「一体どうなってるの? こっちも、こっちも……やっぱり……?」
半ばパニック状態で自宅を飛び出したスバル。
ローラーブーツで住宅地を走り抜ける。目に飛び込んでくる光景は、疑念を確信に変えていった。
人々が姿を消した、まるで生気のない街。静寂さも不気味さも、昨日と何ら変わっていない。
いや、「昨日」と呼んでよいのかもわからない。一日前と、まったく同じ日付。同じ時間。
夕焼けから夜のとばりが下り、空虚感と心細さを引きずりながら帰宅する少女の足は重かった。
自分の家に戻って一人分の夕食を作り、風呂に入り、夏期休暇の宿題をこなし、そして床につく。
明けて翌朝。窓から景色を見渡すも、状況に変化は見られない。肩を落としつつ、着替えて外出。
昨日は立ち入るのをためらった場所にも踏み込んでみた。もう遠慮なんてしている場合ではない。
教会、管理局の派出所、役場、ターミナル駅、エルセアを一望するポートタワーの最上階……。
行く先々で、スバルは溜め息を落としていった。そもそも何を探せばよいのかもわからない。
「はあ……。今日はそろそろ帰らないとかな」
ポートタワーの出入り口から出てきたスバルは、足裏に力を込めローラーを漕ぎ出そうとした。
その瞬間、地震が起こった。
――正しくは、踏ん張ったスバルの両脚が急にぐらついて、それを地震と勘違いしたのだけれど。
「うわわっ……! ……って――えっ? えっ? ……ええええー?」
驚愕の声を上げるスバル。目の前には、愕然とすべき光景があった。
見知らぬ場所に飛ばされたのではない。その正反対。毎日目にしている、最もよく見知った場所。
スバルは再び……自宅のリビングに立っていた。ブーツは履いておらず、空港火災の直前と同じ服。
掛け時計のデジタル表示は……八月二十二日、十五時一分。――もうイレギュラーなんかじゃない。
毎日同じ時刻に、同じ場所に戻される。全部がリセットされる世界。一人きりで閉じ込められた。
「うそでしょ……? なんであたしだけ……、なんで……なんでっ?!」
その日、スバルは一晩じゅう泣き通した。
二十四時間過ごしては巻き戻し、というルーティーンの日々を、何十回と繰り返したある日。
今日も当てもなく市街地をさまようスバルの姿があった。思考回路は走っていない。半ば惰性だ。
うわの空で両脚を振り、適当に路地を縫っていると、やがて河岸沿いの大きな通りに出た。
何車線もある幅広い車道の向こうには、川の堤防が見える。
――気休めにもならないけれど、ちょっと水の流れでも眺めてこよう。
そう思い立ち、車など通るわけもないのに律儀に交差点で信号待ちをしていた。そこへ、
スバルの目の前を一台のスポーツカーが猛スピードで走り抜けた。
あっけに取られて暫時立ち尽くしていたスバルだったが、程なくして我に返った。
運転席にあったのは、人影。――人だ。人がいる。
(よ……呼び止めなくっちゃ!)
車道に出て大きく手を振ろうとするより早く、車のブレーキ音がした。
向こうもスバルの存在に気づいたようだ。Uターンしてこちらに引き返してくる。
「――驚いた。この世界に俺の他にも人がいたなんて」
窓から顔を出した運転手は、ずらしたサングラスの奥の両目を丸くしていた。
――スバルとまったく同じ感想を口にしながら。
「ムラーノだ」
運転席から降りてきたのは、背の高い若い男だった。前髪を上げながら手短に名乗る。
「あっ、あたしは……」
「いやいい。身分証みたいなもん持ってたら、見せてくれる? そっちのほうが早い」
「あ……はい、わかりました」
自分の他には誰もいないと思っていた世界に、突如現れた謎の人物――。
スバルから見れば目の前の男が、男から見ればスバルが、ともすれば不審者である。
素性を明かせば怪しまれずに済むだろう。スバルは携帯していた学生証を手渡した。
「スバル・ナカジマ……ね。ミッド出身? 変わった名前だけど」
「あはは……。一応ミッドです」
ミッドでは耳慣れない名だということは自覚していたので、苦笑いでさらりと流した。
男はスバルに学生証を返すと、スポーツカーの助手席側に回ってドアを開けた。
「……ま、立ち話もなんだ。ドライブがてら話でもしよう」
爽やかな笑顔とエスコートに誘われるまま、スバルは迷うことなく車に乗り込んだ。
何日も探して誰も見つけられなかったのに、いきなり目の前に現れた一人の青年。
彼は何者なのか。どこから来たのか。ループから抜け出す方法を、知っているのか。
聞きたいことは山ほどあった。
「ムラーノ……さん? ムラーノさんは、どうやってここに……?」
「――俺にもさっぱり。気づいたらこの世界にいて……、誰かに会ったのも今日が初めてだ」
路面を滑らかに走るスポーツカーの車内で、ハンドルを握る男は溜め息をついた。
どうやらムラーノもスバルと同じ境遇らしかった。この無人世界に、突如放り込まれた。
「それじゃ、あたしと一緒ですね……。どれくらい前からいるんですか?」
「覚えてられるもんか。毎日毎日、同じ一日の繰り返しで頭がおかしくなりそうだ」
「ですよね。あたしは今日で三十五日目ですけど」
「……おいおい、そんな正確に数えてるのか? おまえどれだけ記憶力いいんだよ」
それから二人は情報交換をした。お互いが出会うまでに何をしていたか、とか。
ムラーノもスバルと同様、車で走り回って脱出への糸口がないか探していたという。
どこまで遠出しても、毎日同じ時刻に振り出しに戻される。
ある意味ドライブにはもってこいの世界だな、と力なく笑っていた。
なお、ムラーノの一日が巻き戻る時刻は十五時二十分。スバルと若干のずれがある。
「問題は、なんで俺たちだけがこんなとこに迷いこんじまったか、ってことなんだが……」
車は、エルセア中心部の繁華街の中を走っていた。
スバルもよく知る街並みが、車窓からの風景だと少しだけ違ったふうに映るのが新鮮だった。
もっとも、通行人が消えゴーストタウンと化したストリートなんて気味悪いだけだけれど。
「このループに入る直前に何やってたかとか、覚えてる?」
「あ、はい。お姉ちゃんと旅行中で、着いた空港で大きな火事があって、巻き込まれて……」
「その姉さんとやらは? 一緒にいたんじゃないのか?」
「いえ、あたしだけはぐれて迷子になったから……。きっと無事だと思いますけど」
あれから何度となくギンガやゲンヤへの通信は試みたが、一度だって繋がっていない。
ギンガは無事で元の世界にいて、スバルの帰りを待っている――。そう信じたかった。
「――クソッ、そういうことかよ……!」
突然、青年の握り拳がハンドルを叩いた。
いきなりの大声と、一瞬コントロールを失って車内が左右に揺れた振動にびくつくスバル。
「……? 何かわかったんですか?」
「ああ。実は、こっちも運転中に事故起こしてな……。このクルマが大破した大事故だ。
俺だって怪我してた。激痛だって血の色だって覚えてる。ところが目が覚めたら――」
無傷でこの世界につっ立っていた――と。
スバルの状況にも通じるものがある。黒煙に巻かれて煤をかぶり、瓦礫の下敷きになった。
「ということは……」
「あの世、ってことだろ。ここは」
ずばり言いきった男の言葉に、スバルの表情が固まった。
次の瞬間、車が急加速を始めた。スバルの全身が助手席のシートに縛りつけられる。
自分はもう死んだと悟ったムラーノが、自暴気味にアクセルを深く踏み込んだらしい。
「ちょっ、ま……待ってください! それだとおかしくないですか?!」
「ああん?」
ムラーノの腕を掴んで制止しようとするスバル。
怪訝に睨まれても怯むことなく、対案として自分の仮説を説明した。
つまり――死亡ではなくその一歩手前、生死の境をさまよっている状態ではないか、と。
なにも、自分たちが死んだなんて事実は受け入れられない、という気持ちからではない。
ムラーノの言い分に、はっきりとした違和感を覚えたからだ。
ここが死後の世界なのだとしたら、過去に死んだ、もっとたくさんの人がいるはずだ。
たった二人しかいないなんておかしい。もっと稀有な状況に置かれたと見たほうがよい。
スバルとムラーノの共通項……ワープする直前に、命にかかわる事故に遭っている。
そして無事でもなく、死んでもいなければ、その中間の状態にあるのではないだろうか。
「それだったら、あたしとムラーノさんの二人だけなことも説明がつきますし」
「なるほど……スバルの言う通りだな。――悪い、死んだと思ってつい熱くなっちまった」
車はスピードを緩めた。肩を撫で下ろすスバル。景色は河岸へと切り替わっていた。
「いいえ。でもそうすると、現実世界のあたしたちは……」
「ずっと意識が戻らないまま――なんてことになってるかもな」
スバルは想像した。病室のベッドの上で包帯をぐるぐる巻かれ眠っている自分を。
傍らにはギンガとゲンヤがいて、目を覚まさないスバルに必死に呼びかけていて――。
「――おい、どうした?」
「ううっ……帰りたい、早く帰りたいよぉ……」
泣き出した少女を気遣って、ムラーノが車を停める。
「まあそう落ち込むな。少なくとも、今日俺たちが出会えたのは明るい材料じゃないか。
二人で手分けすれば出口が見つかるかもしれない。……一緒に頑張ろうな、スバル」
「はい……よろしくお願いします」
ムラーノは近くの自動販売機でジュースを買ってきて、スバルに飲ませた。
のどを潤し、感情の高ぶりも落ち着いたスバルは力強く頷いた。
そうだ、これからは一人じゃない。
「……あっ。あたし、そろそろ帰んないと」
「ん……もうそんな時間か? って、この世界で時間なんか気にしたって……」
「というか、強制的に帰らされる時間ですし」
車内の時計は、十四時五十四分を示していた。スバルの一日が巻き戻るまで、残り六分。
そういう意味か、と納得して頷くムラーノ。
「明日、また合流しよう。……よし! こっちは車だし、スバルの家まで迎えに行ってやろう」
「え……いえっ! そこまでしてもらわなくても大丈夫ですから……!」
「お……? そうか? というか何いきなり慌ててんだ?」
知らない男の人を家に上げてはいけない――。姉と父からの言いつけだった。
ムラーノは信用に足る人物だと思うし、そもそも悠長なこと言っている事態ではないけれど。
自宅までの道順を説明するのが苦手だから、などと適当なことを言ってその場をごまかした。
「明日の朝、あたしたちが最初に会ったあの交差点のところで待ってます」
「あぁわかった。んじゃ、また明日よろしくな」
そこで十五時ジャストが刻まれる。ムラーノの目の前で、スバルの姿がフッと消えた。
それからスバルは、毎日ムラーノと待ち合わせ、ともに手掛かりを探すようになった。
二人でなら何か見つかるかも、と期待をかけていたものの、やはり一向に収穫はなく。
丸半日ただドライブをして時間を潰すだけのような日々が続いていた。
このままでよいのだろうか、と悩み始めるスバル。このまま……ムラーノと一緒に行動していて。
最近、ムラーノの態度に真剣さが感じられなくなった。
情報交換というより、単にスバルと話したいだけ。探索というよりただ出掛けたいだけ。
遊園地やプールに勝手に侵入して遊んだり、海へ山へとスバルを連れ回したり。
――それにつきあってついエンジョイしてしまうスバルにも問題があるけれど。
(ムラーノさんと会うのはやめにして、また一人で探したほうがいいのかな……)
スバルがそんなふうに考えるようになったのには、実はもう一つの理由があった。
それは、ムラーノの性格。
初対面の日こそ紳士的な態度で印象はよかったものの、徐々に地が出るようになった。
こんなことがあった。
「風が気持ちいい……」
ほのかに磯の香り漂う潮風が、スバルの短い髪をそよがせる。
出口探しという名目の、ドライブの途中。一時停車し、二人で海岸線を眺めていた。
本当なら、親子三人水入らずでこんなふうに夏の穏やかな時間を過ごすはずだった。
空港火災に巻き込まれなければ――否、こんな世界に飛ばされさえしなければ。
「あの、ムラーノさん……。何か手掛かりは見つかりました……?」
「ねえよ、そんなもん。そっちこそどうなんだ?」
「……ごめんなさい。その、まだ何も……」
「チッ。おまえだって一緒じゃねーか。くだらねえこと聞いてきやがって……」
険しい目つきでスバルを見下ろし、悪態づくムラーノ。
怒りっぽくて怖い人――。それが、彼に対するスバルのここ最近の印象だった。
言い返せず萎縮し、うつむくスバル。すると、全身に何やら寒気というか、悪寒が走った。
顔を上げると、少女を見据えていたムラーノの視線が舐め回すようなものに変わっていた。
自分の顔に何かついているんだろうか、くらいにしかスバルは思わない。
「えっと……何か?」
「ああ、いや……。――なあスバル、男に興味ある? 俺と遊ばねぇ?」
十一歳のスバルが、その言葉の真意を解するはずもなく。
「だめですよ、遊んでないで真面目に探さないと。まだ戻れないって決まったわけじゃ……、
って、まさかムラーノさん――。もう……あきらめちゃったんですか? 元の世界に帰るの」
「っ……」
ムラーノは目を逸らした。問いかけに答えようとしない。代わりに腕時計に目をやって。
「――こんな時間か。飯行くぞ、飯」
「あっ……。は、はい」
結局、一度もスバルに視線を合わせることなく、背を向けて運転席へと歩いていった。
「……どうした? 好きなもん食えよ」
しばらく車を走らせたムラーノは、大通り沿いのスーパーマーケットの駐車場に入った。
店内に併設されたベーカリーで、商品棚に並んだブレッドやピザに手当たり次第かぶりつく。
良心の呵責にさいなまれ手をつけるのを躊躇しているスバルを見かねて、そう声を掛けた。
「でも、お金を……」
「はあーっ? 払う相手もいねーのにどうやって払えってんだ」
素っ頓狂な声を上げ、スバルに示すように無人のレジ台を親指で指す。
「気に病む必要なんかないだろ。どうせ一日たったら元通りに復活するんだ」
「そ、それはそうですけど……」
「――だいたいスバル。そんなこと気にしてる場合か? 自覚が足りないんじゃねえ?
俺たちはこの気味悪い世界から何とか抜け出そうって、そういう正念場なのによ……!」
何も悪いことをしていないのに理不尽に怒鳴られて、スバルは縮こまった。
毎日遊び歩いている人が言う台詞ですか、と憤りを覚えたが口には出さずぐっと堪える。
「そう……ですよね……」
「だろ? わかったらとっとと食え」
何も食べないという選択肢もあったが、ムラーノにどやされそうだったので大人しく従う。
トングで目ぼしい商品を選んでトレーに乗せ、店内のチェアに腰を掛け手を合わせた。
「いただきます」
「……? 何だそりゃ?」
スバルの所作を訝しがってムラーノが首を傾げた。
たしかに、「いただきます」はミッドではあまり見かけない風習である。
「あ、えっと……。うちはご飯の前は必ずこう言う決まりになってて……」
どの家庭にも独自のルールというものがある。ムラーノもそれ以上首を突っ込まなかった。
「……ごちそうさまでした、っと」
食後もやはり手を合わせてから、スバルが顔を上げると、ムラーノの姿がなかった。
先に外へ出たのだろうか、と店内を見回すと、売り場のほうから物音がした。
――ガラス瓶をぶつけるような音。
走って音のした場所へ向かうと、通路の上に空き瓶が何本も転がっていた。
何の瓶だろう、と売り場のプレートを見上げると……アルコールだった。
通路の奥では、ムラーノが床に座り込んで別の瓶をラッパ飲みしようとしている。
「ム、ムラーノさん……! 何飲んでるんですか」
「……あぁ? なんだ、スバルも飲みてぇのか……? ガキにはまだ早いんじゃねえの?」
「そうじゃなくて、これからまた運転するんじゃ……?」
ミッドチルダでは、危険な飲酒運転は厳罰に処せられる。
そのことをスバルが指摘しようとすると、突然、顔の横を酒瓶がかすめた。
――ムラーノが投げつけたものだった。
わざとスバルを外したのか、それとも当てようとして制球を欠いたのかはわからない。
床に落ちた瓶は、スバルの後方で粉々に割れた。破片が散乱し、赤紫色の中身が撒かれる。
「それが何だってんだ!! 取り締まるやつがいねーのに捕まるかってんだよ……!」
スバルは言葉もなかった。
逮捕されるかどうかが問題ではない。自分自身と、同乗者のスバルの身の安全はどうする。
――この世界に飛ばされる直前、自動車事故を起こしたと話していたムラーノ。
その原因ももしかしたら……。背筋に薄ら寒いものが走った。
何も言えずに立ち尽くしていると、男がおもむろに威勢よく立ち上がった。
「おーし! 食うもん食ったし、次んとこ行くぞ!」
「待ってくださいっ、せめてアルコールが抜けるまで……」
「うるせえな、これくらい大丈夫だって。……そうだスバル、今日こそ家まで送ってやる」
ぶんぶんと首を振り拒否するスバル。
「だから遠慮すんなっての。俺ら運命共同体だろー? 助け合わなくてどうすんだ」
「いえ、ですから遠慮とかじゃなくって……」
まだ勘違いしているへべれけは、スバルに近づいて馴れ馴れしく肩に腕を回した。
吐く息の酒臭さに顔をしかめる。父親以外の男性に抱きつかれたのも初めてであった。
慌てて腕を振り解き、ステップバックするスバル。
「ごめんなさい……あたし、自分で帰りますっ」
「あっ、おい待てって……!」
呼び止める声を無視して店の外に飛び出し、しばらく走って植え込みの陰に隠れた。
ここから自宅まではかなりの距離があるが、ばか正直に自分の足で帰る必要はない。
ムラーノに見つからないようにここで身を潜め、十五時になるのを待てばよい。
なんでこんなことしているんだろう――。やるせない気持ちに支配され、膝を抱えた。
それが、昨日の話で。
だから今日、スバルは行かなかった。ムラーノと毎日待ち合わせる交差点に。
彼は今頃待っているだろうか。痺れを切らして、怒っていたらどうしよう。
ううん、心配なんかいらない。こうして自宅にいればあの男には見つかりっこない。
明日からはまた一人で行動することになるけれど、きちんと作戦を練って――、
玄関の扉が開く音がした。誰かが家に上がり込んでくる。
スバルの胸は躍った。ギンガが帰ってきたのか。この足音は……それともゲンヤか。
この長かった奇妙な日々からやっと解放されるんだ。リビングの入り口から顔を出す。
「お帰りなさ――」
「よぉ」
と、片手を上げて笑い顔を作った男を見て、天国から地獄へ突き落とされたスバルは硬直した。
「……あん? なにビビった顔してんだよ。知らねえ仲でもねえだろ」
「あっ、いえ……。じゃなくて、なんでうちの場所……」
「ああ――。ハハッ、おまえほどじゃないけど、俺も記憶力にはそこそこ自信あってな」
自分のこめかみを指差しながら話すムラーノの言葉に、スバルもはたと思い出した。
二人が最初に出会った日。
スバルは男に、自己紹介代わりに学生証を見せた。自宅の住所も記載されている。
まさか、たったそれだけの記憶を頼りに……?
「それよりスバル。どうして来なかった? いつもの待ち合わせ場所にいなかったよな」
「それは……その、今日はちょっと体調が悪くて……」
「おいおい冗談はよせよ。毎日元通りになるこの世界で、日によって体調が変わるもんか」
目の前の青年だって何十日と“繰り返し”を経験している。生半可な言い訳は通用しない。
言いながら、リビングに踏み込むムラーノ。距離で、議論で、スバルを追い詰める。
後ずさっていたスバルは勇気を振り絞って足を止め、ムラーノに正面から向き合った。
「だ、だって……。――ムラーノさんとは違うんです。あたし、まだあきらめません……!」
「無駄なあがきだって言ってんだよ!!」
怒号が室内の空気を引き裂く。
「……俺だって何とかしようとしたさ! 毎日毎日、車で走り回って出口がないか探した!
クラナガンも行った! 北ベルカも行った! 一日で行ける範囲のところは全部……っ」
最後はがなる声を詰まらせ、肩を震わせる。
――大人の男の人が泣いているのを目撃したのは、スバルにとって初めてのことだった。
手の甲で目元を拭い、顔を上げたムラーノは、怒りを失った疲れた表情になっていた。
「だからさ……もう十分だろ? 俺もスバルもよく頑張った。やれるだけのことはやったよ。
これからは二人で楽しく生きていこうぜ? この閉じ込められた……永遠の一日を、さ」
「うっ……。でも、あたし……」
最愛の姉と父の顔が何度も脳裏をよぎるスバルに対し、一歩また一歩と接近する黒い影。
じりじりと後退する少女の背中が、壁についた。もう逃げられない。男が立ちはだかる。
「この世界には俺たちしかいねぇ。男と女――アダムとイヴになるしかねえよな?」
純粋に言葉の意味がわからなかった。異世界の宗教の話でもしているのだろうか。
頭をひねっているスバルの肩を、ついにムラーノの手が掴んだ。指が食い込むほどの握力。
まだその手の知識に疎いスバルも、ようやく感づいた。自分自身の身に訪れた危機を。
「いたっ。な、何を……」
「なーに、任せときゃ何にも心配いらねえ。まだガキ臭いが、俺がすぐ女にしてやる――」
「やっ……やだぁぁあっ!」
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