[TURN-S] ターニングポイント

 上半身を左右に激しく揺すって、何とかムラーノの束縛から脱出しようとするスバル。
 抵抗を続けていると、一瞬、肩を掴む指先の力が緩んだ。――今だ。

「……っ!」

 男の手を振り払い、軽やかな身のこなしで脇を抜けてそのまま逃げ去ろうとする。

「待てよスバル! どこ行く気だ!」
「うひゃっ……!」

 ムラーノも上体を翻し、長い腕を伸ばしてスバルを捕らえにかかった。
 が、もともと運動は得意なスバル、とっさに身をかがめて魔の手から逃れ、事なきを得る。
 リビングから出て……どこに逃げればいい? ムラーノはのんびり後を追ってくる。

「なんだなんだ? 鬼ごっこか? ハハッ……いいだろう、相手してやる」

 こちらは必死なのに、向こうは不謹慎ににやついている。ますます腹立たしかった。
 捕まってなるものか。身の危険というより、あの男の思惑にはまるのが悔しかった。
 しかし、家の中はそもそも走り回れるスペースがない。簡単に距離を縮められる。
 家の外に出ればよかったのだけれど……、ムラーノが廊下を塞いで通り抜けられない。
 ならば、と階段を駆け上がり、子ども部屋に飛び込んでドアを閉め、ロックをかけた。
 これで少しは時間を稼げる。ちょっと怖いけれど、部屋の窓から飛び降りて外に逃げて、

 少しも時間を稼げなかった。
 耳をつんざく衝撃音とともに戸板が外れ、その向こうには片脚を上げたムラーノが立っていた。

「……わざわざベッドルームに案内してくれるとはな。気が利くねぇ、スバル」
「ひっ……」

 その場にたじろぐスバルに向かい、一直線に近づくムラーノ。もう手の届く位置まで来た。

「いや……こっ、来ないで……!」
「つーかまえたーっと」
「あうっ!」

 再び横からすり抜けようとしたスバルだったが、ムラーノが伸ばした腕に絡め取られる。
 そのままサイドスローで球を放るように、スバルをベッドの上に投げ飛ばした。
 スプリングで一回だけわずかに跳ねた体の上に、夕立の雲のように黒い影が覆い被さる。
 ムラーノは片膝でスバルの脚を、片手で腕を拘束すると、もう片手を首元へと伸ばした。
 デニムシャツの襟元から指四本を突っ込み、そのまま下に引き下ろした。
 スバルも手でガードしたがお構いなし。ボタンがぶちぶちと弾け飛び、前が開けられる。
 ……ここまで一瞬の出来事だった。

 強制的にはだけられたシャツの隙間から、少女の胸を覆う紺色のハーフトップが覗いた。
 まだ慎ましやかな左右のふくらみが、スバルの息切れでせわしなく上下している。
 その光景を見下ろして、ムラーノは目尻を垂れ、舌なめずりした。

「――さすがに歳相応ってところか。まあ……揉めばでかくなるって言うしな、へへ」

 わざと嫌らしく指をくねらせながら、早鐘を打つスバルの胸へと降下していくムラーノの手。
 未知なるものへの恐怖から顔が引きつる。スバルはただ凝視することしかできない。
 組み敷かれたときの急展開から一転、まるでスローモーション映像を見ているようだった。
 ついに男の掌がハーフトップ越しのつぼみに触れ――ることはなく、スバルの体を通り抜けた。

「やぁぁ……え?」

 スバルが目を凝らすと、自分の肌や衣服の色彩が薄れ、半透明になっていた。
 薄れているのは色だけではない。実体が消えかかっている。だから触れられなかった。これは――。

「しまった、時間か……!」

 時間――スバルの一日が巻き戻る時間。知らないうちに十五時を迎えていたようだ。
 慌てふためくムラーノの眼下で、スバルの視界が明滅した。

 次に目に映る映像がクリアになったとき、スバルは階下のリビングルームにいた。
 ムラーノに破られた服も元通りに――というより、初日の長袖Tシャツに着替えている。
 何はともあれ、幸運にも危機は脱することはできた。しかし、これからどうすればよいのか。

 ――天井でドスンという物音がした。
 かと思えば、山男のような足音が猛然と階段を駆け下り、そして一階の廊下を突っ切って、

「!」

 ……こんなことなら、考えるより早く家を飛び出すんだった。今さら後悔したって遅い。
 二階から降りてきたムラーノに、あっさり発見されるスバル。
 十五時になっても、初期化がかかるのはスバルだけ。ムラーノはその場に留まった。だから。

「うっ……!」
「なるほど、ここがスバルの『振り出し』か。毎日この時間に、この場所に戻される――と」

 ムラーノは言いながら、自分のこめかみの辺りを指でつつく仕種をする。
 あのときと同じだ。……一回見ただけの学生証から住所を思い出したと白状したときと。
 覚えたぞ、という意味か。
 たとえこの場は逃げおおせても、ここで待ち伏せされたら次の十五時には確実に捕まる。
 スバルは戦慄した。全身が総毛立つ。

「……もうわかったろ? どうしたって逃げようがねえんだよ。わかったら大人しく――」
「ぁ……やっ!」

 ひと息に間合いを詰めた男がスバルを突き飛ばす。後ろにあるソファの上に体が転がった。
 ……スバルの思考が停止状態に陥っていた瞬間を、ムラーノは見逃さなかった。
 目を血走らせながら再びスバルの上にまたがり、動きを拘束しようと押さえつけにかかる。
 スバルも今度は拒絶した。屈したら今度こそ終わり――。死に物狂いで手足を振り回す。

「やだやだやだ……! 嫌だよ、こんなことやめてよ……離してっ」
「くそっ、このガキさっきからジタバタと……。この、動くな、……じっとしてろ!!」

 重い衝撃が、スバルを沈黙させた。
 ――ムラーノに頬を張られた、とわかったのは、時間差で鈍い痛みが訪れてからだった。

「ぅ……あ……」
「……チッ、手こずらせやがって。最初から抵抗なんかしなきゃよかったんだよ」

 動きの止まったスバルをこれ幸いと、体勢を組み直し両脚に体重をかけ動かせなくする。
 スバルはというと、なぜ自分が叩かれたのか理解できず、混乱の渦中にいた。
 これまでだって、大人に手を上げられたことはある。ゲンヤしかり、学校の先生しかり。
 しかしそれは、間違いを起こしたスバルを叱るため、しつけるためだったとわかっている。
 今回はまるで事情が異なる。何の非もないのにぶたれるなんて。あまりに理不尽な、体罰。

(なんで……?! あたし、なんか悪いことしたの……?)

 悔しさに涙をにじませる少女の体に、さらなる“体罰”が待ち受けていた。
 劣情に駆られたムラーノが、スバルの全身を着衣の上からまさぐりだしていた。
 二階では予期せぬワープにより回避された胸への接触も、このときは簡単に許してしまう。
 かつて感じたことのない、けれど確実に不快の部類に属する感触に、たまらず表情を歪めた。

「うえぇ……グスッ、やだぁ……」

 むせび泣くスバルの悲痛な訴えにも、情欲で理性を欠いた卑劣な男が耳を貸すはずもなく。
 プリーツスカートの裾に手を忍び入れ、めくり上げつつむき出しの大腿を撫で回した。
 太ももを、無垢な肌の上を芋虫か何かのように這う指先。
 他人に体を触られることが、こんなに気持ち悪いものだったなんて。

「へえ……、近頃のガキは思ったより発育いいんだな。やっべ、なんか興奮してきた……」
「……あぅ、うぐ……」
「さーて……そろそろ楽しませてもらうとするか」

 スバルの内ももから一旦手を離すと、いそいそとズボンのベルトを外しにかかった。
 知識に乏しいスバルでも、この先に待つのは悪夢しかないということだけは察知できた。

 そのとき。涙で半分ぼやけたスバルの視界に、砂嵐が混じった。

「んっ……?! ――くっ、タイムアップか」

 砂嵐のような映像のノイズが、男の全身にかかっている。その体がやがて半透明に掠れた。
 ……今度はムラーノの日付が巻き戻る時刻、十五時二十分になったということか。

「まあいい……。いいかスバル、すぐ会いに来てやるからな。いい子にして待ってろよ?」
「……」

 捨て台詞を残して、ムラーノの姿が完全に消える。スバルは返す言葉もなかった。
 もちろん、言いつけどおり待つつもりなどさらさらない。今度こそジ・エンドだ。
 家のどこかに隠れていたって、それほど広くもないし、そのうち発見されるだろう。
 ならば遠くへ逃げるしかない。

(けど……、逃げるって言ったってどこへ……?)

 

 ――またしても、スバルの優柔不断な性格があだとなった。
 リビングに留まってああでもないこうでもないと思索を巡らせて、どれほど経過しただろう。
 遠くから聞こえだした音が、少しずつスバルのいる場所に近づいてくる。

 自動車のモーター音だった。

「……いけないっ!」

 ローラーブーツをはめ、慌てて家を飛び出す。
 ……最悪のタイミングだった。件のスポーツカーがナカジマ家めがけて向かってきていた。

「ヒャッハッハァーッ! おっしゃ見つけたぞスバル! そこを動くなよおおおお!」
「わわっ……!」

 驚いて反対方向に走り出す。スバルを追ってさらに加速し、ムラーノの車がみるみる迫る。

「……はっ、はっ、はっ……くうっ!」

 簡単に追いつかれないよう、ジグザグに蛇行したり、幅の狭い道へと逃げ込むスバル。
 スポーツカーは車道にブレーキ痕をつけ、車体を障害物や民家の外壁に擦らせて執拗に追う。
 ……あの男は本気だ。どこまでも追いかけてくる気だ。どうしたって撒く術が思いつかない。
 必死で両脚を漕ぐ。その足元がミシミシと軋み始めた。ローラーが過負荷に耐えきれない。
 もとより、いくら運動神経抜群でもスバルだって体力を消耗する。……いつまでもつか。

 だが、先にしびれを切らしたのは意外にもムラーノの方だった。

「てめえッ! さっきからチョコマカと、なめた真似を……! こうなったら――」

 それまでスバルとつかず離れずの距離を保っていた自動車が、さらにアクセルを吹かせた。
 一気に加速しスバルのすぐ背後につけた。……どころかなおも接近しようとする。
 まさか、このままスバルをはねるつもりか。怪我を負わせてでも足止めするつもりなのか。

 ――この世界は完全に狂っている。時間も、人間も。何もかもが破綻した異空間なんだ。

 そんな考え事に気をとられたスバル、路面のわずかな段差にバランスを崩し、よろめいた。
 真後ろから差し迫るモーター音。今にもバンパーと接触しそうな距離。もう避けられない。

(やだっ……! 怖いよ! 痛い思いするのは嫌……!!)

 全身を強張らせ、まぶたをきつく閉じるスバル。
 だが――、恐れていた衝撃は一向に襲ってこない。
 目を開けて振り返ると、自動車はスバルを回避するように横すれすれを通過するところだった。
 側面から激しく火花を散らしている。……何かに触れたり擦れているようには見えない。
 果たしてスバルを追い越した車は、フルスピードのまま行く手にそびえるビルに突っ込み……、
 そして猛烈な勢いで壁に激突した。

「んなっっ?!」

 何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
 スバルをはねようとしたムラーノがハンドル操作を誤り、自損事故を起こしたのだろうか。
 頭の回転が追いつかず呆然としていると、

 突然の大爆発。潰れた車体から巨大な火柱が上がり、周囲一帯の光景が赤褐色に照った。

「ぁ……あ……、そんな……っ」

 あまりもの事態に腰が抜け、スバルは足元からその場に崩れた。

 

 その日以来、ムラーノが姿を現すことはなかった。

 あの事故だ。運転手が生存しているとは思えない。
 わからなかったのは、この繰り返しの世界で死んだ人はどうなるのか、ということ。
 二十四時間が経過すればまた時間が巻き戻って“生き返る”のではと、最初は思っていた。
 だからスバルは、しばらくのうちは自宅から離れて逃げ続けていた。
 十五時になるのが怖かった。自宅に強制転送されたときムラーノが待っていたらと思うと。
 でも、誰もいなかった。後日事故現場に行ってみたけれど、車も爆発の痕跡もなかった。

(また、一人ぼっちになっちゃった……)

 あんなろくでもない奴だったのに。
 ひどいことされそうになったのに。
 そんな人間でも恋しくなってしまうほど、孤独に取り残されるのはつらいことだった。

 

 さらにどれほどの日々を、無為に費やしただろう。
 天から強烈な日差しが降り注ぐ、夏の一日。
 カーテンを閉めきった薄暗いリビングルームの隅っこで、スバルは一人膝を抱えていた。
 せめてソファに座れば尻も痛くならないものを、忌まわしい記憶が蘇るからと嫌った。

(あの上に押し倒されて、叩かれて、体をもみくちゃにされて……っ)

 もう市中探索する意思はなかった。またムラーノのような男に遭遇しないとも限らない。
 そればかりか、何もする気力が起きない。部屋を移動することも、着替えることも。
 腹の虫が鳴っているのに、大好きな食事もしない。時間が巻き戻れば元も子もなくなるから。
 何をしようとしまいと、何も変わらない。何も後に残らない。だったら頑張るだけ無駄――、

 ブゥン。室内で蝿が飛ぶような音がした。

 億劫そうに顔を上げたスバルの視線の先には、空中に浮かぶコンソール画面があった。
 空間モニター。ミッドを始め、文化レベルの高い次元世界で広く使われている通信手段。
 ムラーノとの一件以降、ゲンヤやギンガへの連絡を試みることもすっかり失念していた。
 自分だけが隔離された、一人きりの世界。窓の向こうはどうせ誰ともつながっていない。
 ……そんなスバルの悲観を裏付けるように、モニター画面に映る映像はなく、真っ暗だった。
 しかし。

『聞こえる?』
「ひっ――」

 いきなり人の声がした。
 ――リビングの中央にぽつんと浮いた、その真っ暗なモニターから。
 通信トラブルか何かで画像が流れてこず、音声通話だけが確立された状態なのだろうか。
 そんなことよりも。スバルの記憶上では数十日ぶりに聞いた他人の声。相手は何者か。

「き、聞こえます。あの……」
『スバル・ナカジマ。――だよね』

 驚くあまり返事もできなかった。
 トーンは甲高くて幼さを感じさせる、しかし力強くしっかりと芯の通った、女の人の声。
 その声に自分の名を呼ばれたとあっては、スバルは呆気に取られるしかない。
 声の主は自分のことを知っているのだろうか。
 しかしスバルには声に聞き覚えが――いや、かすかにある。どこかおぼろげな意識の中で。

『あっても不思議じゃないよ。空港火災に巻き込まれたあなたを助けたの、わたしだから』

 スバルの疑問に、サウンドオンリーの通信モニターはさらりと答える。
 空港火災。出張中の父親に会いに行くため姉とやって来たその場所で、見舞われた事故。

「でも『助けた』って……? だったら、ここはどこなんですか? なんであたし……」
『――スバル。お姉さんやお父さんのところに帰りたくない?』

 問いかけに答える代わりにその声が発したのは、スバルにとって最も恋しい人の名前だった。

「お姉ちゃん? お、お姉ちゃんは無事なんですか?!」
『無事だよ。ギンガもわたしの親友が救助して、お父さんと一緒にスバルのこと待ってる』

 よかった、と胸を撫で下ろすスバル。
 ギンガの安否についてもそうだし、家族がどこかにちゃんといるという証言も得られた。
 あらゆる人との関係が断たれたと思っていたけれど、まだ望みはある。つながっている。

 それに気づいた途端、スバルの中で感情が湧きあふれた。

「か……帰りたい! みんなのところに戻りたいよぉっ」

 思わず立ち上がり、声を大にするスバル。固く握った拳が震えていた。
 モニターがふわりと動き、スバルの顔の前まで接近した。まるで少女に寄り添うように。
 光のわずかな反射で、こぼれそうな雫で潤んだ両の瞳が黒画面に映し出される。

「けどあたし、ここから出る方法もわかんないし、一体どうしたら……」
『……勘違いしてるみたいだけど。スバルが今いるところは、異世界でも何でもないよ』
「はい? それじゃあ……?」
『あなた自身が望んだ――日常』

 スバルは耳を疑った。
 独りぼっちで寂しかった。何もかもが巻き戻されて嫌になった。危険な目にも遭った。
 こんな世界を、こんな毎日を誰が好きこのんで望むものか、と。

「ちがう……! あたしっ、こんなの思ってなんか」
『ほんとは気づいてるよね』

 途中で言葉を切った仮想モニターが、スバルの目線より少しだけ高い位置に上昇した。
 今度はさながら、駄々をこねている子どもを注意するように。

『心当たり、あるんじゃないかな。将来したいことが見つからない。大人にはなりたくない。
このまま何も変わらずに、今の楽しい毎日が続いてほしいって。そう願った結果――だよ』

 ナカジマ家のリビングに、沈黙が流れる。
 ドアも窓も閉めきっているのに、どこからか冷たい風が吹き込んでくるように感じられた。

「……どうしたら、いいんですか?」
『うん?』
「もう一度……お姉ちゃんとお父さんに会いたいっ。終わらない一日を終わらせたい……!」

 わずかばかり顔を上げて、黒画面に向かって吐き出すように感情をぶつけた。
 声の主が誰なのかは、依然わからない。ムラーノのように親切を装っている可能性だってある。
 けれど、ギンガとゲンヤの所在を知っている。この世界のことを、知っている。
 声にすがるしかなかった。

『そうだね……。スバル、今日は何日?』
「今日……ですか? えっと、八月二十三日です」

 部屋の時計を確認するまでもなく、そらで答えられる日付だった。
 あと数時間してリセット時刻を迎えれば、二十二日に戻される。今は仮初めの二日目だ。

『そっかー。じゃあ夏休みだ。今日の分の宿題は終わった?』
「へっ?」

 思いがけず間抜けな声を出すスバル。
 というより、この声の人はこんなときに何を間抜けなことを言っているのだろう。
 スバルが置かれたこの状況では、宿題のことなど考えている場合ではないのに。

 たしかに、ループに飲み込まれても最初のうちは事前の計画どおり宿題はこなしていた。
 前日にノートを埋めた自分の文字が、毎度まっさらに消される。途中から嫌気がさしていた。

「ま、まだですけど、だってやったところで明日になったら――」
『だめだよー? そんなことじゃ』

 怠惰を諌めているはずなのに、空間モニターから流れる音声はどことなく明るかった。
 長期休暇だから遊びたい気持ちもわかるけれど、みたいなニュアンス。
 たとえるなら――実際に言われたことはないけれど――姉のギンガが軽く注意するような。
 それでいて、決して言うことに逆らってはいけないような、独特の緊張感があった。

『いくら勉強できるからって、今日予定してた分は片づけないと。あとあと大変だよ?』

 息を呑むスバル。……本当に、どこまで知っているのか。自分のことを。
 学校では常に成績上位なことも、休暇前に毎日の勉強計画を立てていたことも。
 スケジュール通り物事が進まないと不安になる性質のスバルが、自ら立案したものだった。

「は……はい、わかりました」

 のっぺらぼうの画面を上目遣いに見たまま、不承不承頷くスバル。
 元の世界に帰ることと宿題がどう結びつくか不明だけれど、声の人が言うなら従おう。
 リビングを出て階上の自分の部屋に行くと、学習机に向かいノートと問題集を開いた。
 あれほど無気力だったのに、一度集中してしまえば何のことはない。
 黙々と書き取りに打ち込む。シャープペンシルの先が紙の上を走る音だけが室内に響いた。
 空間モニターはスバルの部屋までついて来て、勉強中も後ろから静かに見守っていた。

 計画していた分量の宿題を終えたスバルは、ノートを閉じ、背後のモニターを振り返る。

「終わりました。次はどうしたら……?」
『今日は何食べた?』

 またも飛んできた気の抜けた質問に、スバルは危うく椅子からずっこけ落ちそうになった。

「何って……。何も」
『食べなきゃお腹すくよー? 服も着替えて、お風呂も入って、……お家の手伝いはある?』
「あ、庭の水まきと、それとお父さんが出張中はあたしが一階の掃除することになってて……」
『じゃあそれもだ。夏休み中だからってだらけてないで、メリハリつけた生活送らないと』

 別にそういう理由でだらけていたわけではないのだけれど……。軽く落ち込むスバル。
 次にやれと指示されたことも、何も特別な行動ではなく日常生活そのものだった。
 同じ一日を繰り返すのだから、そんなことしたってまた元に戻るし意味ないのに――。
 本当にこの人はこちらの状況がわかっているのだろうか。さすがに半信半疑になってきた。
 映像回線はいまだに開いていない。相手からスバルのことも見えていないはずだった。

 けれど、今は他に道しるべがない。深い闇の底で、蜘蛛の糸のように示された一条の光。
 それに……優しい声だった。思いやりと、頼りがいを感じられる声。ちょうど姉のような。
 実際、ギンガよりも少し年上くらいの人に思われた。あくまで印象だけだし確証はないけれど。
 それでも、たとえ顔も知らなくても、声の主が自分に悪さをしてくるとは思えなかった。
 ――信じてみよう。この人を、自分の勘を。

 

 家事の分担や課題図書を読むなど、スバルのこの日の日課はすべてやり終えた。
 久しぶりに入浴と着替えも済ませ、気持ちもさっぱりしていた。なんだか充実した気分。
 再びリビングに戻ってきたスバルたち。時計は間もなく十五時にさしかかるところだった。

「これで……元の世界に戻れるんですよね?」

 期待を込めた弾んだ声色で、空間モニターに訊いてみた。
 声の主に言われたことは全てやった。だから大丈夫。やっと帰れるんだ、平和な日常に。
 ――そう、スバルは信じて疑わなかった。

『さあ……? わたしは知らないけど』
「そ……っ」

 可愛らしいその声で、無情な一言を告げるコンソール。
 あまりものショックに言葉が詰まるスバルの脳裏に、自分を襲ったムラーノの影がちらついた。
 裏切られた――。あの人と同じに、裏切られた。

 次の瞬間、掛け時計が十五時を指す。
 スバルの体が一瞬消え、直後に同じ場所に現れたときは……姿格好はリセットされていた。

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