[やどりぎ] キス

 混沌を描いたような古びた木目の戸を開けると、いつもの気だるい空気が漂っていた。
 今日は部活に出た。美術部だ。特別教室棟の最上階にある美術室が活動場所。
 私より先に教室にいた部員は、男子が一人、女子が三人。私が自分の作業を始めてしばらく経っても、人数はそれ以上増えなかった。参加状況はいつもこんなもの。
 春の地区コンクールと秋の県展、それから学校の文化祭。年三回、作品を提出しさえすれば、何を描こうが造ろうが、あるいは部活動に出ようが出まいが一切自由。部員全員で共同制作のようなこともしない。なんともやる気のない部である。
 私も、その恩恵にあずかっている一人だけれど。放課後は他のこともしたいし、絵は学校でなくても描けるから。自分のペースでやりたい私には都合がよい。
 つくづく、本丸吏沙子さんはここに来なくて正解だったと思う。その本丸さんに取り残された私が、未練があるかのように美術部に籍を置いている。夢見た中学校生活はここにはないのに。懇切に指導してくれる素敵な上級生も。
 ここにいるのは。女子生徒たちに目をやった。輪になっておしゃべりに興じている。紙粘土をいじる手はお留守同然。そのうちガタガタと席を立って教室を出て行った。後はよろしく、という感じで一人が私にひらひら手を振った。お疲れさまでした、とおじぎして返す。疲れていそうもない先輩たちに。
 気を取り直して、色塗りの続きに取りかかる。モチーフは自宅の庭の木。風にお墨付きをもらった下絵を元にした。余計な背景はあえて省略し、一本の大木の細かな描写と躍動感の表現のみに的を絞った。大雑把に塗り分けた地色の上から、少しずつ濃い色を重ねていく。毎日見慣れている木だから、色彩を頭に思い浮かべるのは易しい。
 ある程度進んだところで、手を止めてふっと息をついた。呼吸も忘れるほど集中していたかもしれない。絵筆を洗った水を取り替えようと椅子から立ったら、私の方を向いていた男子生徒と目が合った。すぐさま照れくさそうにそっぽを向かれてしまう。
 その子、塩広くんは、机の上に花瓶やリンゴの置物を並べてデッサンを取っていた。私と同学年で、ここの部員にしては珍しく真面目に出ているみたい。なにせ、私が気まぐれで美術室に来てもほぼいつも会うから。今日のように二人だけで残る日もある。
 ただ、私も含めて、あまり他の部員と話をしているところを見かけない。寡黙で必要な会話以外はしないから、声をかけづらい一面がある。
 広い教室の隅と隅で、二人は黙々と絵を描いた。やがて、私が先に筆を置く。空はすっかり橙色。今日はここまでにしよう。
 画板や三脚をしまい、自分の絵と道具を手早く片づける。さあ帰ろうと通学かばんを手に取ったとき、不意に背後に人の気配を感じた。肩の後ろがぞわっと震える。
 振り向くと、真後ろに塩広くんが立っていた。反射的に一歩後ずさる。いつの間に近寄ってきたのか、まるで察せられなかった。急に心臓が鳴りだしたので、かばんを持っていない手を胸に当てた。これしきのことで動揺したなんて恥ずかしい。
「すっ……里さん」
「はい?」
 返事をする声が裏返ってしまった。目線を伏せたまま突然呼びかけるからびっくりした。私が意表を突かれるくらい、塩広くんから話しかけてくるのはまれなことだ。
 自分から呼び止めておいて、次の言葉をなかなか発しない塩広くん。もじもじと体をくねらせている。きっと人と話すのが苦手なのだろう。私も口べたでどもったりすることあるから、気持ちはわかる。だからと言って、いつまでも相手を待つ義理はないし、だいたい塩広くんとはそれほど親しくない。しびれを切らして言った。
「あの……。話ならまた今度聞くから。今日はお先に」
 回れ右をして教室の出口に向かおうとした足がびたっと止まる。腕を引っぱられたからだ。夏服の半袖ブラウスから露出した手首を、塩広くんの手が掴んでいた。
 なに? なに? 驚きを通り越してパニックになった。手を振りほどこうとしても強く握って離そうとしない。あの無口で大人しい塩広くんがこんな乱暴なことするなんて。それどころか、焦って当惑している私にいきなりの告白。
「ぼ、僕、須里、さんのこと、ず、ずっと好きだったんだ」
 えっ、と聞き返したくなった。本人の様子は決死の覚悟そのものだけれど、私には冗談にしか聞こえなかった。ろくに会話したこともない私をどうして好きになれるというのか。
 あっけに取られていると、さらに腕を引かれて塩広くんの方に体が吸い寄せられた。いったい何が起こっているのか。不意打ちの連発ですっかり混乱している私めがけて、真っ赤に興奮した顔が迫ってきた。視界が黒くなる。

 時間が止まった、かと思った。瞬間的に五感すべてが麻痺した。
 だんだんと感覚が戻ってくる。すぐ目の前に塩広くんの顔面が見える。荒い鼻息が聞こえる。そして、口に何かが押しつけられている感触。
 キスをされていると、ようやく認識した。
「――っっ」
 とっさに塩広くんの体を突き飛ばした。塩広くんはよろよろと後退し、机の脚につまずいてしりもちをついた。私は一目散に美術室を後にした。階段を駆け下りながら手の甲でくちびるを拭った。訳もわからない涙がぶわっとあふれてきた。
 大急ぎで家に帰り、洗面台で何度も念入りに顔を洗った。今日一日で石鹸がなくなるかと思うほど泡立てた。けれど、口元に残る不快な感覚だけがどうしても消えない。くちびるの上で何か生き物がもぞもぞ蠢いているような。自分の口でないみたいだった。
 ふと、お父さんがひげ剃りに使う剃刀が目に入った。無意識に手に取る。これでくちびるを削ぎ落とせば、こんな得体の知れない違和感から解放されるだろうか。あんなことされたのもなかったことにできるだろうか。刃を顔に近づけた。そのとき。
「志恵? ただいまも言わないでどうしたの」
 洗面室まで様子を見に来たお父さんは、私の手に剃刀が握られているのを見て目を丸くした。私もはっと我に返る。この状況をなんて言い訳しよう。
「ん? ひげを剃りたいの? もうそんな年頃かあ」
 と、お父さんが柄にもなくひょうきんなことを言った。そのおかげで今は助かった。
「そ、そうなんだ。あはは……」
「はいはい。おじいちゃんからもらった甘瓜切ってあげるから、終わったらおいで」
 お父さんが出て行ってから、少しの間手の震えが止まらなかった。剃刀で自分の口を切ろうとしていたなんて。気が動転して思考がおかしくなっているのか。
 タオルで顔を拭いたあと、台所へは向かわず自分の部屋に上がった。今ばかりは何も食べる気がしない。制服も脱がずに布団に突っ伏して、夕飯まで起き上がらなかった。
 初めてのキスに特別な憧れがあったわけではない。けれど、あんなふうに喪失したとあってはやりきれなさを禁じえない。塩広くんの一方的な思いを押しつけられた。
 漫画を描く参考にするために読んでいる漫画雑誌にも、少女向けに恋の話が数多く登場する。いつかは男の子を好きになって、思い焦がれたりつきあったりするのかな。遠い未来を漠然と想像していた。それが突如、思いがけない形で自らの身に降りかかった。胸のときめきとは無縁の、ただ口惜しいだけの現実として。

 あれから数日が過ぎた。どうにか毎日学校には来ている。とても授業やおしゃべりを楽しめる気分ではないけれど、逃げることだけは嫌だった。何から? と自問。
 自分から明かさなければ、あんなことがあったと誰も知らない。情緒が不安定になっていることも、平静を装っていれば案外わからないものだ。
 そう思っていたのに。
「どう? やっぱり志恵の方が似合うよ」
 右手首に光るピンク色のバンド。朱ちゃんが巻いてくれた腕時計に少しだけ心が弾んだ。
 昼食後の教室で。朱ちゃんが私に差し出したのは、映画に行った日にしていた腕時計だった。香織と風は図書室に行っている。私、そんなにもの欲しそうに見ていたっけ。
 新たな友情のしるしとしてもらってほしい、と言う朱ちゃん。小学校時代、私たちの仲が険悪になったことがあった。その件をほったらかしにしてきたことを朱ちゃんはずっと悔いていて、ここであらためて仕切り直したいらしい。
 気持ちは嬉しいけれど、そういう理由で受け取るのは純粋な友情を濁すようで気が引けた。プレゼントなどあってもなくても朱ちゃんを思う気持ちは変わらない。
 慎重にバンドを外して時計を返すと、朱ちゃんは泣き出しそうな顔になった。
「どど、どうしたの急に」
「私じゃだめなのね。志恵のこと、元気にしてあげたかったのに……」
 元気にする? 腕時計を遠慮されて落ち込んだのかと思ったけれど、どうも別の話をしているようだった。ひょっとして、私の変調に気がついていたのか。
「今まで、私も気づかなかったけど。草子が教えてくれて」
「風が?」
「うん。何日も前から志恵が全然元気ないって。ものすごく心配してたよ」
 なるほど、風は感づいていたのか。普段はおっとりしているのに、こと私のことになると嗅覚鋭くなるんだから。
「もし悩みごとがあるんなら、草子には相談してあげて。一人で抱えるより」
 私の手を握って力強く訴える朱ちゃん。勢いにつられてうなずいた。
「それか、正樹くんでもいいと思うけど?」
 私はのけぞった。なぜそこで正樹ちゃんの名前が出るのか。香織といい、私の弱点が正樹ちゃんの話題だというのは周知のことなのだろうか。
「正樹くんを立ち直らせたの、志恵なんでしょう? 本人から聞いたよ」
 だから次は志恵が力になってもらう番。と朱ちゃんは言うけれど、人間関係は貸し借り勘定で回っているわけではない。それでも、正樹ちゃんならば相談に乗ってくれそう。あのことを誰かに話すのは気がとがめるけれど、ここは頼ってみてもいいのかな。

「くそっ!」
 怒声を散らしながらこぶしを振り下ろす。力任せに叩かれた鉄の柵が、端から端までビリビリと震えた。正樹ちゃんの憤りの大きさを示すように。
 次の日の昼休み、正樹ちゃんと屋上にやって来た。不良の道から更生して再び女子のアイドルになった正樹ちゃんは、休み時間のたびに多数の生徒に囲まれる。だから、ゆっくり話をしようと思ったら人の少ない場所まで避難してこないといけない。
「美術部って言ってたな。何組のやつだ? 私がとっちめてやる!」
 くわっと見開いた目を血走らせて、今にも突撃せんばかりの勢いだ。腕にしがみついて正樹ちゃんを制する。
「待って。正樹ちゃんにそんなことしてほしくて、話したんじゃないから」
「志恵ちゃん……」
 木のように背高のっぽの正樹ちゃん。その肩に頭を乗せて体重を預けると、しだいに正樹ちゃんの全身から殺気だった雰囲気が消えていった。
 塩広くんのしたことは私の心に爪跡を残したけれど、仕返しをしたって気が晴れるわけでも傷が癒されるわけでもない。私のために正樹ちゃんに暴力をふるわせるなんてもっての外。
 もう一つ言うなら、塩広くんはあの日以来ずっと欠席しているらしい。あれきり顔を合わせてない。私にとってはもちろん好都合だけれど。
「だけどさ、悔しいよ。志恵ちゃんみたいないい子が、なんでそんなことされなくちゃいけないんだ」
 腹の虫が収まりきらなくて地団駄を踏んでいる。そんな正樹ちゃんに、感じたままの気持ちを告げた。
「ありがとうね」
 私からのお礼の言葉に、困惑ぎみに表情をゆがめる正樹ちゃん。
「なんでだ、私は何もしていない」
「してくれたよ。私の分まで怒ってくれた。正樹ちゃんに話してよかった」
 あの一件をどう受け止めてよいか、いまだ考えがまとまらない。そんな私に代わってストレートに怒りをあらわにするから、私も見ていて気分がスカッとした。一緒に悔しがったり悩んでくれる人がいる、私は一人ではない。その実感が何より心強かった。
 照れる正樹ちゃん。私と同じ短い髪をかく。そうだ、と何かをひらめいて言った。
「今日、学校終わったらうちの店に来るか?」
 と。正樹ちゃんの家は理容オワダという床屋さんをしている。
 以前の進路希望調査がきっかけで、ご両親と同じ理容師になることを意識しだした正樹ちゃん。仕事を知るためにお店を手伝うようになったという。このごろ放課後はいつも慌しく早帰りしていたのは、そのためだったのか。
「シャンプーするから練習台になってほしいんだ」
 わしゃわしゃと髪を洗う手つきを見せる。シャンプーだけの客もいるから問題ないと。
 私にはすぐにわかった。練習台というのは方便で、きっと私を元気づけようとしてくれているんだ、って。だから素直に招待に応じた。正樹ちゃんに頭を洗ってもらうってどんな感じだろう。想像すると楽しくなってきて、午後の学校はずっと浮かれ気分で過ごせた。

 さらに翌日は風の家にお邪魔した。最初から私の不調に気づいてずっと心配していた風には、やはり全部話しておきたかった。
「そんなことが……」
 私の打ち明け話を聞いてから、風は部屋の壁にもたれてうなだれていた。腕の中でクッションがつぶれている。今日はテレビゲームのスイッチも入っていない。真剣に私にかける言葉を探している様子で、私本人よりも思い詰めた深刻な顔をしていた。
 なにも無理に何か言ってほしいのではない。ただ聞いてくれるだけで、一緒にいてくれるだけでよかった。時計の秒針の音だけが響く、心地よい沈黙の時間が流れる。
 しばらく経ったころ、うつむきっぱなしだった風ががばっと顔を上げた。何かを決心したような迷いのないまなざしで私を見つめる。
「あ、あのね、スサ。私が……その、してみようか」
 遠慮がちに言いながら、四つんばいでこちらに迫り寄る。すわ何事か。
「風が、何? 何をするの」
「ええと、だから、スサにきっ、キスを……」
「えーっ!」
 あまりの大胆発言に仰天する私と、熟したトマトのように真っ赤な顔になる風。
 風の反応はもっともだ。私たちにとって恋愛なんてまだ先のこと。キスだって、本来なら口にするのもはばかられる行為なのだから。それなのに、私は。
「どうにか忘れさせてあげたいけど、これくらいしか思いつかなくって」
 いや、言っては悪いけれど、風らしくもない突飛な発想である。私が塩広くんにキスをされた事実を、自分とのキスで中和させようという気なのか。
 そこまで本気で私を気遣ってくれるんだ。私のために自分のくちびるまで差し出すつもりなのだから、半端な覚悟でない。献身的な風の思いやりに嬉しさがこみ上げた。
 試しに、風と口づけしているところを想像してみた。……体に火がついた。みるみる体温が急上昇。下手に男子を思い浮かべるよりずっと胸がどきどきした。頭の中が白くぼやけるようなふわふわした気分になる。相手によってこんな気持ちになれるのか。風とだったら全然嫌ではないし、つらい記憶を本当に忘れられそうな気さえする。
 などと考えている間に、風が私の両肩に手を乗せて顔を近づけてきた。って、もう電源入っちゃったの? ちょっと待って、いきなりすぎる、まだ心の準備が。頭の中であれこれ叫ぶものの声が出せない。甘い瞳に見つめられて、とろけるように全身の力が抜けていった。かすかな吐息が口元をくすぐり、頭もしびれてまともに働かない。
 あと五センチ、四センチ、三センチ。鼻が当たる。目を開けているのに、まぶたが独りでに落ちてきた。その刹那、ぼやけた視界の向こうに風の顔が浮かんだ。緊張した面持ちでぎゅっと目をつむり、口先を少しだけ突き出している。懸命な表情が健気で愛らしかった。
 風が私に捧げてくれるのなら、私もその気持ちに応えたい、全身で受け止めてあげたい。好きでもない男子に取られるくらいなら、風とした方がどんなに幸せだったか。風になら全部あげてもいい。お願い、心の中を風でいっぱいに満たして。みんな忘れさせて。
 ――それでいいの? このまま流されていきそうだった心と体を、最後の最後の理性が押し止めた。好きなら何をしてもいいなんて理屈があるだろうか。私はキスで傷ついた。だったら風は。これじゃ塩広くんが私にしたのと変わらない。同じ傷を負わせるだけ。
「くっ……」
 口が触れるか触れないか、すんでのところで身を翻して顔を離した。電池が切れたように風の動きがかくんと止まる。やがて静かに目を開け、放心した様子で私を見ていた。
「ここまでしてくれたのに、ごめん。でも、風を巻き込むことはできない」
 私は説明した。風のこと好きだから、なおさら自分の道連れになどしたくない。
「風の気持ち、ものすごくうれしかったよ。もう大丈夫」
 事実、だいぶ心持ちが軽くなったと思う。実際には、あわやキス寸前なんて事態になってしまって、とても落ち込むどころではなくなったのだけれど。
 ありがとう。風の手に自分の両手を重ねた。その手の甲にポタッと水滴が落ちる。雨漏り、ではない。風の頬を伝って落ちる涙だった。
「わわっ。どうして」
「ごめんなさい……。わたし、スサのために、なっ、にもできなくて……」
 私の手をきつく握り返して、ぼろぼろ泣き出す。しゃくり上げて言葉もところどころつかえた。これには私が驚いた。これ以上ないくらい私のために頑張ってくれた風が、いったい何に涙するのか。なぜ何もできないなんて見当外れなことを言い出すのか。
 キスは未遂に終わったけれど、それでも風から多くの励ましをもらった。立ち直れた。風のおかげだよ。いくらかばっても、頑なにかぶりを振って聞き入れようとしない。
 いよいよ感極まって、私の胸に飛び込んできた。子供のようにすがって泣きじゃくる風の姿を見ていると、自然と温かい気持ちが湧いてきた。背中をさすって落ち着かせる。
 過去のつらい経験を風が語るときは、私が悲しんでいた。ろくに慰めてあげられない自分を嘆いて。今はちょうど正反対。つまり、そういうことなんだ。相手のために何かしたくて、何もできない自分が悔しくて。二人していつも同じこと考えていた。
「似た者同士だね。私たち」
 そう声をかけてから、風の髪にくちびるを押し当てた。細くてサラサラした快い感触。
「へへ……チューしちゃった」
 口と口ではないけれど、体のどこかに触れさせればれっきとしたキスだ。これでもかなり中和された気がする。私が抱きしめる腕の中で、風の頭がこくりと小さく動いた。

 大切な友だち、正樹ちゃんと風のおかげで、一時期のショックからは抜け出すことができた。親身になって話を聞いたり支えてくれたこと、心から感謝している。
 私の内面は順調に回復しつつあった。学校生活もまた楽しく過ごせるようになり、美術部にも出ている。塩広くんが一向に姿を見せないので、まだ問題が決着したことにはならないのだけれど、そのうち忘れるだろうと期待した。
 その矢先の出来事だった。数学の授業後、担当の椿原先生が私に小さく手招きをした。号令が済めば休み時間でみんな散り散りになるので、他に気づいた生徒はいなかった。
「放課後、職員室の俺のとこ来てくれ。いつでもいいから」
 何だろう。数学の成績は中くらいの私が先生に呼び出される理由が思い当たらない。しかし放課後になって、職員室に向かう途中の廊下で不意に思い出した。
 椿原先生は、塩広くんのクラス担任だ。急に嫌な予感がした。
 椿原先生を訪ねると、職員室の奥の個室に通された。応接室という感じではなかった。ソファの椅子が向かい合わせに二脚、その間に膝の高さのテーブル。それらが何とか収まるだけの狭くて薄暗い部屋。周囲は物置のように雑然と物が積まれ埃をかぶっていた。
 問題を起こした生徒を詰問するような、刑事ドラマの取調室にも似た圧迫感。
 入口に近いソファに私を座らせ、向かい側に腰を下ろすなり先生は言った。
「うちの組の塩広が、先々週から登校拒否しているのは知っているか」
 塩広という名前を聞いた瞬間、顔から血の気が引いた。やはりその話だった。椿原先生は険しい顔つきで私の返答をじっと待っている。いつも朗らかでわかりやすく数学を教えてくれる授業中の先生とは、まるで人が違った。
「はい。……い、いえ、その」
 欠席しているのは知っていたけれど、登校拒否だとは知らなかった。それだけ説明するのにもしどろもどろになってしまう。
「ああ、登校拒否なんだ。それでだ。何度もあいつの家に行っているんだが、話を聞こうにもだんまりでな。須里は同じ美術部だろう? 何か事情を知らないかと思ってな」
 それが呼び出された理由らしかった。しかし、なぜ私なのだろう。塩広くんの情報を募るなら、まず同じ組の生徒だと思うのに。それとも、学級内は調べつくして手詰まりになったから、次は塩広くんが所属する美術部に手を広げたのか。
 事情。ぴったり思い当たる事情を知ってはいる。だがそれをどう話せというのか。塩広くんが学校に来なくなる前の日、無理やりキスされました。……なんてこと、いくら尋ねられても恥ずかしすぎて悔しすぎて言えるわけない。ほじくり返されるなんて屈辱。
「塩広くんとは、あまり話をしたことありません。数えるほどしか」
 これは事実。あの件は口を割れないにしても、学校の先生相手に堂々と嘘をつける度胸はない。ここは無難な受け答えをしてやり過ごそう、と考えた。
 椿原先生は腕を組んだまま睨みつける。萎縮してミジンコになる私。
「それは本当か……? おまえたちは親しかったんじゃないのか」
 耳を疑った。塩広くんと親しいなんてどこからそんなでたらめを。一方的にあんなことされた挙げ句カップル扱いされてはたまらないから、即座に首を横に振った。
 すると、椿原先生は後ろを向いて、背中で何やらゴソゴソやりだした。そして。
「だったらこれは何だ」
 バシーン。背もたれの後ろから何かを出してテーブルに叩きつけた。見れば何てことない、授業で使う学校指定のスケッチブック。この学校の生徒全員が同じ物を持っている。しかし、その表紙をよく見たとき心臓が止まりかけた。
 氏名欄には、私の名前が私の文字で書かれていた。
 塩広の部屋にあったんだぞ。追い打ちをかけるように椿原先生が声を荒げる。私は頭を抱えた。どうして塩広くんがこれを持っていたの。説明してほしいのは私の方だ。
 数か月前、校内で私のスケッチブックがなくなった。誰かが間違えて持っていったのではないか、と教室をいくつも回って探したけれど、とうとう見つけられなかった。
 それが今になって、よりによって塩広くんの家で発見されるなんて。
 考えられる答えは一つ。塩広くんが盗んで自宅に持ち帰った。けれど、その動機を推察すると鳥肌が立った。塩広くんは私の私物で何をするつもりだったのか。何に使っていたのか。自分の中の世界で私を溺愛していた塩広くん。気味の悪い想像ばかりが膨らんだ。
 悪寒にカタカタ震えている私を見て、椿原先生が慌てた。
「お、おい。そんなに怖がるな。別におまえをどうこうしようってんじゃないんだ。俺はただ塩広の担任として、登校拒否の原因を突き止めたいだけだ。もし須里があいつのことで何か知っていたら話してくれないか」
 なだめるようにゆっくり説明するさまは、もういつもの数学の先生だった。けれど、安堵感に反して私の目からは涙がこぼれた。再度うろたえる椿原先生。大丈夫です、というふうにしっかりとうなずき、ハンカチで目元を拭いた。
 先生に怒鳴られたのが怖かったのではない。無性に悔しかった。スケッチブックを持っていかれ、強引にキスまでされて、そして今はこんな部屋で尋問を受けている。自分の置かれている状況がみじめに思えてならなかった。
 こんなことでこれ以上振り回されるのはご免だ。すっと顔を上げて口を開いた。
「あは、自分でも忘れていました。このスケッチブック、前に私があげたんです。絵を参考にしたいって言われて、そのとき。だから塩広くんに返しておいてください」
 よくもまあすらすらと。自らあきれるほど嘘八百を並べ立てた。
 他に心当たりはないときっぱり伝えると、椿原先生はあからさまに残念そうな様子だった。私から情報が得られると踏んでいたのだろう、その分落胆も大きかったようだ。
 対する私はほっと一安心。やっとこの場から解放される。
 席を立って個室を出ようとする私に、椿原先生が告げた。何か思い出したら俺に教えてくれ、という頼みごとがひとつ。それと――。
「ここだけの話にしておいてほしいんだが、塩広のやつ、昨日から入院しているんだ」
「入院……?」
「ああ。自殺未遂だ」

 私は逃げるように職員室を飛び出した。焦っていて外履きにうまく足が入らなかったのでかかとを踏みつぶして履いた。玄関を出たところでかばんを教室に置き忘れていることに気づいたけれど引き返すのも億劫だ。今は一刻も早く学校から立ち去りたかった。
 全速力で自転車を走らせる。スカートがめくれるのも気に留めず赤信号も無視して。上空で雷が鳴ったと思ったら突然激しい雨に襲われた。雨具は通学かばんの中だしどこかで雨宿りする心の余裕もない。全身ずぶ濡れになっても構うことなく家路を急いだ。
 丘に続く坂道を猛然と上りきり、自宅の庭に自転車を降り捨てるや木の根元に飛びついた。芝生に座り込んで幹に抱きついた格好であらん限りの大声でもってわんわん泣いた。弾丸のように地面や屋根に打ちつける雨音にも消されないほどの叫び声で。
「えぐ、ひっ、うう、……う、わああああああっ、うあああああ……っく」
 椿原先生の話によると、塩広くんは通信販売で睡眠薬を不法に入手し、それを自宅で飲んだという。睡眠薬が人を死に至らしめるほど危険なものであることも私は知らなかった。幸いご家族がすぐ発見して命に別状はなかったものの、大事を取って入院している。
 生徒が自殺を図ったなど、学校にしたら重大な問題だ。だから椿原先生も躍起だった。たとえばいじめなど、学校で起きた何らかのトラブルが原因と考えるのが妥当だろう。そして見つかった私のスケッチブック。今日はどうにかごまかせたけれど、今後逃げ通せる自信はない。
 どうしてこんなことになってしまったのか。塩広くんが好きになっていたのは生身の私でなく、自分の想像の中の私。現実と頭の中の区別がつかなくなって、私に襲いかかってきた。塩広くんが抱いた妄想の巻き添えをくった。私は被害者。
 それなのに、当の塩広くんは自ら命を絶とうとし、私が学校から嫌疑をかけられている。これほど理不尽なことがあろうか。泣きわめかずにいられなかった。
 私じゃない。塩広くんを苦しめたのは私じゃない。塩広くんを拒絶して生きる望みを断ったのは私じゃない。死へと追いやったのは、殺そうとしたのは私じゃない!
 私は逃げなかったのに。必死に心の痛みを堪えて頑張ったのに。塩広くんはずっと逃げ回っていた。あんなことしておいて言い訳もないまま。しまいには生きることそのものから。罠にはめられた気分。私の学校生活が、初めてのキスもろとも台なしにされた。
 せっかく正樹ちゃんも風も励ましてくれたのに、これで全部だめになった。もう笑えない、もう起き上がれない。……ごめんなさい。迷惑かけてごめんなさい。私が弱いせいでみんなを困らせてごめんなさい。お父さんとお母さんにもらった体、汚されてごめんなさい。
 降り止むことなく、私を責め立てるように落ちる痛い雨。頼りない木の枝だけが優しい傘になってくれていた。

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