[やどりぎ] お父さん

お父さん(前)

 混沌をかたどった渦巻き模様の木目扉の向こうで、私はこの日も辱めを受けていた。
 夕どきの美術室。窓から差し込む西日が眩しくて目を細める。その日差しが、眼前に現れた黒い影によって遮られ、視界がかげった。
 至近距離に迫っているのは、塩広くんの顔。しかも、口で口を塞がれている。立った姿勢のまま、両腕をがっちりと掴まれて逃れられない。顔を左右に背けて避けようとしても、執拗に追跡してキスを強要してくる。もう何度されたか、回数も定かでない。
 顔じゅう至るところにキスをされたりべろべろ舐められて、みるみるよだれまみれになった。ぬめった生温い感触に身震いする。くちびるの上にも塩広くんは舌を這わせ、糸を引くほどの粘ついた唾液を塗りたくる。
 その舌が、かすかに開いていた私のくちびるの間へぬっと差し込まれた。歯の表面や歯茎をくまなく舐め取り、さらに内へと侵入を試みる。汚い、と思わず悲鳴を上げそうになったが、そのわずかな隙に舌を入れられると思い、きつく歯を食いしばって耐え続けた。
 そちらの攻防に気を取られていると、上半身に突然ズキッと痛みが走った。塩広くんの手が、制服のブラウスの上から私の胸を掴んでいた。手探りで位置を確かめるように入念にまさぐってから、小さな膨らみを握りしめるように押し潰す。
 発育途中の胸はちょっとした刺激にも痛むのに、こんなに力任せに揉まれたのではかなわない。たまらず苦汁をにじませた。
 塩広くんはようやく私をキスから解放すると、次にブラウスの裾を引っぱって、スカートの中から引きずり出した。たくし上げられた服の下から肌が露わになる。おなかが外気に触れて感じた寒気が、全身に伝播して背筋を震わせた。まさか、服を脱がせる気なのか。
 危険を察知して身を引いたが、片腕は依然掴まれたまま。上体のバランスを崩して後ろにのけ反る。逃すまいと間合いを詰めた塩広くんと足が交差し、背中から床に落ちた。
 夕日に照らされ温まった木の床に、強烈に背中を打ちつける。その激しい痛みに加え、全身にかかる重量感。見れば、塩広くんも一緒に倒れて私の上に覆い被さっていた。……この体勢はまずい。と思ったが時すでに遅く、塩広くんに抱きしめられる形で体を束縛された。両腕両脚をヘビのように絡められ、じたばた動かすこともできない。
 脱出を試みるも、思うように力が入らない。倒れたときに頭も打ったのか。何度もキスで息を塞がれ酸欠状態になったのか。美術室に充満する油絵の具や溶剤の臭いにやられたのか。それとも、体が無意識に抗うことをあきらめてしまったのか。
 塩広くんが上体を起こし、私を見下ろした。はあはあと呼吸を荒げ、なかば目の焦点も定まっていない。口元がにやりとつり上がったかと思うと、その顔がいきなり私目がけて落下し、避ける間もなく再びくちびるを奪われた。
 キスというよりも、口全体を尖らせて私の口の間に割り込ませる。今度は易々と中への侵入を許してしまった。塩広くんの舌が、まるで別の生き物のように暴れ、口内をかき乱す。私の舌を探り当てると、夢中でむさぼるように舐め回した。
 ピチャピチャ、ヌチャヌチャ。自分の口の中からもれ聞こえるみだらな音が、だんだん遠くに感じられた。息が苦しくて意識がもうろうとしてくる。半分私の体ではないようだった。満足に抵抗も拒絶もできず、甘んじて陵辱を受け入れるだけの状態。
 やがて、口の中につばがたまってきた。自分の唾液と、流し込まれる塩広くんの唾液とが混ざっている。吐き出したくても、顔を押さえつけられて横を向くこともできない。気持ち悪いと思ったが仕方なく飲み下した。
 つばを飲んだ際にのどにつかえて少しむせ、その様子に驚いた塩広くんが顔を離した。キスの余韻からか、恍惚に満ちた薄ら笑いを浮かべている。その不気味な表情のまま、私にしがみついた格好で上下に体を揺らし始めた。
 小刻みな腰の動きに合わせて、腹部に何かが当たる感触があった。その何かを私の体に擦りつけているようである。固くて熱を帯びた、ズボンの中の異様な突起物。……その正体に気がついて、サッと顔から血の気が引いた。
 塩広くんが私に対して興奮している、私に嫌らしい感情を抱いている。そのことが怖くてたまらなかった。理性を失い欲求のままに行為に没頭する塩広くんを止める手段はない。これ以上何をしようというのか。恐怖のあまり全身がすくみ、声も出せなかった。
 いつ終わるのだろう。いつ帰れるのだろう。ぼんやりと考えた。
 家に帰ったら、木に登ってきれいな夕焼けを見よう。お父さん、今日の夕飯は何かな。明日の授業の宿題もしないと。――あまりに理不尽でみじめなこの現状を直視することができなくて、心だけが別の時間を旅しているかのようだった。
 そんなぼやけた意識が、悪寒にも似た冷気によって現実に引き戻される。顔を上げると、塩広くんがスカートをめくって覗いていた。恥ずかしい、と思ってスカートを押さえようとするより早く、中に手を滑り込ませてきた。太ももの内側をべたべたとなで回され、全身に一斉に鳥肌が立つ。不快な感覚にうち震えている間にも塩広くんの手は奥へ奥へと進み、一番深い場所にまさに触れようとしていた。

 

「いやぁ……っ」
 がばっ。最後の抵抗を試みようと、ありったけの勢いをつけて跳ね起きる。しかしそこに塩広くんの体はなく、上身は空を切った。
 月明かりがカーテンの切れ間から差し込むだけの、暗い空間。つい今まで視界全体に広がっていた茜色はどこにも見当たらない。時間が経過して徐々に周りの様子がわかってくると、ここが私の部屋で、自分の布団で眠っていただけという状況を読み取ることができた。
 ……まただ。また同じ夢を見た。
 あの日の放課後、とっさに美術室から逃げ出したからキス以外のことはされずに済んだ。しかし、もし捕まったままだったらどうなっていただろう。他に何をされていただろう。忘れたい忘れたいと強く思うことほど忘れられないのと同じように、そんなこと絶対に考えたくないと自分に言い聞かせる分だけ、意思とは裏腹に想像は悪いほうへ悪いほうへと膨らんでいった。
 そして、文字通り悪夢となって夜ごと牙をむく。男子に好き勝手にいたずらされる夢なんか見せられて、ろくに眠れるわけがない。寝不足でこのごろ体がだるい。
 そうでなくても、あの日以来、ずっと無気力な状態が続いているというのに。
 何をする気も起きない。体が習慣を覚えているからとりあえず学校へは行くけれど、授業は何も頭に入らないし、いつもなら几帳面に板書をとるノートも白紙のまま。じっと椅子に座って時間が過ぎるのを待つだけ。
 前はあんなに毎日充実していたのに、今はまるで空っぽ。今まで何があんなに楽しかったのか、何に夢中になっていたのか全然思い出せない。このうつろな気分に支配された世界こそが私にとっての現実で、無邪気に過ごしていたかつての日々のほうが、ひょっとしたら幻だったのではないか。
 そう考えるとますます暗くなるばかり。友だちといてもちっとも心が躍らず、会話の輪に入れない。うつむいてにこりともしない私を気味悪がって、一人また一人と、私に話しかけるのを避けるようになった。
 クラスの中で、風だけは最後まで私から離れなかった。しきりに声をかけたり家に誘ってくれたけれど、どんなに温かな時間も、どんな励ましの言葉も、もう私の心まで届かなかった。私といても面白くないから、いつまでもつきまとわないで。ついには、私のほうが風から距離を置くようになった。
 友だちを失うことに、以前だったら胸を裂かれるような痛みを覚えたはずだ。けれど、今はみじんの焦りも後悔もない。他人のことを考えるのすら億劫に感じる。すっかり人が変わった陰険な私を、どうせ誰も相手にしないだろう。
 音もなく崩れていく。学校生活が。人間関係が。そして、私そのものが。
 不意に、ぶるっと体が震える。寝汗が冷えたらしく少し寒気がする。パジャマの中に手を差し入れると、洪水のように水浸しになっていた。体じゅうがべとべとに湿った気持ち悪さが、夢の中の光景を嫌でも蘇らせる。
 塩広くんの指先や舌が体じゅうを這い回るおぞましい感触。両腕でぎゅっと自分の体を抱いても、震えは止まらない。まさか、目が覚めてもなお悪夢に襲われることになろうとは。悔しさがこみ上げてくちびるの端を噛んだ。
 恐怖と不安に怯え、神経をすり減らし、荒れすさんでいく毎日。こんなことがいつまで続くのか。解放される日は来るのか。目の前が真っ暗になりそうな絶望感に取り囲まれ、ただただ途方に暮れるしかなかった。

 

 絞れるほどぐしょぐしょに湿っていたパジャマを着替えてから、部屋を出て階段を下りた。のどが焼けるように渇いて、何か飲まなければとても寝つけそうにない。
 台所に行くと、入口から明かりがもれていた。中にいたのは、缶ビールを手にしたお母さん。
「あ……」
「あら珍しい、こんな時間に会うなんて」
 スーツの上着を背もたれにかけ、白いシャツ姿で仕事帰りの晩酌を始めている。すでに少し酔っているのか、上機嫌な様子でニコッと笑いかける。
 私は一瞬にしてほつれた。
 あんな夢を見た直後だったから、お母さんの気の抜けた顔を目にしただけで一気に安堵したのだ。全身を縛っていた緊張の糸が切れて、力なくふらふらと二歩三歩前によろける。異変に気づいたお母さんが椅子から立ち上がった。
「志恵、あなたどうしたの。こっちにいらっしゃい」
 大きく両手を広げて呼びかける。その声に吸い寄せられるまま、お母さんの目の前まで歩み出た。お母さんは、私の頭や顔におそるおそる手を触れて驚いた顔をした。
「髪の毛びしょぬれじゃない。こんなに汗かいて、悪い夢でも見たの?」
 お母さんに言われて初めて、汗の始末をし忘れたことに気がついた。間違いなく悪い夢を見たのでこくんとうなずいたら、いきなり抱きしめられた。突然のことに目をぱちくりさせる。
「それは怖かったわね。よしよし」
 私の頭を鷲掴みにして、ふくよかな胸に押しつける力強い抱擁。荒っぽく髪をなでると、汗が水玉になって方々に跳ねた。
 少し息苦しいくらいだったけれど、とても頼もしくて、そして温かかった。心地よい安らぎに骨抜きになり、お母さんの体に寄りかかって体重を預けた。お母さんは酔った勢いでふざけているだけなのかもしれないけれど、今はそれでも構わなかった。もう少しだけこのまま抱かれていたい。
 お母さんの胸の中で、次第に涙ぐんできた。ほっとした気持ちだけではない。自分が情けなかったから。
 幼いとき、手のかかる子供が嫌いだと言われてから、お母さんの迷惑にならないように早く一人立ちすることを目標に掲げてきた。それなのに今の私は、悩み事からいつまでも立ち直れず、弱みを見せて図々しく甘えさせてもらっている。少しも成長できていない、だめな子供のままだ。
 そんな未熟ささえも許して、すべて受け止めてくれる。お母さんは絶対の存在なのだとあらためて感じた。

 しばらくして気分が落ち着いてきたので、そっとお母さんから離れた。歳も考えずに抱きあっていたことを思い返すと妙に恥ずかしい。照れ隠しで話題を探した。
「あの、お父さん起こしてこようか」
 テーブルの上に目をやると、ビールの缶の他には何も見当たらない。きちんと食事を取ったほうがよいと思うし、夜中に一人でお酒を飲むなんてつまらないだろう。
 お母さんは「それには及ばないわ」と答えると、両手を私の肩に乗せて食卓の椅子に座らせた。
「牛乳でいい?」
 まだ何を飲みたいとも訴えていないのに、冷蔵庫を開けて牛乳パックを取り出す。冷たい物はおなかをこわすからと、牛乳を手鍋で温めてから出してくれた。かすかに湯気の立つホットミルクを一口飲むと、温かさが胃の中から全身に染み渡った。
 今日のお母さんはいつになく面倒見がよい。普段はこんなふうに世話を焼くことはない。さっき私が泣きついたりしたから、心配させてしまったのだろうか。
 お母さんは続いて、冷蔵庫から小鉢のおかずを適当に出し、フライパンを火にかけて何か炒めだした。バターの香りが台所に広がる。食事を取っていないというのは、どうやら私の取り越し苦労だったようだ。
「あなたが早く二十歳になってくれたらね」
 出来上がった貝の炒め物とビールとを交互に口にしながら、私の顔を見てつぶやく。
「はたち?」
「そうよ。晩酌の相手してほしいの」
 あの人ったら一滴も飲めないんだから。そうつけ加えて笑う。そこまで聞いてようやく、二十歳というのは飲酒が認められる年齢を指しているのだとわかった。それから、お母さんがお父さんを起こさなくてよいと言った本当の理由も。
 自分が二十歳になるなんて、途方もなく先のことに思える。けれど、成人した私がお母さんとお酒を飲み交わす姿を想像するのは楽しかった。それを叶えるためには、これからあと何年も生きなければいけない。過ぎたことでいつまでもくよくよしていられない。
「お父さんから聞いたんだけど。あなた、漫画描いてるんですってね」
 いきなりな話題を持ってこられた、と感じた。とりあえず事実なので小さくうなずく。両手で持つカップの中で、牛乳がたぷんと波を打った。
 お母さんが思いつくままコロコロ話を変えるのはいつものこととしても、せっかくの趣味の話なのに、今は喜び勇んであれこれ語れる気分ではない。あの日以降、絵を描くことにも打ち込めずにいて、だから漫画からもしばらく遠ざかっている。
「……どうしたの、浮かない顔して」
 案の定、お母さんに見透かされてしまう。おかずをつまむ箸を休めてこちらを見つめている。
「ううん、そんなこと」
「そう? 私は嬉しかったわ。志恵はやっぱり私の娘なんだ、って思って」
 そう言って一人でうなずく。お母さんの中で自己完結できているみたいだけれど、私には話が見えてこない。そう言えば、お父さんに漫画のこと話したときも、志恵はやっぱり……、と何か言いかけていた気がする。よく思い出せないけれど。
 お手上げ状態の私に、お母さんがいたずらっぽく笑って教えてくれた。
「私もね。学生時代は漫画家を目指していたのよ」
 と。
「え!」
 一言発したきり、ぽかんと口を開けて固まる私。あまりに思いがけない話でどう反応したらよいかわからない。だって、お母さんが漫画が好きだなんてことも初耳なのに。面食らっている私を見て、お母さんは満足げに目を細める。してやったり、という顔だ。
「結局叶わなかったけれど、でもあきらめきれなかった。どうしても漫画に関わる仕事がしたくて、今は出版社でコミック誌の編集をしている」
 開いた口が塞がらない、とはこのこと。もう驚きの連続である。残りの牛乳を一息に飲み干したけれど、それでも胸の早鐘は静まらない。漫画を描く者にとって、漫画の製作に携わる人がどれほど憧れの存在であるか。その人がこんなに身近にいるとわかったのだから、興奮しないわけがない。
 それ以上に感激だったのは、お母さんが初めて仕事の話をしてくれたこと。これまで仕事の話は、あまり立ち入ってはいけない事柄のような扱いになっていたから。
 ぽつぽつと自分の仕事を語るお母さんに、食い入るように耳を傾ける。雑誌の編集は常に締め切りとの闘いなのだそうだ。昼も夜もなく仕事に追われている事情も、ようやく窺い知ることができた。
「何ていう雑誌なの? 私見てみたい」
 目を輝かせながら、当然のごとく浮かんだ質問をぶつける。私が知っている漫画雑誌だったらびっくりだし、そうでなくても本屋さんで探してみよう。
 しかし、お母さんは静かに首を横に振った。子供には見せられない、と言って。
 お母さんが編集しているのは、レディスコミックという種類の、成人女性向けの雑誌だった。漫画もその他の記事も、扱っている内容は大人の恋愛や性に関するものばかり。……たしかに、未成年の私が読むわけにはいかない。
 そして、それこそが私に職業を隠していた理由だった。子供の私に雑誌の内容を聞かれたら答えに窮するし、私が受けるショックも大きかっただろう。お父さんと相談して、私がある程度の年齢になるまで伏せておこうと決めておいたらしい。
 今だって、まったくショックではないと言えば嘘になる。けれど、漫画を描きたいという夢を追いかけて就いた仕事なのだから、素晴らしいことだと思う。それに、どんな内容であれ、お母さん自身がその仕事に誇りを持ち、やりがいを感じているのならそれでよい。私には何も言うことはない。

 言うことはない……けれど、思うところはある。
 お母さんの仕事の話で割りきれない点があるとすれば、問題は私の中にある。塩広くんは私を好きだと言ったけれど、その気持ちから起こした行動によって私はつらい思いをした。人を好きになることや恋愛に関して、今は少し疑心暗鬼になっているから。
 男女の関係をテーマにした雑誌を手がけているお母さんは、そういったことをどのように考えているのだろうか。私が納得できるようなヒントを与えてくれるだろうか。
 カラカラカラ……。自分のほうに空き缶がひとつ転がってきたので、指で弾き返した。缶はコースを変えて、お母さんの左手に当たった。手の指には、ビール缶と同じ銀色に光る指輪がはめられている。
 ふと思い立った。何よりもまず、お母さんという最も身近なサンプルについて聞いてみよう。
「お母さん。お母さんはどうして、お父さんと結婚しようと思ったの?」
 これまで秘密にしてきた職業を洗いざらい白状して、すっかり落ち着き払っていたお母さん。不意打ちのような私の問いかけに目を丸くして驚いた。むしろ、ぎょっとした顔と言ってもよいくらい。けれどすぐに高笑いしてみせる。
「いやだ志恵ったら。親のなれ初めを聞きたがるなんてませたものね。いいえ、中学生になってやっとだから遅いくらいだわ。あっははは……」
 お酒のせいもあるのか、とても愉快そう。私は一応真剣に尋ねたつもりなのに。
「いいわよいいわよ。スケベ話でも何でも、大いに語ってあげちゃう」
 スケベ話って。品のない表現にはさすがに眉をひそめた。そういった言葉が飛び出すのも仕事柄なのだろうか。こんなおちゃらけた調子では、身になる話はあまり期待できそうにない。そう思った。
 そこへ、お母さんのこんな一言。
「ただし、とてもつらいな話よ。精神的にまいっている今の志恵には酷かもしれない。それでも聞くのね」
 突然の、脅迫めいた忠告。びっくりしてお母さんの顔を見ると、もうお酒に酔ったへらへらした様子ではなかった。茶化すような口調も影をひそめ、目をつり上げて表情を強ばらせている。途端に台所の空気が重くなった。
 いったいこれから何が始まるというのか。お母さんが何か重大な話をしようとしている、そのことだけは肌で感じ取れた。
 お父さんとお母さんとの出会いにまつわる秘密。お母さんは私が「精神的にまいっている」ことをちゃんとわかっていて、その上であえて語ろうとしている。今この場にいる私だけのために。
 迷いはない。自分が受けるかもしれないダメージなど心配していられなかった。
 椅子の向きを直してお母さんに正対し、ゆっくりと大きく首を上下に振る。それを合図に、お母さんが厳かに口を開いた。

お父さん(後)

 私とお父さん――恵三くんが出会ったのは、児童養護施設だった。親を亡くしたり事情があって一緒に暮らせなくなった子供が集まって生活している施設。
 大学の漫研で、企業や病院などさまざまな場所を訪ねる活動をしていた。見聞を広めるために、社会科見学のような感じで。ある日、養護施設を訪問したとき、入所していた一人の少年に目が留まった。それが恵三くん。
 ひどく悲しい目をしていた。今のお父さんは微笑みを絶やさない、優しくて温かい目になったから、簡単には信じてくれないと思うけど。ああいう施設にいる子の多くは、親元を離れていたり家庭環境に問題があって、心に陰の部分があることも珍しくない。だけど、中でも恵三くんの暗さは尋常じゃなかった。
 話をしたり一緒に遊ぶときは笑顔になるけれど、目だけは死んだ魚みたいで、心から笑っていないのは一目瞭然。見ている私が心を痛めるくらい。何が彼をこうもねじ曲げたのか、何とか明るさを取り戻してあげられないか。気がついたらそればかり考えるようになっていた。
 それから一人で何度も施設に通った。恵三くんの話し相手になったり、時には許可をもらって外に連れ出したり。恵三くんも少しずつ私に懐いてくれた。自分の生い立ちは話さなかったけれど、打ち解けるごとに自然に笑える回数も増えていった。少しずつ前向きに変わっていく姿は、私にも大きな喜びと生きがいを与えた。
 初めはただのボランティアのつもりで接していたのが、いつしか惹かれあうようになった。恵三くんが笑顔でいられるには私が必要だと思ったし、私もまた恵三くんの側に自分の居場所を見出していた。共に生きたいと願った。
 それから、私は卒業して出版社に入り、恵三くんもアルバイトをしながら夜間学校に通い始めた。そろそろ将来のことを話しあう雰囲気になってきたある日、恵三くんが私を夜の公園に呼び出した。
 プロポーズされるんじゃないかってどきどきしながら向かった。でも、公園にいた恵三くんは、とても沈痛な面持ちで私を迎えた。施設で初めて目にしたときの暗さが蘇ったかのようだった。思い詰めた様子の彼は言った。
「志津子さんとはこれ以上つきあえない。僕は汚れているから」
 って。そんなこと言われてもぴんと来なかった。爽やかできれい好きで清潔で、とても汚さとは結びつかない人なのに。そう思ったら全然違った。その夜、己の過去をすべて打ち明けてくれた。
 恵三くんの父親は浮気癖がひどく、家の外で何人も子供を作って、ついには家族を捨てて出て行った。母親と二人の姉と恵三くん、残された四人は絶望に打ちひしがれながらも、支えあい励ましあって苦しい生活に耐えてきた。けれど、ぎりぎりの暮らしの中で心身は疲弊して次第に病んでいき、とうとう家族の絆を食い荒らすに至る。
 母親と姉たちが、やり場のない怒りと鬱積したストレスの矛先を恵三くんに向けるようになったのだ。それも、普通のいじめや暴力ではない。性の虐待だった。
 最初は姉たち。暗く貧しいみじめな現実に阻まれ、年頃の少女らしい青春など夢のまた夢。その不満のはけ口を弟に求めた。中学生だった恵三くんを二人がかりで押さえつけて裸にし、次々と上にまたがった。
 母親の目を盗んでは、姉たちは淫行を迫った。恵三くんはずっと黙して耐えていた。だがやがて、母親に見つかってしまう。
 しかし母親も、夫に見捨てられた心の傷や、自分だけで子供三人を養わなければいけない重圧などで、すでに憔悴しきって限界にきていた。そんなところへ娘と息子の行為なんて見せられたものだから、理性はあっけなく吹き飛んだ。行為をとがめるどころか、自分も加わるようになる。
 恵三くんは家に閉じ込められて学校にも行かせてもらえず、昼も夜もなく正気を失った女たちの性の相手を強要された。抵抗しようとすれば怒声で脅され、逃げようとすれば手足をロープや電気コードで縛られた。背徳の交わりは終わることなく繰り返された。
 このままでは自分も一家も破滅してしまう。そう考えた恵三くんは、最後の手段に出た。一瞬の隙を見計らって台所に駆け込み、包丁を持ち出して三人に切りつけた。
 三人とも命に別状はなかったが、この騒ぎによって恵三くんは補導され、結果として家を出ることになった。こうしなければ自分は生きられない、というぎりぎりの選択だった。

 

「う……ううう」
 私は背を丸めて、おなかと口元をそれぞれ手で押さえていた。胃の中がぐるぐるして今にももどしそうだ。口の中に生唾がたまってきて、のどを鳴らして飲み込む。肺が押しつぶされる感じがして呼吸が追いつかない。
 強烈すぎた。家族の間でそういうことをするという話だけでも信じられないのに、お父さんがそんなむごい目に遭っていただなんて。澄んだ瞳を輝かせていつも笑っている、あのお父さんが。
 塩辛い水の味がする。――涙が止まらなかった。
 泣き声をもらすと、よけいにおなかが苦しくなる。しゃくり上げるとさらに嘔吐感がこみ上げる。かと言って、とめどなくあふれる涙を、激しい感情の高ぶりをこらえることもできない。体の奥底から上がるうめき声が、じわじわと自分を苦しめていた。
 お母さんが私の背後に回って、肩や背中をさすってくれた。それで少しずつ気分を楽にすることができた。
「志恵はわかってくれるわよね。恵三くんが悪い人だからそんなことしたんじゃないって、わかってくれるわよね……」
 そう言うお母さんも、涙声だった。私は口を押さえたまま、何度も大きくぶんぶんとうなずく。二人のすすり泣きやぐずった声だけが、台所に時折響いていた。
 事情を聞けば、お父さんの行動はやむを得なかったとわかる。だが世間から見れば、傷害事件を起こした非行少年。家族に刃物を向けた人でなし。だからお父さんは、自分のことを汚れていると言った。性にまみれた日々のことも言い含んでいたのかもしれない。その過去をお母さんに背負わせたくなくて、別れようとした。
 対するお母さんはどう答えたか。それは、現在が証明している。
 犯罪者と結婚するなんて。犯罪者の子を産むなんて。ご両親の猛反対を押し切って、お母さんは静かな農村で新たな暮らしを始めた。この家でお父さんをかくまって守るために。お父さんを過去の苦しみから救うために。
 話を聞いて、お母さんが私のお母さんでよかったと感じた。私ももしお父さんのような人と出会ったら、きっと放ってはおけないだろう。お母さんの言動は自分本位に見えるときもあるけれど、本当は大切な人のために一生懸命になれる人なんだ。
 そして、あらためてお父さんのことを思う。毎日、おはようの挨拶とおいしい朝食ととびきりの笑顔が迎えてくれて、一日張りきれる。学校でうまくいかないことがあった日も、家に帰ったらお父さんが温かく微笑みかけてくれて、その優しさに慰められる。お父さんの笑った顔は、いつだって私の元気の源。
 それなのに。かげりのない笑顔の裏に、そんなすさまじい事実が隠されていたなんて。私の前でつらい顔ひとつ見せないように堪えてきたのだろうか。長い間ずっと、強くて頼れる父親であり続けようとしてきたのか。そう思うと心が痛む。
 今までは一方的に甘えているだけだったけれど、これからは私もお父さんの力になりたい。お父さんがずっと頑張ってきたこと、自分の過去と闘ってきたことを労いたい。それが、お母さんが私にお父さんの話をしてくれた真意だと思うから。
 その人のために何かをしたいと強く願う気持ち、それが好きということなのかな、と少しだけ思えた。

 いつしか吐き気も収まっていた。顔を上げて、泣き跡の残った頬と目元を指で拭く。お母さんが私の両肩をぽんと叩いた。
「さ、そろそろお開きにしましょう」
 そう言って、テーブルの上に散乱した空き缶を集めだした。よくこんなに飲んだものだ。片づけを手伝いながら妙なところに感心する。
 そう言えば、と、話の途中で出たお母さんとの約束を思い出す。大人になったら二人で晩酌をするんだ。お母さんが作っているコミック誌も見せてもらおう。今ならば、それほど遠い未来の話でもないような気がしている。
「明日は学校休みなさいね。お父さんには言っておくから」
 冷蔵庫のドアを閉めたお母さんは、お父さんの呼び方が元に戻っていた。腕時計を外して私の顔の前に示す。午前四時。話に夢中で眠気も飛んでいたため、こんな時間になっているなんて思いもよらなかった。たしかにこれでは、いつもの時間に起きるなんて無理だろう。
「でも」
 私は返答を渋った。べつに優等生ぶって欠席したくないというのではない。
 塩広くんにキスを奪われてからも、自殺未遂をしたと知らされてからも、どうしても学校だけは休みたくなかった。休めば私が傷ついたこと、心にダメージを負ったことを自ら認めることになる。そんなのはしゃくだった。塩広くんにいいように転がされているようで悔しかった。私はあんなことでへこたれたりはしないんだって、示したかった。
 だから、なかば意固地になって出席を続けた。どんなに心がつらくても。どんなに授業に身が入らなくても。たとえ友だちの前で笑えなくて愛想を尽かされても。
「休むのはちょっと……むぐっ」
「はいはい、そうね。でも休むの」
 お母さんの人差し指が、抗弁を続けようとした私のくちびるに押し当てられた。まさに有無を言わせず、だ。
 本当はわかっていた。休むまいと意地を張ることが、自分をさらに追いつめることになると。本心では誰かに諭してもらうことを望んでいた。もういいよ、って言ってほしかった。
 だから。口を封じられた私は、素直にお母さんにうなずいた。

 

 少し蒸し暑さを感じて目が覚めた。置き時計は十時を指している。本当に学校を休んでしまったことに、わずかながら後ろめたい気持ちになる。遅刻でも今から学校に行く選択肢もあるけれど、お母さんに言われたとおり、今日は一日大人しくすることに決めた。
 ふわ、とあくびが出る。寝坊したとは言え、いつもの睡眠時間には足りていない。まだ頭が半分とろとろしている。そう言えば、今朝は嫌な夢を見なかったな。
 パジャマのまま一階に下りると、お父さんがまぶしい朝日にも負けない笑顔で迎えた。その満面さに、胸に小さなとげが刺さったようなちくっとした痛みを覚える。
「欠席のことは志津から聞いているから。学校にも連絡した」
 だから心配しないで、というように微笑みかけるお父さん。お母さんの名前は志津子というのだけれど、お父さんは縮めて志津と呼んでいる。私が学校の友だちをよくあだ名で呼ぶから、それに影響されたって言っていた。
 そのお母さんはというと、朝早くに家を出たそうだ。私には休めと言っておきながら、自分はわずかな睡眠だけでまた仕事に行くなんて。本当にタフだ。
 お母さんも頑張っているんだから、私も――。自分の気持ちを伝える決心をした。
「それ食べたら、もう一眠りしたほうがいいよ」
 お父さんの言葉にこくんとうなずく。私ひとりの遅い朝食。お父さんは流しで洗い物をしている。温かい味噌汁は、全身がほぐれそうなほどおいしかった。
 ご飯を食べながら、またあくびが出た。行儀の悪いことだけれど。お父さんに言われるまでもなく、この後すぐにでも寝つけそうだった。
 だけど、その前に言わなければいけないことがある。
 ごちそうさま、と手を合わせて、食べ終わった食器を流しに運ぶ。お父さんが受け取って早速洗い始めた。その横顔をじっと見つめながら、どうやって話を切り出そうか思案した。
「お父さん。あのね」
「――志津から、聞いたんだね。僕のこと」
 私が言いかけるより先に、お父さんが聞いていた。私のほうを向いたその表情は、悲しみの色をたたえていた。
「今朝、志津も様子がおかしかったから。何も言わなかったけれど、何となく……そうじゃ、ないかって。そう、なんだね。志恵に何もかも……」
 言いながら、徐々に怯えたような顔つきになっていく。白い皿がお父さんの手から滑って、カチャンと音を立てて流しに落ちた。見るからにうろたえた様子。目を背けたくなるほどの悲惨な過去を、私に知られてしまったことに動揺しているのか。
 私はとっさに、洗剤の泡がついたお父さんの手を取った。何も心配することはないと伝えるつもりで。ところが。
「ひいっ!」
 甲高い悲鳴とともに、お父さんが私の手を弾き飛ばした。握っていたスポンジは宙を舞い、床に落ちて濁った水を浸らせた。私から離れるように二、三歩後ずさる。その顔はみるみる青ざめていき、奥歯がガチガチ鳴っている。
 私が手を触れたことに、こんな反応を示したというのか。
 あんなことがあったから、お父さんが女の人に恐怖心を抱いていることは予想がついた。けれど、同じ血が通った私でもここまで拒絶するのか。幼い頃はお父さんに身の回りの世話をしてもらったし、一緒にお風呂にも入ったのに、今の私ではだめなのか。
 今一度、お母さんから聞いた話を思い返す。お父さんが虐待を受けていたのは、他でもない、最も信頼する家族からだった。それも、今の私と同じ中学生のときに。だから多分、私はもうお父さんにとって怖れの対象なのだ。
 前もって知っていたから、お父さんが私を拒んだ瞬間もあまり驚きはしなかった。それよりも、ここで怯んじゃいけない。人が変わったように狼狽しても、私を怖がろうとも、お父さんの姿を見つめることから逃げちゃいけない。
 なおも後退するお父さんに歩み寄って、腕に飛びつく。お父さんは奇声を発しながら、私を引きはがそうとじたばた暴れた。押し退けられても振り払われそうになっても、しがみついて絶対に離さない。そして語りかけた。
「お父さん聞いて。私は何もしない、ひどいことしない」
 その言葉で、抵抗は止んだ。その代わり今度は、お父さんの体がけいれんを起こしたようにひどく震えだす。落ち着かせなければ、と思い、お父さんの手を両手で軽く包んだ。今度は弾き返されなかった。
 肩に頭を乗せて、そっと体を寄り添わせる。震えが収まるまで、そのままの距離でじっとしていた。ただ、じっと。
「守ってあげる」
 父親に対してなんと生意気な口をきいているのだろう、と思いながらも続ける。
「お母さんと一緒に、私もお父さんのこと守るから。だからもう隠さないで。つらいの我慢しないでいいよ」
 言った。言ってしまった。
 これで終焉を迎えるだろう。これまでみたいな私とお父さんとの無垢な関係は。お父さんの曇りのない温かい笑顔に見守られて、何の不安もなくのどかな平和を謳歌していられた時間には、もう戻れなくなるだろう。
 ただしそれは、次の段階へ発展していくためのステップ。
 お父さんのどんな秘密を知っても、どんな無様な姿を目の当たりにしても、お父さんを嫌いになんかならない。家族なのだから。弱いところを見せたり、悩みを打ち明けたり、支えてもらったり。それが当たり前のことだから。
 私たちは。私たち一家はかばいあって暮らしている。今までもこれからも。
「……うぅ……、ごめ……ん」
 床に崩れ落ちて肩を震わせるお父さんのエプロンに、涙の染みができた。消え入りそうな小さな声は、聞かなかったことにした。謝る理由などない。ずっと気を張っていたこれまでの分も、好きなだけ弱音を吐いていい。お父さんには私がついている。
 少年のようにか弱く見えた頭をなでながら、ふと、あの人にも会いたくなった。

 

 明けて翌朝。けろっとした顔で教室に姿を見せた私を、風の熱い抱擁が迎えた。他のクラスメイトがみんな見ているのも気に留めず、私がそこにいることを確かめるようにしきりに頬をすり寄せる。
「よかった……帰ってきてくれて本当によかった」
 ひと目見ただけで変化に気づくなんて、さすがは風。ずっと私のことを心配してくれていたのだろう。
「うん、もう大丈夫」
 目元にうっすらと涙を浮かべた風と見つめあい、にっこり微笑んだ。
 その日の放課後、早々に自転車に飛び乗って学校を後にした。今日から部活動に復帰するつもりだったけれど、急な用事ができたから。
 椿原先生から聞き出した道順を頭の中で繰り返しながら、その場所へと向かう。昼の時間が日に日に短くなってきていて、今日はこの時刻ですでに夕焼け空。毎夜うなされていた美術室の夢が、今はもう遠く懐かしく思われた。
 やがて、目的地の一軒家が見えてきた。前の道路に運送会社のトラックが停まっている。自転車を降りて押しながら、様子を窺うように家の正面に近づいた。
 ちょうどそのとき、開けっ広げになっていた玄関から大きな物体がぬっと顔を出した。見れば、二人の人が洋服ダンスを運び出している。一人は大人の男の人、そしてもう一人は……塩広くん。
 手ぬぐいを首にかけ、額に汗を浮かべて重いタンスを持ち上げている。非力なイメージしかなかった塩広くんが力仕事に精を出す姿には、違和感があった。しかし、一度は人生に絶望したことなどみじんも感じさせないほど、活力に満ちた表情をしていた。
 塩広くんがこちらに気づいた。狐につままれたような顔をして固まっている。その視線を追って、男の人もこちらを見た。私がぺこりと頭を下げると、男の人も会釈を返し、それから塩広くんの顔を見て、
「学、おまえの友だちか?」
 と質問した。口ぶりからして塩広くんのお父さんだろう。塩広くんはあやふやにうなずいていた。
「すまなーい、これ積み終わるまで待っていてくれないか」
 男の人が私に言った。二人に家具を持たせたまま立ち話というわけにもいくまい。私は「はい」と返事して、塀の前に自転車を停めて待機した。
 トラックのコンテナにタンスを積み、二人がこちらに歩いてきた。ただし、塩広くんは男の人の背後に隠れるようにして渋々ついてくる。私と顔を合わせることに気が乗らないのだろう。無理もない。
「お待たせ。学の父です。きみは?」
「あ、須里です」
 名乗ってから、しまったと思った。塩広くんのお父さんは今回のこと、塩広くんが自殺を図った経緯について、どこまで知っているのだろうか。例のスケッチブックの存在は。須里志恵という生徒の名は。
 しかし幸運にも、塩広くんのお父さんは私の名前を聞いても表情を変えなかった。
「このたびは急な話ですまないね。私の転勤に学も連れて行くことになったんだ」
 頭をかいてばつが悪そうに話す。そのことなら、すでに椿原先生から聞いて知っている。
 塩広くんは病院から退院したが、再び学校に通うことなく、そのまま転校するという。表向きの理由はお父さんの転勤に伴う引っ越しだけれど、騒ぎを起こした学校に戻るのは居たたまれなかったのだろうと推察される。
 そして、引っ越しの日は明日。今日が塩広くんと話せる最後の機会。
「というわけで、学。少し休憩にしよう。お別れなんだから、きちんと挨拶しておきなさい」
「えっ、でも……」
「何を遠慮するんだ。せっかく友だちが来ているのに。それに、父さんにも一服させてくれ」
 あっちで煙草吸ってくる。戸惑いを隠せない塩広くんにそう言い残して、お父さんは門の中へ入っていった。私はお父さんの背中に一礼した。

 家の前でぽつんと立つ二人。夕暮れ時ということもあって町内は賑やかだった。スポーツカーのおもちゃを手にした男の子たちが、キャッキャッと笑いながら走り過ぎていく。付近の家々から話し声や物音が聞こえる。静かなのは、引っ越しを控えてがらんとした塩広くんの家くらいだ。
 とりわけ、塩広くん本人は、私が隣にいても言葉ひとつ発しようとしない。口数が少ないのは今に始まったことではないけれど、うつむいたまま顔も上げずにいる。
「びっくりした……よね。いきなり訪ねて来られて」
 私は話し始めた。塩広くんは口をへの字に曲げて、まだ釈然としない様子である。一匹の赤トンボが二人の顔の間を通過して、私の自転車の前かごに止まった。
 塩広くんもまた、私との一件でつらい思いを味わっている。もう顔も見たくないはずだ。私を逆恨みしているかもしれない。突然の訪問をいぶかってもいるだろう。そのことをわかっていて、それでも私は会いに来た。
「お父さんには、私のこと話していないの?」
 先ほど引っかかった疑問だ。わずかにうなずく塩広くん。担任にも頑として口を割らなかったくらいだから、ご家族にそうそう秘密を打ち明けるとは考えにくかったけれど。塩広くんのお父さんの反応も、私の名前に聞き覚えがあるふうではなかった。
 そのお父さんはというと、ちょうど門の間から私たちの姿が見える縁側に座り、煙草をふかしている。会話は聞こえないけれど目の届く位置。父親として「友だち」のことが気にかかるのだろう。
「転校、するんだってね。――逃げるの?」
 言葉尻が少々きつくなった。でもおそらく図星に違いない。とことん私を避け続けた塩広くん。命まで絶とうとし、最後には通っていた学校を去る。これが逃げでなくて何だろうか。責め立ててしまいたくもなる。
 突然のキスもショックだったけれど、その後の態度にはさらに閉口させられた。一度でも私のところへ来て、弁解するなり謝ってくれれば、あるいは許したかもしれないのに。塩広くんはそうはしなかった。
 しかし、それももう過ぎた話。今こうして塩広くんと会っていても、不思議と憤りや憎しみは湧いてこない。すでに過去のこととして、私の中で線が引かれているのかもしれない。
「あのスケッチブック、ずっと持っていていいから」
 スケッチブックという言葉に、塩広くんの体がビクッと動く。私が「塩広くんにあげた」と言って椿原先生に返したから、もう塩広くんのもとに戻っているはず。もちろん、それをわざわざ取り返すために今日ここに来たのではない。
 私のことを忘れてほしくなかった。と言っても、けして惜別の念からではなくて。私を苦しめた加害者の責任として、自分のしたことの重大さをずっと記憶に留めておいてほしかった。
「私はもう立ち直ったから。もう何ともないから。……一応」
 もう私のことなど気にかけていないかもしれないけれど、とりあえず伝えておく。
 対する塩広くんはどうだろうか。さっきから何を聞いても話しかけても、どうにも応答が弱くて、会話をしているという実感がない。ますます他人を怖れて自分の殻に閉じこもるようになってしまったのか。
 私に迫ったときの勢いはどうした。しびれを切らして告げた。
「塩広くん。顔を上げて。こっちを見て」
 普通に呼びかけただけなのに、悪いことをして叱られた子供のように縮こまる塩広くん。おずおずと顔を上げて私を見ようとするが、恥ずかしいのかなかなか目を合わせられない。
「ちゃんと相手を見て話をしなかったら、気持ちは伝わらないよ」
 一語一語を長く引き延ばして、ゆっくりと言い聞かせるように。最後に「ね」と念を押すと、ようやくちらっと目と目が合った。私はそれでひとまず満足した。
 最初からこうして向きあえていれば、塩広くんの一方的な好意が暴走することはなかった。こんな結末も迎えずにすんだ。塩広くんを好きにはなれなくても、普通に会話ができるくらいの仲にはなれたのではないか。悔しいというより残念でならない。
 私に会うために、毎日生真面目に部活に出ていた塩広くん。初めての男子からの告白。淡くほろ苦い思い出を私の胸に残して、塩広くんはいなくなる。
「それだけ言いたかった。そろそろ帰る」
 自転車のハンドルを握り、後輪のスタンドを蹴り上げた。不意打ちで突然やって来て、自分の言いたいことだけ言って立ち去る。ささやかな報復を果たして、実にすがすがしい気分。
「……あのっ」
 自転車ごと回れ右して立ち去ろうとした私を、塩広くんが呼び止めた。蚊が鳴くくらい小さな、聞こえなかったことにして無視することもできる声。しかし私は立ち止まる。
「うん?」
「あ……。その……どうして」
 何が「どうして」なのか。振り向いて傾げた首をさらに傾けたくなるような、頼りない声の質問。もっとも、聞き返さなくてもわかるけれど。どうして私が会いに来たのか、塩広くんはそれを知りたがっている。
 転校すると聞いていてもたってもいられなかった、とか、文句の一つでも言っておかないと気がすまない、という理由もなくはない。けれどそれ以上に、どうしても伝えたいことがあった。
 心を傷つけられ、自分を見失いかけた私。そこから立ち上がれたのは、自分には好きな人がいたからだと思っている。正樹ちゃんや、風や、お母さんや、お父さん。好きな人たちのことを考え、みんなからも励まされて、こうして元気になれた。
 だから、そのことを塩広くんにも知ってほしかった。相手との接し方を誤らなければ、誰かを思う気持ちはきっと強い力になると。人を好きになるのは間違いではないと。正面から向きあうことの大切さに気づいてほしかった。
 だけど、私からのヒントはここまで。
「さあ。自分でもわかんない」
 わざととぼけて、意地悪っぽく笑ってみせた。ちんぷんかんぷんな表情の塩広くん。間の抜けたその顔が、夕日に照らされて明るく輝いた。
 ……やはり私は、心のどこかで塩広くんのことを気にかけている。だからわざわざ、こんなお節介をしに。わざわざお別れを言いに来たんだ。認めるのは悔しいけれど。
 サドルにまたがりながら、軽い調子で最後の言葉をかける。
「それじゃ、元気で。死なないでね」
「……う、うん」
 塩広くんの顔が一瞬引きつったが、気を落としたような苦笑いを作ってうなずいた。ついでのような感じで伝えたけれど、本当はこれが最も言いたいことだった。
 どんな理由があろうとも、何もかも嫌になって投げ出したくなったとしても、自らの命を奪うなど絶対に信じられないし許せないこと。幸い、今の塩広くんは再びそんなことをしそうなほど危うくは見えないけれど。それでも願う。離れ離れになっても、どこかで生きていてほしい。
 去り際にもう一度だけ振り返ると、塩広くんが小さく手を振っていた。その姿が何だか微笑ましくて、自然と笑みがこぼれる。大きく手を振り返して、ペダルを踏んでその場を後にした。舞台の幕が閉じるように、空には夜のとばりが降り始めていた。
 バイバイ。

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