[むかしのなぞ] 2002/05

2002/05/10

すっかり弱虫になった。
見たくないものを見ないようにして。
難しいことや煩わしいことを避けて。
人と議論することもしなくなって。
人生に悩むのも悩むふりももうおしまい。
きっともう向上心も目の輝きもない。
ふわふわした楽ちんで生ぬるいしあわせに囲まれて、そういうものだけを見つづけていたいだなんて。
だけど、そのおかげで、今ここにいるのだから。

2002/05/11

自身に対して、人並みに、という言葉を意識的に使うようになった。
フツウの満足を、平凡な生活を渇望している。
かつてのぼくだったら蔑んでいたのに。

2002/05/12

誰も知らない、ぼくがどれだけ汚れているか。
何を経験したか、何を保有したか、それを知ることはあるかもしれない。
あるいは知らせることもできるかもしれない。
だが人生において重要なのは経験それ自体ではない。
経験を通して、何を学び、何を考え、結果としてどう変化したか、成長したか。
それが、経験、というものであるから、同じように、内面の変遷を知る術など。
知っては、ならない。

2002/05/13

時間がない。
1日の長さを86400秒と言いかえると、とたんに短く感じてしまう。
目をつむって、頭の中で数をかぞえていれば、それだけで針は回る。
時間は、戻らない。けっして。
かけがえのないものが、文字どおり刻一刻と、失われていく実感。
躊躇なんて許されない。
ただし時間は、すべての人の内に等しく流れている。

2002/05/14

ありのままの自分って案外難しい。
どんな自分も、それぞれれっきとした一面、自分の一部分であることはまちがいないのだけれど、しかしどれもしっくりこない。
それはあくまで、自分の中に自分を代表するある側面が、さも見栄えのよさそうな自分がいるかのような。
やはり、自分のことが何も見えていない。
見つける意味すら、ないことも。

2002/05/15

ブロッキング。
送信の命令を出さなければ、そこですべてが止まる。
通信のどちらかが、コマンドを送らなければ。
相手はずっと待っているのに。
それとも、コネクションを開いていないのは自分のほう?

2002/05/16

今までどれだけ甘い考えでいたか痛感させられる。
ひとりでに何とかなることなんて何もないんだと、今さらながら思う。
焦り、不安、やり場のない悔しさ。
とにかく足りなすぎる自分の実力が露呈されるたびに募る。
今にも手が届きそうに見えて、まだまだはるか先のよう。
登山に挑んではじめて果てしなき山の高さを知る、そういうことだろうか。
やらなきゃならないことが山ほどある。
やればやるほど、高く高く、積み上がっていく。

2002/05/17

ふと、自宅の今の待機電力はどれくらいだろうと気になった。
日ごろから節約やリサイクルに心がけているつもりでも、落とし穴はどこにでもあって。
浪費などしていないと自分で思っていようが、気づかないうちに刻々と電力を食いつぶしている。
同じように。
自分は何もしていないつもりでも他人や周囲に悪いことをしていたり迷惑をかけていることだってあるはずだ。
触れずとも切りつける、無実の刃。

もちろん反対に、自分では気づかないけれど人の役にたっていたりってことも。

2002/05/18

今のこの瞬間ほど、時間が止まってほしいと思うことはない。
何もかもこのままで、なんて、ありえないのに。
ぼくの心のもっとも卑しい部分が目覚めてしまう前に。

2002/05/20

何を憂えているのかもわからないのに。
自分が幸せだと思っているなら、なぜもこれほどに悩むのか。
ゆがんだ感情が、ことばたちが、次々とわいて出るのか。
気持ち悪い虫みたいだ。
心ごとなくなってしまえばどれだけ「幸せ」だろう。

2002/05/21

自分で自分がわからなくなること。
信じられなくなること。
これは偽物だと思ってしまいたくなること。
苦しくて、ぶざまで、腹立たしくて。
自分がかわいくて、手をあげられない、それがよけいに悔しい。
まだどこかで答えを探している、期待をしている。
人の為すことは、みな偽りなのに。
真実なんてないから、誰もが必死に自分を貫こうとするのに。

2002/05/22

時が流れれば薄れていくなんて甘すぎた。
後悔は罪の意識となって冷酷にのしかかる。
ゆっくりと視界を蝕む暗闇のような、時間の重さ。
衝動に駆られたとえ一瞬でも理性を失うことが、どんな過ちを生むか、どれだけ取り返しのつかないことになるか、…どんなに愚かであるか。
もう、戻ることはないのだろうか。
戻る必要はないと言ってくれたことばが、今ではもはや、ずっと遠いことのようにしか思えなくなっている。
こんなに悲しいのなら、あるいはそうと知っていれば。
…これからもこうして罪と懺悔を重ねて生きていくのだろうか。

2002/05/24

父「悪いことをしたら、ちゃんとあやまりなさい」
子「だってわざとじゃないもん」
父「だったらなおさらだろう? 悪気がなかったのなら、あやまれば相手もゆるしてくれるから」
子「わるくないのに、あやまるの?」
父「そうだとも。もしはじめから悪いことをしようと思ってわざとやったのなら、それはけっしてあやまってゆるされることではないからね」

もし気持ちに形や色があって、他人から見えるところに飛び出ていれば。
それは都合のよいことだろうか、それともよくないことだろうか。
ぼくたちは、幸か不幸か、他人の心の内を知ることはかなわないし、自分の心の内を他人に見せることも。
表情や態度に表れる場合もあるが、それでも外見から得られる情報はごく一部にすぎない。
だから、ときどき嘘をつく。
笑顔を作って、頭の中ではまったくべつの感情を持っていたりする。
それは、虚偽、ではないのかもしれない。演技か、社交辞令か、事なかれ主義かもしれない。
いずれにせよ内面にあるものとは異なる種類のものを表出するパターンがある。
ぼくたちは、ことばを使う。
ことばは外面的なほかのどの情報よりも手を加えやすいものなのに、すでに意思伝達の古典的な手段として遠い時代から定着してしまっているからなのか、たやすく信用してしまう。
ペットボトルやパッケージに詰められたものや、こぎれいなチェーン店で売られているものを、安全性をまったく疑うことなく口にしているのと同じように。
あれと同じで、ことばも、ときに人を傷つけ、信頼を裏切る、そういう危険なものとして扱われるべきである。

どこまでが悪意かなんてわからない。
気持ちをはぐらかして、適当にごまかして、その繰り返しの結果、本心を見失ってしまったのかもしれない。
また、どれだけ衝動的かも、どれだけ打算的かも。卑劣さと清廉さと、それぞれが他方を拒否しつづける葛藤。
今では何を抱いているのかも。
そんなわだかまりの結果が、ことばの暴力となり、側面的なデュプリケーションとなり、そして自らの身にも激しい後悔となって降り注ぐ。
いつだって自分のことしか考えられなくて、なんて、わかりきったことをまだ口にして。
こんなにも、痛いくらいの悲しみに満ちていて、卑怯で残虐で陰湿なエゴに満ちていて、それでも狂おしくて捨てきれなくて。
立ち向かっていく根拠も、前提があってこその話だったのに。

2002/05/25

澄みわたる水色の空も、雲の動きで濃淡が遷る緑色の山肌も、目に痛いくらい輝いていて。
どんなに楽しいできごとも、うれしい気持ちも、これじゃ何の意味もなくて。
もう、今までどうやって生きながらえてきたのかも思い出せないくらい。
先にも進めず、後にも引けない、時流から切り離されて取り残され、置き去りにされ。
鉄格子のわずかな隙間から漏れる光をただ見上げるだけの。戻れるかどうかも知れぬ外界の明るさをただ思い浮かべるだけの。
閉じこめられたままの、ひとりぼっちのままの無気力な意志を、現実というものが鷲づかみにし強制的に使役することでかろうじて働いている、操り人形のような人生。
それでもたったひとつ、ぼく自身の確固たる観念だと、信じていたもの。
遠いようで近いようなリミットを、短いようで長いようなスパンを、その一瞬がすべて決定づけるかもしれないような印象さえ、少なくともそれくらいに、ひとりの人間にとっては。

2002/05/26

まだ夢の中にいるみたい。
つくづく現金だと思うけれど。
たくさんのことが、たったひとつで。ひとつのことが、いっぱいに広がって。
自分がこんなふうになれること、今まで知らなかったこと。
いつも深読みばかりして、こそこそして、顔を上げることもためらっていたこと。
考えるだけで、思い出すだけで、満たされる、そんなぼくがいる。
もう、迷うことも、隠すこともしたくないから。
…もっと精錬しなければ。

2002/05/27

走り出したい気持ち。
闇は澄んでいなくて光が届かないから星の位置で季節を知ることはできないけれど、風なら感じられる。
道の向こうに何が待っているか知らなくても、ううん、それを知りたくて果てを目指すのかもしれない。
昨日の自分と今日の自分に差異があるのなら、それはきっとそういうこと。
もう、いてもたってもいられなくて、じっとなんかしてられなくって。
くすぐったいあたたかさが、知らずのうちに心を駆け足にさせる。
その先にゴールがあっても、終点があっても、そんなの無視してとびこえちゃおう。
どこまでも。それが目標だから。

2002/05/28

こんどは逆に、悟られることへの畏怖が生じる。
自分でも、すべてがつながっているような気がして、過去のあらゆるものがひとつの意志のもとに動いていたかのような錯覚に気づいて、あるいはそれは錯覚などではなくて。
どれだけ赤黒い劣情を塗りたくってきたのだろう。
剥がしたくても、どんなに拭いても、もはや消えることはない。それはもっとも恐れていた事態。
そして、本当にそうなのかどうかさえ。
“現実”という名の“実現可能性”を考慮していたにすぎない、その動物的計算にもとづいて。
繕うことは簡単かもしれない、ならば元をたどっていけばどこに行き着くのだろう。それが始点であるとすれば、あるいはそんなもの、存在しないとすれば。
ちっとも、前になんか進んでいやしない。

2002/05/29

生きつづけること、それは毎日の食事に支えられている。
どんなにたくさん食べても、おいしいごちそうを食べても、明日になればまた空腹になるし、味覚という思い出も忘れてしまう。
生きるために、糧として、摂取しつづける。
そしていつしか、共生という手段がもっとも平和的な解決だと知る。同時にもっとも閉塞した不毛な形態でもあるのだが。

2002/05/30

どうして自分のことを考えれば考えるほど、嫌いな部分しか目につかないのだろうか。それは本当はさほど嫌いではないからかもしれない。
ちっとも変わってなんかいないし、強くなってもいやしない。そればかりか。
重苦しさに苛まれた心理を振り払おうとして机にかじりついてみたり。こんな頭でなんて、仕事をなんだと思っているか。
知っているのに知らないふりをしたり、けっきょく人前で猫をかぶっているだけ。見る影もないすさんだ自分のやつれ顔を鏡に映すと心の曇りが手に取るようにわかる。
浮き足だって、空回りして、行動と行動がリンクしない。それは、自分がなにか別の存在に操られているような感覚でもあったし、自分の言動を遠くで眺めている別の自分が台頭する感覚でもあった。
生きることがそんなに難しいことだとは思えないけれど、そんなに簡単だとも、思えなくなってきている。地面に円を描いてその中に立っている、たったそれだけのちっぽけなドメインでなにを主張したと言えるのか。
本当にこれでよかったのか、このときという時機でよかったのか、胸の奥にこんな歪んだ感情を抱えたままで。逃げても逃げても不安は押し寄せてきて、自分のしたことが狂気か過ちだったのではないかとさえ、終わらない夢の中でもがこうとして。
信じなきゃいけないんだ、ここに、いまこの場所に、世界があるということを。自分の中に、ずっと培ってきたものを。

2002/05/31

迷うことなんて、結論を出す前に腐るほど重ねてきたはずなのに。
悩むことなんて、乗り越えるべき存在と腹をくくったはずなのに。
疑うことなんて、自分の信念を否定する障壁にしかならないのに。
煽ることなんて、一方的な衝動を強要する利己のあらわれなのに。

何度も、とまどって、くじけそうになる。
そのたびに、振り返られる思いがある。
信じたい、大切にしたい、糧にしていきたい。
ちっぽけなぼくの、たったひとつの、こころ。

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