようだと思うだろうか。目を白黒させ失望と幻滅を味わうだろうか。あんなにも忠実で無言のままにはたらいてきた人間が怒りと涙をあらわにして取るに足らない自己主張をおっぱじめたら。
きっと反乱分子とみなして制裁を与え処分しようとするにちがいない。それはこちらにとって好都合だしむしろ思うつぼだ。こんな人間なんて嫌いになってほしい。見限ってほしい。そうすればようやく手を離れて自由になれるのだから。もう終わりにしたいのだから。

やさしく諭して慰めてほしくなんか、なかったのに。

2003/02/08

なにひとつ守れない。維持できない。壊してしまう。大切なものを大切にできない。
弱いから。慣れていなかったから。時間が足りないから。みんな浅はかな逃げ口上。
刹那の惰欲に溺れて。時間をむだに流して。揺れてばかりで。繕うことがやっとで。

生きることがそれだけで、たまらなくつらく思えてしまうときがある。
多くのものに出会うほど、よろこびを知るほど、かけがえのないものと認めるほど。
同多数のしがらみに縛られていく、そんなゆがんだ感覚。

真剣に向きあう気がないから、いい加減で薄情で冷たくて、そしてみすみす。
都合のいいときしか相手にしなくて、簡単に無視して裏切る、こんな極悪人。
何人とも顔を合わせことばや気持ちを通じあわせる資格など、いや素質が、ないのだ。

今ならまだ引き返せるとでも思えばよかったのだろうか。そんなの甘すぎる。
もう生きていない。この体に、人としての心も、しかるべき温度も、意志も。
誰に対してでもない。強いて言うならすべてに対して。ぼくにとってのすべての。

ごめんなさい、こんな人間でごめんなさい。

2003/02/09

あれ以来ずっとぼくは書きつづけている。何かに憑かれたように。気が触れたかのように。あるいはそれは大根役者としてのそれだったとしても。
心の中にいろんなものが渦巻いている。入れ替わり立ち替わり右から左へと。暴れ狂う気性を飼っていてまたは一体化していて正気でいられることのほうが尋常ならざるかもしれない。日々こんな精神状態でデスクに向かいアーケードを闊歩する市民がいる。この街のどこかに。
書きたいという純朴な気持ちとは質を異にするものだ。吐き出している。指を叩きつけキーを叩きつけパッドに叩きつけサーバに叩きつける。湧いて溢れていつパンクしてしまうともしれない感情をこの場所に打ち捨てている。そうしなければ収まらないし鎮まらない。

一方、非常に神経質になってことばを選んでいる。ぼくはぼくの何もかもをさらしているつもりはない。書こうと思ったことしか書いていないし、自己判断のもとで情報を取捨して公開している。
当たりまえなほど好都合なシステム。どれだけ本能が咆哮して唾液や汚物をまき散らしても理性と羞恥心がフィルタをかける。便利な偏光板。自由勝手に出したい自分を演出できる。演じられる。自己表現とはよく言ったもので。
ありのままの顔なんて存在しえない。人は人前に出た時点で、それがたとえどれほど身近で親密なものであっても、顔を作っている。心の中にあるどのような感情も思念も、それがことばや動作や態度やウェブサイトとなって表に出た瞬間、オリジナルではなくなっている。

語ることはひとしく騙ること。だからぼくは生きているかぎり嘘をつきつづける。自分の内部の真実は、ただ自分の内部のみで崇拝され補完されうる。だがそのほうがいいのかもしれない。こんなもの、永遠に外部に晒されないほうが。

2003/02/10

人間、忍耐が必要である。
多少いやなことがあっても、自分の思いどおりにならなくとも、安易に弱言を吐くようでは辛抱が足りない。
沈黙は金。それが美徳とされている。その善悪はさておいても、辛苦を自己の内のみにおいて耐久しうる我慢強さは望ましいものと言える。
困難を打破する強さ、乗りこえられずともしのぐ強さ、耐えられずともそれを表に出さない強さ、これらはみな異なる。それぞれがタフネスである。

喧嘩になったとき、多くの場合先に手を出したほうに非があるとみなされる。
不快感やちょっとしたいさかいを我慢すれば、譲歩しあえれば、勝敗どうの以前に争いを回避することができる。それに越したことはない。
すぐ戦いをけしかけて優劣を決めたがるものもいるが、他人を力で従わせようという考えがまず愚かである。攻撃は反撃を招き、制圧は反逆心を肥大させ、憎しみは憎しみしか生まない。
己の本能を制御できない、ストレスを溜めこむ、失敗を人のせいにする、つまりは自分に勝てない人間が他人に傷を負わせる。

暴力にかぎらない。自らの弱さを露呈する手段はいくらでもある。
たとえば秘密の約束ごとをうっかり口外してしまえば多岐にわたって被害がおよぶ。人間関係や信頼を損ねることにもつながりかねない。
忍耐は、自分と、周囲の他人と、その間をつなぐものと、多くの秩序を守っている。そのために必要なのである。
それが欠けていれば身につけられるものもおのずと減ぜられていく。あるいは守るという意識さえも希薄になっていく。他人と関わって生きているのだという自覚までも。

ぼくはそうやって、これまでにいくつかのものをだめにしてきた。
そのたびに自分の中のなにが欠点なのか、とった言動のどれに問題があったのか、そんなばかげた原因究明ばかりくり返してきた。
自分の中のなにか、などではない、自分そのものが悪だった。幼稚だった。自分に手をあげる程度の厳しさももてなかった。
そんなだから、なにも維持できないんじゃないか。

2003/02/11

消せなかったね。
それとも抹消すれば完全敗北を認めることになるなんて思っているのかい。
いまさら自分にとって、その関係において、これ以上なにを失うものがあるっていうんだ。
きれいさっぱり清算してしまえよ。
それができないのはまだどこかで夢を抱いている証拠じゃないのか、踏んぎりをつけられずに現実逃避しているだけじゃないのか。
切り口が、そんなに痛いのかい。
ぼくは息絶えているんだ、もういないんだ、だから現世にてこれ以上つきまとったりなどせずに早急にもとのところへ帰ったらどうだ。
幼少期の記憶と同程度に役に立たないものを引きずってなんていないで。

えらべよ。

2003/02/12

自覚しているのか。
再び自分をスポイルしようとしていることを。
冷静をなげうって、実体があるやもないやも知れない虚構に手を伸ばそうとしているという、進むことも戻ることも許されない自棄的な、勝率のない賭けを。
どうして自分を保とうとすることにこんなに葛藤してしまうのか。

2003/02/13

かけらをいくら集めてもそれらはあくまでかけらにすぎないのであって、組み合わせて完成したひとつの奇跡となることなどあるべくもない。今まで着眼していた共有意識はきっとそういうものだった。
眠かったから。そんな言い逃れが通用するのか。寂しかったから、弱かったから。子どもだったんだろうな。無意識の奥底に真意が潜んでいて、それは往々にして悪意である。ぼくは死にゆく、道をたどった。
発せられたすべてのことばとパケットが関係を詐称し、無言の遠隔兵器として罪悪たらしめる。他方で親から買い与えられたおもちゃを自慢げに言いふらし見せびらかす。仲間はずれを避けたいという露骨な切迫。
いちばん大切な存在は決して口外しない。堰が切られるのはその唯一性が消失したとき。どのような記憶も秘密も、たとえばおたがいの胸を深くえぐるようなそれであっても、もはや不可侵たりえない。同じようにけがれていった。ぼくも。

2003/02/16

こんなことをしている時間がなんになるというのだろう。
退屈で眠くてただくり返すだけの、そんな一週間になっていやしないだろうか。

刻一刻と余命が削られている最中にあって、すこしでもあがきたい、したいことをしたい、でも疲れてだるくて体が動かない。それでいいのだろうか。
充実した生活とはどのようなものなのだろう。後悔しなくてすむためにあといかほどの強靱さを心にたたきこまねばならないのだろう。

まちがったことを、まちがったままでもいいから。頭が固いとなかなかそういう発想ができなくて。
もっとふつうにわるい子になれていればよかった。そうすればもっといろんなことを知って、いっぱい怒られて、そうしてわんぱくに成長しそして卒業できたのかもしれない。

無関心や食わず嫌いよりは、いろんなものをすきになったり興味をもてるほうがぜったい人生楽しめる。失敗したってそれも勉強、それでいいじゃないか。
ぼくはいつになったら、そう思えるのだろう。純粋なる憧憬と羨望の視線で話を聞いていた。

2003/02/17

結局なにも自分で決められやしなかったけれど。

ずっと怖かった。
どんな顔をしてことばを交わしていいものか、そもそも合わせる顔があるのかどうかも。
拒まれることも、あるいはいつ背後から刺されるやもしれぬ、高鳴りの半分は覚悟だったのだろう。
それほどに、許されぬ過ちを幾度も幾度もくり返してしまった。

今だってもちろん幼稚だけれど昔はもっと。だから機転を働かせることも空気を読むことも知らなくて。
知っていたら問題を回避できたとでも言うのか、その言いわけがましさが最たる稚拙さだというのに。
すべての原因はぼくひとりの中にあって、勝手に暴走してみんなわやくちゃにかき回して、つらい思いや迷惑ばかりかけて。
もうきっと誰からも許されることはなかろう、それ以上に自分で許せなくて、そうしていちばん痛みを引きずる方法をとってしまった。

ぼくがここにいたら傷つけてしまう。大事なものをだめにしてしまう。不幸を招くだけだから。
だから離れて。それまでのすべてをなげうって。自分自身を隔離して泣いて謝ったつもりになって。
それに意味があったのかはわからない。でも選択肢はそれだけではなかったことはたしかだ。
自分の罪を認めるために、償うためにすべきことは、もっとべつのことではなかったのではなかろうか。

気がつくとぼくはあたりまえのようにそこにいて。人の輪と、笑い声と、かつてのかけがえのない友情と。
失った、いや自らの誤った判断でどぶに捨ててきた時間が、あまりにも大きくてそれがたまらなく悔しかった。
時間を戻してやり直したいなんて、もう考えない。そんな必要はない。これからがあるのだから。
今からでも思い出せるもの、つなぎとめられるもの、そして自分にできることがあるのだとしたら。プラスの意味ですべてを犠牲にしたい。

みんな大切なたからもの。

2003/02/24

02/19
ある場所でトイレに入ると妙にそわそわした気分になった。自分がここにいることが場違いだと思えてしまいそうな重々しい空気。足下になど注意を払わずにさっさと用だけ足せばよかったのだろうに。それはきっと気まずいものが目に入ったからだろう。ここは当然個室なのだから自分しかいないわけで堂々としていればいい、気恥ずかしさを覚えたりよそよそしく振る舞えばかえって不謹慎だ。だがぼくには器用なことはできない。足下に箱がひとつ置いてあった。メタリックな無機質感を漂わせるが実体はおそらくそれとは正反対の。それがただのくず入れでないことをふたつの根拠から察した。ひとつはくず入れはくず入れとしてべつに用意されていたこと。もうひとつはその箱の上部にプリントされていた文字列。ぼくはそういうものの存在があることは知っていたがその名称までは知らなかった。それを今日この場所で、こんな場所で記憶することとなった。よせばいいのにでかでかと書かれていた。これがそうなんだ、と新たな単語を検索したときのような感覚。自宅のトイレにはないし、この場所のように毎日不特定多数が利用するいわゆる公衆トイレであってもふたつに分かれていさえすれば見る機会のないものだ。公共の施設だから、置いていなければ不親切であるし、名前もきちんと書かれていなければ不親切である。利用する機会のある人間がこのトイレに入る可能性がある以上、設置する側としてもこれ以外の選択肢はとりえなかっただろう。それはいい。ただ、そのためにこんな焦燥感を背負わされる不合理に納得がいかない。平たく言えば落ち着いて用が足せない。ぼくが気にしすぎなだけだろうか。こういうものは見て見ぬふりをするのが紳士のマナーというものなのだろうか。しかし目をそむけようにも、それはたしかに、そこにある。これを使うべき立場にある人は、この状態では使うに使えないのではなかろうか。誰にもの目に、本来見られてはならぬ人たちの目にも、触れてしまうからだ。そうした気まずさや悩み、そして心身の苦痛を、ぼくは一生知ることはない。すくなくとも体験することが不可能だという意味で。到底分かちあえない深い深い理解の溝の一端をそこに見た気がした。そんな当然のことが罪悪感となってぼくを責め立てる。

02/20
べつの場所でトイレに入って便座に腰をおろすと突如水が流れ出した。自動的に。ぼくの一挙手一投足は監視されていた。

02/21
かつて善としたものを悪とし。
かつて悪としたものを善とし。
かつて唱えたことばを封印し。
かつて封印したことばを唱え。
かつてかき集めたものを投げ捨て。
かつて投げ捨てたものをかき集め。
かつて愛したものを憎み。
かつて憎んだものを愛し。

まったくあべこべの過去と現在。
こんなに簡単に変わってしまえる。
本質的な部分は変わらずに表面的な部分が変わっただけなのか。
表面的な部分は変わらずに本質的な部分が変わっただけなのか。
そのどちらなのか。
そのどちらでもないのか。
まったく判断できずにいるけれど。
一貫性の欠如がとりあえず悔しい。

ぼくは何をやっていたんだろう。
否、何をやっているんだろう、とすべきか。

02/22
偶然にもぼくはその町にいて。たった一度だけ訪れたことがあった。あのころはどうかしていたと言ってしまうのは簡単だけれどそれは責任逃のような気がして言えずにいた。会ってみたい人がいた。今よりもさらにふさぎこんでいたあのとき。今よりもさらに他人を信じていなかったあのとき。今以上に自分は罪悪の塊だと決めつけていたあのとき。それまでの閉塞的な苦悩がことばひとつでふっと軽くなる瞬間を知った。ぼくは今までなんとちっぽけな考えで自分を閉じこめていたのだろう。ことばの力を知ったし信じることのありがたみを知った。それはただのことばではなかった。おのずと歌を愛するようになった。歌を愛していることを宣言するようになった。自分でそう思いこんでいるだけにもかかわらず包まれていると実感した。今にすれば複数の要因やその因果関係を列挙するのが面倒だっただけなのかもしれない。理由はひとつでいいと考えるようになった。その一点にのみ固執し自分の全責任を転嫁した。何も知り合ってもいないくせに。なぜそのままの関係でいようと考えなかったのか。それで満足できなかったのか。ひたすらに祈りを捧げ天声人語としてのお告げを聞く。そうすればやさしい温厚な心のままでいられたのに。それがぼくが弱者であるゆえんなのだろう。それがぼくが悪人であるゆえんなのだろう。それがぼくがいつまでたってもぼくのままで居座っているゆえんなのだろう。だからあんなことをしてしまった。常軌を逸脱した行為、すくなくとも理性的なそれと呼べるものではなかった。どこかで身勝手な覚悟を決めていた。人に笑われたって卑しまれたってかまいやしない。そしてたとえ破綻を招くとしても。そんな安っぽい代償では足りようもない惨たんたる結末。ぼくはあのことをひたすら恥じるのだろうか。ひたすら悔いるのだろうか。いやぼくのことなど二の次だ。しでかしてしまったことへの責任をどうやって果たすのか。まだ疎まれているのだろうか。まだ恨まれているのだろうか。それならばこの場で刺されたっていい。死にたくはないけれどそうしなければ許されないのなら。結果晴れて安心して他者を演じ接近することができる。ただひとりすべての罪を知っている。

02/23
いちばん大切なことはぜったい口に出さない。
こんなに楽しいこと、うれしいこと、もったいなさすぎて言えっこない。
だからみんな話したのは、ぼくにとってのいちばんではなくなったから。
それはきっととっくのまえに。

2003/02/25

大人しく引き下がったなんて嘘。
こちらにもう切り札がないことを、勝ち目がないと、悟られるのを恐れて隠れただけ。
言い返せない口の端をきつく結んでべそをこらえるしかなかった。
身を切るような思いで、切った。
取り残されて気がつくとぼくはこんなにも変わり果てていて、不条理に打ちのめされたという屈辱と、己の愚かさへの確証だけが残った。
諦めることは自分の負けを認めることになるからそれができずにいるのだろう。
そしてはからずもぼくの正当性を知ることとなる。きっと怖いくらいに。
修復などしえない。

2003/02/26

素直に明かせないことを、大衆的な側面とは異なる理由において羨ましく思う。
遠回しにしかものを言えなくて、照れくさいからはぐらかしてみたり、すぐ話をそらして一般論に逃げたり。
チャンスメイクの技量に欠けているという点では大方と共通かもしれないが。
明かすべきものに虚偽が内包されている場合。どこまでが純然たる本心か、あるいは誠意か、それ以降の未定義領域・ダークマターとの境界を把握しきれていない場合。
そうしたケースにおいて内なる感情を放出すればどうなるか。
自分の中の黒を、たとえばうわべだけの世辞、偽善、衝動的に破壊を欲する心理、独占欲、そういったものの存在を知っているから怖くて出せない。
己のもどかしい振る舞いを歯がゆく思うこともあるが、つまりはそうとしかしえないというだけのこと。危機回避手段としての臆病がぼくの本質だという。
ストレートに気持ちをぶつけてしまったらきっとまたろくなことにならない。

羮に懲りてなますを吹く。今はあらゆるものに過敏になっているのだと思う。
目新しいものにどんどん興味を移すのも、俗潮にのめり込んで世間ずれからの純潔をけがしていくのも。
そうして帰属意識に浸らなければ、集団に束縛されておかねば、自分の肉体と精神をひとつに保っておけなかった。
汚れなければ生きられなかったということ。
魂が抜けたような感覚、それは精神が肉体からの遊離を渇望し、残された肉体は随意と恒常性を欠き、節々で急激な断裂を催しそれが再び精神にフィードバックされる。
死という過程を模倣することは、その先の生を暗転させ絶望を植えつけるには十分な衝撃たりうる。
ただ実際にそうすることができなかった、またそういう選択肢をとることができなかった、だから消去法でしかたなしに生きている、そう感じられるほどに頭はからっぽになっていて。
あらゆる意志や願望が使い古された台詞の引用にしか思えなくなる。

ぼくもぼくを自分の外から見ていたらきっと呆れて笑ってしまうだろう。
内側からものが見えないという制約は、多くの場合、より愉快な状況をつくる。
世界じゅうのどれほど重大な事件も、悲惨なアクシデントも、あるいは他人が陥った不幸も、辛辣な苦悩も、はたから見ればどれも外部で発生したニュースでしかなくて。
だから頬杖をついたままテレビに向かってうなずき返すことだってできる。
それほど遠くなくても、たとえ身近であろうとも、自分が直接関わっていないかぎりどのページも客観的な記事の集合であり、情報としてそれを読み摂取することができる。
おそらくはのん気にかまえて。深刻でなどありえない。
それはそこに自分に関係する事柄が、もっと言えば自分自身が登場しないと高をくくっているから蚊帳の外の他人ごととして笑っていられるのであって。
そうでないとわかったときの手のひらを返したような態度の豹変ぶりといったらなかった。

いつしか、意志を表明すること、または保持することさえも痛がるようになった。
よけいなことを考えたり変に期待を持ったりしなければ裏切られることもないのに、などと。
来るなと言われたから離れ、来いと言われたから近づき、好かれれば甘え、嫌われれば恨み、だがいずれにせよ最後には何も残っていやしない。
今に始まったことではなく、ずっとそうやって生きてきてしまったのかもしれない。
隔離。ただそれだけを。自分自身の気概を心の奥底へ。他人と接したがる陰湿な欲求も。
心ごとぎゅっと握りつぶしてちいさなちいさな塊にしてそのへんに転がしておけたら。
何もない世界で堪えていけるだけの強さがぼくにあれば、こんなにつらいことばかりをくり返さずにすむのに。これ以上苦しみを重ねずにすむのに。
あたりまえの存在としてこの社会に産み落とされたことが、人生においてそもそもの脱線だったのかもしれない。

2003/02/27

lightの対義語はずっとdarkだと思っていたのだが実はheavyだった。

何も深刻なことなどない。悩みも、戦争も、水のかけあいも。
最低でもぼくの中での解釈においては。
最高級の、と冠するべきぜいたくな癌。

自分を許容できないと広言するくせに心の中では完全に許容している自分を許容できない。

2003/02/28

トラブルを避け穏便に流れていく日常を夢想するのもいいだろう。
平和を訴え対立を退け八方美人に愛嬌をふりまくのもいいだろう。
だが敵を作らないためには味方を作るにも慎重たらねばならない。
誰かと関係した結果第三者の関係との均衡が崩れるかもしれない。
なにより人間は簡単に裏切るから易々とさらけるわけにいかない。
結局は相反する概念を置き去りにしては生きられないということ。

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