消費者金融の看板だけはとてもよく覚えていた

2006/10/22

むかしのひび

あすであの地震から2年がたちます。ちょっと当時のことを書いてみようと思います。そろそろ気分的に話せるようになったので。
当日は土曜日でした。夕方、外で買い物をしていると、当時東京に住んでいた弟から電話がかかってきました。実家に電話をしているがいっこうに出ない、と言うのです。もう一人の弟の携帯電話にもつながらないそうでした。すこし気にかかりましたが、ただの留守かもしれないとあまり深刻には考えませんでした。そして帰宅してテレビをつけたところ、どこもそこもニュース速報ばかり。やっとことの重大さを知りました。
家族の安否を確かめなければ。電話をかけましたが、弟が言っていたようにまったくかかりません。何度もリダイヤルしましたが、受話器の向こうからは、電話が切れた後のあのむなしい音が聞こえるだけ。本当に一大事なのでは、という悪い予感がじわじわと襲ってきました。
テレビの前にかじりついて情報を集め、ひたすら電話をかける。帰宅してからずっと、そんな時間だけが過ぎていきました。そして夜9時ごろ、ようやく実家の弟の携帯電話につながりました。家族や親戚はけがもなく全員無事、家屋も倒壊していないと聞いて、大きな安堵のため息が出ました。ただ、家の中は物が散乱していて、また停電しているため、その晩は車内で明かすということでした。
私の実家のあるあたりは被害が比較的軽く、翌日には電気も復旧してほぼ元通りの生活になりました。…とまあ、現地の状況はこれくらいなんですけれども。問題だったのはむしろ、遠く離れて暮らしていた私のほうです。

無事だと電話口に聞いたところで、心配なものは心配でした。すぐにも飛んで帰りたかったのですが、道路や線路が分断されていてそもそも叶いません。無理をすれば帰れるかもしれないけれど、危ないからやめろと釘をさされました。会って様子を確かめられないことを、これほど心細く思ったことはありません。
ニュースが伝える被害は日に日にふくらむばかり。なくなった方もいます。大きな余震も相次いでいて、予断を許さない状況が続きます。みんな本当に無事なんだろうか、私に心配をかけまいとごまかしているだけではないか、とも考えてしまうようになりました。不安におびえるばあちゃんを電話ではげましながら、私のほうが不安な気持ちでいっぱいでした。
でまあ、そんな状態ではとても平静を保ってはいられません。仕事に集中できないくらいならまだしも、家事にも身が入らなくなって、いっきに生活は崩れました。深夜までニュースを見ていて寝不足になることもありました。また、そのころ親しくしていた友人がいたんですが、私が気弱なことばかり口にするようになって、それがしつこかったせいか疎遠になってしまいました。もちろん、どれも震災のせいではなく、私がしっかりしていなかったことに非があるのですが。
やはり、いざというときにこそ地というか、人の本性が出るものだなと思って。家族が大変な思いをしているときこそ、私が元気づけないといけない立場なのに。もし誰かに何かあったら、私がこれからのことを支えていかないといけないのに。自分が被害にあったわけでもないのに、不必要にふさいだり暗くなったりして、つくづく打たれ弱い人間だと思い知りました。

あれから私は成長できているでしょうか。人に対して何かをするには、まず自分で自分のことができないといけない。人に手を差し伸べるには、まず自分が強くならないといけない。そういう人間になれるように。

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