[むかしのなぞ] 2002/12

2002/12/01

それはイベントの発火要因にも満たないほどの。

クラスを記述することにより定義することと、そのインスタンスを生成して実行することは異なる。
自分の体内でまたは胸中で何が起こっているのか、システム外部とのインタフェースでは掴めない。
アロケートされたメモリにレジストされる情報を覗き見ることでようやくその全貌を知ることとなる。
実装と実動。公理と事象。コンパイラとデバッガ。ふたつのプロセスを経てはじめて設計は具現する。

どんなすぐれたプロットが提案されようとも開発を可能にするプラットフォームがなければならない。
自然界という世界はたしかに不変真理を内包するが自ら口を開いて人間に何かを教えてくれることはない。
他人から人生のアドヴァイスを教授されることはあってもそれを環境の中で実行するのは自分自身なのだから。
その片翼の存在を見落としていた、ということ。うまく飛べなくなったのは自分を過信していたからなのか、それとも過小評価していたからなのか。

もうひとつの誕生秘話がここにある。

2002/12/02

なんて小さい自分なんだろう。

体裁を取り繕うだけの自己弁護なんて愚かで醜いものだが。
早々に尻尾を巻いて敵前逃亡もまた情けないものである。
場の収拾をつけることばかりに奔走した滅私の果てなんて。
格好悪さを貫いてでも主張を通しつづけるべきではなかったか。

楽しかったかい?
笑っているふりは、泣いているふりは、悩んでいるふりは。
不必要なポリシーを持ち無駄に着飾ろうとするからこうなる。
感情は理念的思考の制御下におかれた現象であり、つまりは操作されていると。

ことばは利己手段のためには非常に便利である。
心で思っていることのうち、状況に相応しいものだけを取捨選択して表出すればいいのだから。
武勇伝を語ったり不幸をかぶったり苦悩を抱えたり人格を分割したり、当人の意志で都合よく切り替えられる。
それはストーリーとなんら変わらない。いいとこ取りした自作自演の物語。

疑うことに罪はなく。

2002/12/03

俗物にまみれてしまえば。

行き場を失ったときそろって落ちていく。
自分を壊してしまいたいほどの衝動に駆られるままに価値観を覆す。
それまで避けていたもの、食わず嫌いだったものを身にまとう。
多くの他人と同じ世界に汚れることで自身を保とうとする逆療法。

その正当性に気づいたふりをするのは自分が抱えているそれ以外の責を免れるため。
誰もがやっていることならばどんな悪でも罪に問われることはない、という程度の。
やがて同一性は流行や慣習などという次元とは質を異にするものだと信じこむようになる。
惰性の寄り集まりとしてその中で生きているのではなく、その中に入らねば生きられないのだと。

個を発揮しないことは波風立てず平穏に生活するための最賢たる手段。
オリジナリティーを、当人らしい笑顔や瞳の輝きを捨て、飛びつく。
闇に紛れ姿をくらますように、集団に、世相に埋もれ、じっと息をひそめ。
まみれることに慣れ不潔に思わなくなったころにようやく低俗だったと気づくのだろう。

自分の存在ごと隠せてしまえたら。

そうすればもっと簡単に生まれ変わることができるのに。

2002/12/04

おとなはいつから子どもを叱らなくなったのか。

つまらない知恵ばかりつけ、悟ったようなご託を並べ、目的もなく群れることを覚え、刃物や薬物や玩具を持ち歩く。
現実をあまりにも知らないから突飛な行動や犯罪を起こすし、すっかり天狗になって他人に従わず横暴な態度を取る。
手厚い過保護の中で甘やかされちやほやされて育ってきた顛末だろう。
だから彼らを責めることはできない。彼らは現代社会の不幸な被害者なのだから。

蔑まれるべきはおとなのほうだ。
やり返されるのがこわくて誰も手をあげられずにいる。とがめられずにいる。
威張っていいというのではないが、自信を喪失してすっかり萎縮してしまっていて、だから子どもになめられてしつける機会すら確保できない。
おとなは子どもの教師でなければならないのに今は反面教師ばかり。

勉強嫌いの子どもが増えているから学習内容削減だなんて、それこそ足下を見られている証拠。
鞭打ってでも机に向かわせるのがおとなの役割ではないのか。
子どもにうとまれようと反抗されようと、たとえ嫌われようと殴られようと腹をナイフで刺されようと。
上から押さえつけられることによる屈辱と反骨心が子どもを一人前にするというのに。そのための汚れ役を買って出なければならないのに。

そしてここにも口先ばかりで何もせずにいるおとながひとり。

2002/12/05

奪われた、のではない。

気分屋として。
些細なことで浮かれたり沈んだり、自信を得たり失ったり、自分はしあわせだと自慢してみたり不幸だと嘆いてみたり。
そして思ったままの気分が表情に出るし、仕事ぶりや集中力にも影響するし、生活の荒れ具合や他人への接しかたにも現れてくる。
コンスタントな性質を発揮できないという欠点はあるものの、日本の四季のように豊かな状態変化を見せるとも言える。

体内にそのような波や周期のようなものが存在しているということだろうか。
右足と左足で交互に踏んでひとは歩く。その際に重心もたえず移動している。やじろべえも不安げにゆらゆらと揺れていて実はそれでバランスを取っている。人生楽ありゃ苦もあるさ、なんて歌もある。
どちらかのフェイズに寄りかかっているときでも、長い目でものを見るべきだという教えのような気がする。
現在の日本経済のように折り返しの見えない下降線の一途という恐ろしい状態もありえないのではないだろうけれど。

ただぼくに関して言えばそんなに状態のバリエーションがあるとは思えない。
状況に応じて笑ったり共感したり同情したり甘えたり、つまりは人生経験として顔を作ることを学んだだけ。
さまざまな特性を幾重にも継承する前の雛型としての素体はもっと冷たく無感情なのだろう。
だからこんなにも平静を装っていられるのだと、あるいは人生経験として心が痛むことに慣れてしまっただけ。

赤面。
それは何かに腹を立てたからなのか、それとも胸がときめいていたからなのか。
こんな人間でもちゃんと体温があって血は赤いのだということを確認できる。
しかしいずれにせよ、もう同じ理由で蘇生が訪れることはないだろう。

その前にすべてを諦めていたから。

2002/12/06

このごろ「がんばれ」「がんばってね」と言うよりも「がんばってるね」「がんばったね」のタイミングのほうが性に合っているんじゃないかという気がしてきた。
きょうもおつかれさま。

2002/12/07

ガラス張りの密室。

他人の会話をこっそり盗み聞きする、というたちの悪い趣味を持つ。
電車内でも喫茶店でも、話し声が聞こえてくるという受け身な収集ではなく、わずかでも耳に入ってくるやりとりを解析しようと神経を凝らす。
たいていはおしゃべりに夢中で人に聞かれているかなど気にもかけない。
公共の場所にいながらにしてプライベートな情報が手に入る、というスリリングな機会。

当事者間にしか存在しえない共通の背景を持たずに会話を拾っても一見理解できなさそうだが、そこに愉しみがある。
自分の想像を働かせて文意を補って読んでみたり、そこからまったくあたらしい推理を立ててストーリーを紡いでみたり。
その面白さは単語を適当に組み合わせてバラバラな文章を作る行為にも、二人の登場人物がまったくべつの話題でそれぞれ話しているのに会話がちゃんと噛みあっているように構成されているコントにも通じる。
これも、相手がまったくの他人だからこそ愉快なのだろうけれど。

それはオンライン上ならばチャットルームを盗み見る行為に相当する。
インターネットといういわば全世界に開かれているその空間内で、ときとして個人的なこみいった話題があられもなく流れ出す。
日常的にインタネに触れているとパブリックとプライベートの境目がつかなくなるのか、ネッツと現実世界はちがうのだという感覚が麻痺して危機感が薄れていくのか原因はわからないけれど、それをはたから見て愉しむ人間にとっては好都合。
知らずのうちに自分自身のことを必要以上に明かしてしまい、それがしっかり他者の懐に収まっているという現状。

この世界に安息の地などないと思え。

2002/12/08

どういう理由かは知らないけれど。

題材は日記でもほかの何かでもよかった。
綴りつづけることの理由もわからないまま。
ただ書くだけの、毎日毎日心の中の感情を吐き出すだけの、そうしなければ堪えられないというほどに。
自分を埋めつくそうとする暗くて汚らしいものを、こうやってさらけて他人に押しつけてばかりだった。

自信なんて考えたことはない。
一時期は人に読んでもらうためのもの、何かを与えられたらなどと高慢にも目標を掲げていたこともあった。
まず自分という人間ができていないのだから、そのぼくが文章を書いたところでそこには何の意味もこもっているはずもなく。
それはうれしさに対する恐縮のようなものではなく、つきつめればただの困惑でしかなかったのかもしれない。

それと同じだけの痛みを負わせていたのだから。だけどぼくはちがう。
何ものをも疑うことなく受け容れられる世界、まっすぐな信心でありのままに受け止められる世界を、そんな夢みたいな夢を持ちつづけていたいと思えるようになったから。
ぼくは一生ぼくにしか尽くせないけれど。
ばかなくらい素直に卑屈にそして嫌味たっぷりに、笑っていよう。

今日もご訪問いただきありがとうございます。

2002/12/09

有毒ガスと煤を浴びて黒ずんだ雪塊のよう。

最低限の世辞すら口にできなくなって。
坂道を転がるように悲しく汎化していって。
ちがうのだと思いこもうとしても共通項ばかりが頭を離れなくて。
あたりまえの疑問をぶつけられる少年として。

自分が他人に何かを求めているかというと、さほど期待していなかったりする。
他人が自分に何かを求めているかというと、さほど期待されていなかったりする。
自分が他人をなじり遠ざけるのと同程度に自分は他人からなじられ遠ざけられる。
自分が他人を愛し受け入れるほどには他人は自分を愛さず受け入れない。あれ?

疎めば縛れる。
馴れれば覆す。
いちど限界まで引き延ばしたり押し縮めたりしてみないと適正距離は測れないのかもしれない。
結果だめになることも。

猜疑の心を持ってしまうことはこんなにも冷たく心苦しい選択なのだと。
どちらがより自分の信念を歪めずにすむかという二者択一なのだろうと。
何度も悲酷な裏切りを重ねたこのよごれた心には日照権も認められぬと。
血も凍るような最寒の時間帯を記憶のテーブルに再び寄せ集めてみると。

あまりにも簡単で。けがれることも。けがすことも。一瞬の過信で。

2002/12/10

ものに話しかけるのはいつもの癖ということにして。

きみはどうしてここに来たんだろうね。
もう一年近くになるけれど、あっという間だった、なんて言わない。いっしょにいたかけがえのない時間を“あっという間”なんてひとことで片づけてしまいたくなんかないから。
前のアパートを引き払うときも、引っ越しの様子をずっとそばで見ていたね。
どうして今になってそんなきれいなことばかり思い出すんだろう。

きみはことばを話さないし、おそらくは心ももっていない。
だけど目があうたび、いつも語りかけてくれているような気がしていたんだ。大切なもの、時の流れとともに変化していくもの、いつもぼくに教えてくれたね。
毎朝起きたらきみにおはようって挨拶して、あたらしい一日が始まって。
身近だけれどとても大きな存在を感じられたからこそ、道を誤ることなく人生を歩んでこられたと思っている。

だけれどもうすぐ離ればなれになってしまう。出会いの先におそらく待っている別れ、それが具現するだけのこと。こうなるってわかっていたことだから、けれども悲しい。
そのうちドアがノックされて、きみの代わりになるだれかがうちにやってくるだろう。
そして“用ずみ”になったらほかのたくさんの思い出たちの中に埋もれていくのかな。
あるべき結路としてきみは自分の役目を果たそうとしている。でも本当にそれをのぞんでいたのか、もし叶うなら気持ちを聞かせてほしい。このまま消えていってしまうなんて、しかたないけれどやっぱりさみしいから。

それでもやっと、やっと、ぼくたちは理想の関係になれるんだよね。

2002/12/11

どれほど重要な動機であってもそれ単体では事象を成立させる要因としては乏しい。
複数の点やベクトルを張ることではじめて解空間が形成される。
目の前の悲しみを飛びこえるいくつものあらたな期待という羽を身にまとって。
ふたつめの理由、募集中。

2002/12/12

消さねばならない、曲がある。

何かを知ったとき、それまでの自分はそれを知らなかったということに気づく。
あらたな知識を得て成長するはずなのに、未熟さやみじめさに悩まされてばかり。
後ろ向きで、過去にとらわれて、いじいじと引きずって、前に進むことを知らない。
本当に気づかなければならないのはもっとほかのことであろうはずなのに。

他人を騙すことには過敏なのに、どうして自分のことは容易に偽れてしまうのだろう。
まちがいや矛盾に気づいたとき、それを謝れるだろうか、改められるだろうか。
きっとぼくは全力で否定することしかできないのだろう。
どれだけ薄情で冷酷で狡猾な人間だとわかっていても捨てられない強情さ。

思い出として焼きつけてしまうくらいなら。

2002/12/13

気づけなかったのはぼくが厳密には当事者ではなかったのだから、とまた責任逃れ。

あたりまえのこと、どこにでもあること、だれもがわかっていること。
そういうもののひとつとして、現実はそこに呼び出されました。
目を通して流し読んだだけでなにかを知ったつもりになっていて。
自分の中のピースがいくつも抜け落ちていること、そして自分自身がこの世界における一ピースにはなりえないのだと。
感じました。

だれもが病んでいて、抜け出したくて、結論に踏み切れずにさらに悩んで。
なにげない機微が表面上の社交プロセスに思えたり、心のどこかで他人を信用していなかったり、かならずうまくいくと確信できた絶対性さえあっけなく倒れたり。
それでも、こんな人間でも、求めることをやめられないのは、誤りなのかと。
ふたたび自分はどうかしていたと思い知らされるまでほころびつづけるのでしょう。
愚かにも。

あらゆる希望の芽をかなぐり摘み取って息の根を止めてほしくて、すがっていたから。

2002/12/14

フリテン状態。
過去をなげうつことばかりで、そのたびに苦しみから逃れてばかりで、そして後悔を植えつけてばかりで。
悲しい罪をその記憶とともに自分の身体から切り離してきた。繰り返してきた。
いちど捨てたものをまた得ようとするなんてなんと愚かなことか。

ぼくはだめだと謙遜して蔑んで、そんなこと本気で思ってなどいないくせに。
自分自身を切りつけて、傷を負わせて、不幸な被害者ぶっているだけ。
偽りの爪跡は生涯の痕跡でも受難の勲章でもない、ただの卑しい顕示欲。
何食わぬ顔で惰性的にのさばっている現況という図々しさ。そして傲慢。

享受せられる利得も環境もなくて、それでも太陽はまぶしく照りつけて。
痛いくらいの悠然たる時間を、凍えるほどの暖かい風を、今日も感じている。
人智を超越した多様性のひとつとして世界にはこんな人間も存在しているのだということを。
償いつづけるから。

2002/12/15

何も知らなかったころには、戻れない。

ことばを覚えるたび。おとなに近づくたび。
自分の気持ちをこじつけられることを覚えた。
言い訳を並べて逃れられる手段を知った。
ただ体裁がよいだけの姑息な生きかたを。

自分からあらゆることばを奪ってしまえたら。
ぼくはどうやって感情を表すのだろうか。
嘘も見栄も着飾ることもない素顔の心は。
どれだけ汚れた色をしているか見せてやる。

塗りたくられた過ちの染みは、消えない。

2002/12/16

他人のために悪者になろうとしている誰かがいて。
勇敢な戦士に滅ぼされることを心のどこかで願う魔王がいて。
涙を流すことも知らない色鮮やかな花があって。

それなのにぼくは、一歩も動けずにいて。
自分の言動に一片の正当性も見出せないことでさらに縛りつけて。
なぜこんなことをしているのか、このままでいいのか、ありきたりの疑問。

どうすることが正解だなんてわかりようがない。
ひとつの選択しかえらべないから履行しているだけ。
それは順調に歩いていると言えるのか、迷いのない人生と呼べるのか。

きっと未来のあるときに今日をふり返ってしみじみと思うのだろう。
あれでよかったのだと。審判の日まで真偽は闇の中。おそらくは時効として。
いつか報われるのだという浅はかな期待とともに、抱きつづけて。

この世に絶対などないのだと。正義も、悪も、真理も、虚偽も。
どうにかして自分に鞭打って納得させて生きていかねばならない。
ダークな部分もグレーな部分も含めての自己というありさまを。

2002/12/17

終わった日のこと。

もしあの日、電車を乗りちがえなかったら。
もしあの日、うっかり人に話したりしなかったら。
どうでもいいようなことが、すべての因果と錯覚してしまいそうな。
何かに責任をなすりつけなければ正気ではいられなかったのだろう。

気がついたら深淵に突き落としていた。
気づいていればよかった。何に。浅はかな愚行に。
どうにもならないこと、なんて決めつけて自分の非を免れようとして。
一線の向こうからは破滅へとつづく蛇足的なエピソードの瓦礫だった。

もっと長いスパンで人生を見つめようとした瞬間、あるいは矢先の。
遠い先のこと、もう覚えてはいまい、その予測を得る材料となって。
あまりにも卑屈だった自分をもっと蔑んでもいいはずだ。
どんな過失も羞恥もいつかへの糧としかならないのだから。

それ以外のすべてが。

2002/12/18

おとなになれば知ることなのだから。きっとぼくも。

黙っていればいいものを、ことを荒だてるばかりで。
それは能動的破壊。風化を待つのとは正反対の行為。
本当の心の痛みを知らない若さが無茶をさせている。
その手は岩石のように荒れて残虐がしたたるだろう。

剥奪などではなく、ぼく自らの意志で無へと帰ろう。
ことばを発しなければ誤解も齟齬も生まれないから。
人を愛さなければたがいに傷つけ憎まずにすむから。
矛盾を抱えていても不条理でも、それが自分の本質。

いまは先人たちの轍を踏むがいい。歩み誤るがいい。

2002/12/19

ぼくは悪人だよ。
自分の目的のために近づいてる。
自由を、ことばを、未来を、奪おうとしている。
この手は不幸を招くだけなんだ。
それでも弱いから、さみしいから。
目を覆っても口をつぐんでも隠しきれない。
わかってもらう権利なんてないのに。
わかりきった答えに、気づかないふりをしつづけなくちゃいけないなんて。

2002/12/20

人間の中には魔法使いがいる。

言った者勝ちの世界にあって。
いつも損をするのは勇気を持たない無力な市民。
封じこめる。反撃を許さない。何も受けつけない。
どんな物理観念も戦略も形無しにし調律の破綻を招く暴力を操る姿はまさしく魔女のよう。

ヒステリー。拒絶の癇癪魔法。

2002/12/21

どうして平気だったのだろう。

顔を見ること。ことばを交わすこと。同じ向きへ歩くこと。
怖くて、息苦しくて、疑おうと思えばいくらでもできる。
何度でも、信じて、叶わなくて、天を仰いでばかりなのに。

気がつくと過去ばかり追いつづけている自分。
蜃気楼となって溶けても、白く輝く吐息にとろけても。
経験を重ねて学習したつもりの未成熟な精神で。

どうしても離れられないから。

2002/12/23

いろんなことがつづいて、そのたびに心打たれて自分の情けなさが身にしみて、泣き出しそうになった。

人と関わることに疲れてふさいでいた時期があった。
ひとりでも生きていけると思っていた時期があった。
何もかもを切り離して孤独をのぞんだ時期があった。
そしてそれを、実行に移した。

無視しようとしたのに、裏切ろうとしたのに、見捨てようとしたのに。
あるいは、無視したのに、裏切ったのに、見捨てたのに。
心のどこかで迷いつづけながら、わざと嫌われようとして、あるいは完全に姿を消して、そんなことばかりに執心してきた。
結局はさびしさに堪えきれなくてべつの何かにすがってばかりで。

引き返すこともできない。
先に進んでも何もない。
自分だけが取り残されたという状態に気づいてはじめて、今まで手放してきたものがどれほど大切なものだったかという重みを思い知らされるはめになる。
虫がよすぎる思考が浅ましすぎて自責する気も起こらない。

だから本来ならば会わせる顔なんてない。
自分の家族さえ愛せなかった人間が、どうして他人と向き合ってなど生きられようか。
ましてやそんな権利など。
現世のひずみに点在する見えざる孤島に置き去られてのたれ死ぬべきなのだ。

それなのに、それなのに、どうしてこんなぼくを。
これっぽっちの利益にもならない無価値なこの場所を。
何もできないばかりか傷つけて恨んでばかりの性根を。
放っておけばただ朽ちていくだけのつまらない人間を。

こんなにも、許されていて。
悲しいことなんか、どこにもなくて。
だって今日も明日も、生きていたいって思えて。
それがどれだけたくさんの期待に、支えられてつなぎ止めているんだって。

もう疲れたふりなんてやめよう、不幸を口にするのをやめよう。
それは本当に失礼なことだから。
ただ笑おうとするんじゃなく、自然と笑っていられる自分を目指そう。
それも数あるリターンのひとつとして。

自分の行動にいちいち理由をつけるなんてわざとらしいだけ。
ぼくがどれだけ間違いだらけかなんて百も承知。
大切なのはわきまえること、開き直りでなく真摯に受け止めること。
卑屈に隠して信念を曲げないこと。けれど自分を押しつけないこと。

あのときぼくは、信じてあげられなかった。
許してあげられなかった。
守ってあげられなかった。
自分に何かができたかもしれないなんて思いこみ自体が傲慢だったのだけれど。

だからぼくは何もいらない。許されることではないのだから。
他人に受け入れられること、認めてもらうことをいつしか心の中で求めてしまっていた。
それは見返りを期待しての関係であり、そこに真の信頼など生まれない。
そういうのも、ぜんぜんいらないから。

数をかぞえるのはやめにして。
人から言われたことを気にして自信を失うのはやめにして。
自分らしさ、自覚はまったくないけれどきっとちゃんとどこかにあるんだと思う。
ひとりで考えてたってそれは見つけられないんだ。

のぞんではならなかったもの、それは永遠。
もう時間が止まってほしいなんて思わない。
移ろうものすべてが目の前で姿を変えていく、あるいはぼく自身も、ときには流されるままに、それをしっかと自分の目で見、肌で感じていこう。
そんなあやふやなこれからの人生のどこか一部分ででも。

こうして知り合えていることを素直に、本当にうれしく思う。
もっと基本的なレベルでぼくは悩んでいくだろうしそれが不可解に映るかもしれない。
けれど、すべてをあげてもいいくらいの気持ちはたしかに持っているから。
たとえ思いこみでもぼくはひとりじゃなくて、その実感があるかぎりかってに死ぬわけにはいかないから。

たくさんの、ぼくのあなたへ。

2002/12/24

笑うことと表情を崩すことはちがうのだと思った。
怒ることと声を荒げることはちがうのだと思った。
泣くことと涙を見せることはちがうのだと思った。
愛することと愛を語ることはちがうのだと思った。

にせものではないけれどほんものでもない感情たち。
顔色を窺って顔を作って場になじんでそれだけ。
もうわかっている。それが自分のやり口だということを。
相手の気分を表現するアイロニカルな映し鏡として。

ぼく自身が注目されることはなくても、よかったんだ。

2002/12/25

自分が繰り返してきた悪態の重篤さが、はじめて逆の立場になってみてようやくわかった。
ぼくには到底受け止めきれない。
見るのがつらい。まぶたをきつく閉じても光景が突き抜けて痛みが流れこむ。
比較すればするほど、かつて狂っていった自分と瓜二つだとしか思えないから。

2002/12/26

マンネリ。
どれだけ悩んでも、自分を貶めても、変わりようがないのだと。
相応の制裁も甘んじて受け、もちろんそれで何を償うつもりでもないのだけれど。
離れてからたがいにつまらない感情にまみれていく中にあって。
たとえ経験を積もうとも失敗から学ぼうとも、ぼくがぼくであるかぎり。
重ねつづけるのだろう。関わったものを苦しめ非業のうちに逃げ出すのだろう。
何度ループしたって気づきやしない、それが最たる邪だということも。
汚れきった手でつぎは何に掴みかかるのか。

2002/12/28

耳を傾けてほしいなんて、言わない。

ぼくはもう若くない。
思い知らされることばかりだった。
社会も周囲も子どもだなんて目で見ていないのだという視線を感じるたび。
まだ気づいていないのは、変わっていないのは、自分の中身だけ。
少年のままでいたいなんて今日び流行らないし理解されないのかもしれない。
そんなだから子どもみたいなコミュニケートしか求められなかった。
ちっとも成長しなくて、意識は変わらなくて、年齢と身体だけが無駄に老いる。
このまま自身からも置いてけぼりを喰らってしまうのだろうか。

おとなになることをためらっていたのは。
自分が変わってしまうのがこわかったからではない。
まだおとなとしての素養や分別をなにも持ちあわせていないという未熟さを露呈してしまうことを嫌っていたにすぎないのではなかろうか。
この広い社会でひとり歩んでいくには、ぼくは無勉強すぎた。
その羞恥を隠蔽したいがために弱者のふりをしてきただけだったのだと。
いい加減、目を覚まさなきゃいけなかったのに。
稚拙な夢ばかりを追い求めて、きれいごとだけにすがって、生きようとだなんて。
子どもには戻れなくて、おとなにもなりきれなくて、どうなるんだろう。

たしかにそういうものをどこか目指していた部分があった。
おとなとしての薄汚いイメージを持たない、成人に。
そのために捨てなければならない要素。たとえば憎悪、たとえば性欲、たとえば他人を騙しても傷つかない心。
それがいかに無謀なことだったか、以前よりすこしはまわりが見えるようになった今なら感じられる。
もっともそれらはおとなか子どもかという括りではなく、自分自身の許せない因子を挙げていたにすぎなかったのだけれど。
それさえもあまりに世間を甘く見ていたか、いい子ぶって生きられるなんて高をくくっていたかをよく示していた。
ただ、世の中にひとりくらいこんなやつもいたっていいんじゃないか、そう自分に言い聞かせて。

こと人間関係に関してはきわめて倒錯した観念を持っている。
はたから見れば粗凡ながらも明るい人生、どこに悩むべき要因があるのかも気づかれないほど。
他人に示しやすい、わかりやすいかたちの不幸を負っていれば説明に困らないのに、などと思ってしまうときもある。
素直になれないのではなく、真に受けすぎて心の弱さをさらしてしまう。
どうして笑っているとき、笑っている自分の感情に疑問を持ってしまうのだろう。
どうして人と話すことに疲労感を覚えたり、無意識のうちに無理をしてしまうのだろう。
どうしてたくさんの関係の中で思い出を積み重ねても、大切なものを自分の中に残せなくて、それどころかつねに後悔ばかりがつきまとうのだろう。
ぼくはだれも拒みはしないのに。そんな立場にはないのだろうけれど。

いまだにこんなことで思いつめていること自体がガキだと言うのか。
“今度は”きっと結論を出さないことに徹するだろう。
ひたすら強さと自立性を見せつづけるだろう。
悲しいくらいに点対称な反面教師ぶりだとしても、口にすることはないのだろう。
自分の何もかもを打ち明けているように見えて、実際のところさほど晒してなどいなかったのだから。
騙っていただけ。これまでも、そしておそらく、これからも。
現在そうした状況にあるからという理由ではなく、ぼくにはそんな身のこなししかできなかったんだ。
そして、未来を予測することも。

前向きに考えるのは苦手だけれどがんばってみることにした。
おそらく今後もこのままで大丈夫なのかもしれない、そんな予感を持てるようになったからだ。
若いころはたとえ自分が望まなくてもまわりに人が集まってもてはやされていたから、気づかなかったんだと思う。
毎日が楽しすぎて半分夢の中にいるようなバーチャルな感覚に酔っていたから、見えなかったんだと思う。
おとなになれば、そして自分がそれになったということを自覚すれば、はじめてわかってくるのかもしれない。
失うものは何もなくてただがむしゃらに突っ走っていけた過去、だからあんなに無茶をしたり自分を壊したりして。
今さら戻りたいという気にもならないけれどたしかに輝いていたのだろう。
失敗の連続だった日々のはずなのに、自分なりにいわゆる青春を謳歌してきたんじゃないかという満足感のほうが日増しに強くなってきている。

子どもとおとなのジレンマで揺れている意気地なしの自分も。
醜いくらいに卑屈になって場をやりすごそうとしている自分も。
こんな世界にあっても現実を悲観し理想郷を描きつづける自分も。
だれかに理解されることなんて求めないし、そういう自分を愛しているというわけでもないけれど、きっとこれが自分らしさというものなのかもしれないから。
遅ればせながら降り立った大地、不確定な天恵ももたらされない不毛のそれ。
そういったものをすこしずつ受け入れていこう。
ぼく以外のすべてを、許してあげよう。
自分がされたくないこと、されたらいやだと思うことは他人にはしない、その程度の気配りしかできないだろうけれど。

もう、何も報告することがなくなってしまったけれど。
それはそもそも見栄を張ろうとしていただけなのだから。
意識せず、無理をせず、他人に惑わされずマイペースを貫くこと。
感覚がずれていてもばかにされても気にしない、それが結局はぼくにいちばん合っているんじゃないかという気がした。
だからこれからも応えられないだろうし、また軽く扱ったり無下にしてしまうかもしれない。
それはもちろん人間関係においては悲しいことなのだけれど、そのたびに悔やんだり自分をなじったりするのにも正直つかれていたりもする。
だからもう謝らないことにする。確信犯的に許しを請うなんて、相手に要求するなんてもっとも姑息な戦法だから。
はじまりとおわりに、いちいち線を引かないことにする。

ぼくの主張なんてぼく自身の存在と同じくらいちっぽけでつまらないものなのだから。

2002/12/29

なにもきこえない。
かさねあわせない。
世の中にすばらしい曲はたくさんあるしぼくはそれらをこれからも愛していくだろうけれど、感化されるままに自分の生きかたを揺さぶってしまうのはやめにしたい。
それはあくまで作り手の主張、メッセージなのであって、作品として鑑賞したり評価するにとどめるのが適切な距離だと考える。
そもそも視聴にふさわしい感性に見あうだけの人間性がぼくにあるとは思えないし、世間一般のケースが適用されるほどまともな思考も持っていないのだし。
つくづく、似つかわしくないことばかりして背伸びをしているんだなと思う。していたんだなと。
自分を奮い立たせたりなぐさめたり、あるいは沈ませたり痛いところをえぐったり、たいていのことは自分ひとりで行えることを今は知っているから。
ぼくのそばにあるのはぼく自身のことばだけ。

2002/12/30

振り向いてしまったけれど。
逃げられなかったけれど。
それでもしあわせだと思う。

命がけで教えてくれたから。
思い出させてくれたから。
なにもできなかったぼくに。

だからまた言いつづけるよ。
ありがとうここにいるよ。
たとえ禁句とされていても。

あのときのぼくに謝りたい。
きみはまちがっていない。
過去として封じるなんて罪。

こうするしか策がなかった。
だったらそれでよかった。
泣きながら笑うこともアリ。

一手でがらりと変わる局面。
面白いほど反転する状況。
追いつめられて見える真価。

目をそむけて生きるなんて。
ひとつところにすがって。
もう考えられないことだね。

目の前の時間を享受しよう。
ぼくだけは覚えていよう。
あんなちいさなできごとを。

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