それは、君が君に出会うための物語。こうありたいと願う自分に向かって、歩き出すための。
もうもうと立ちこめる黒煙が、雷雲のようにターミナルビルの天井を覆っていた。
「お姉ちゃーん……。……お姉ちゃーん、どこー……?」
少女のか細い呼びかけに、応える声はなく。
辺りに人の気配はない。その少女の他に逃げ遅れた者は、この近くにはいないようだ。
そして、少女を助けに現れる者もまた。
代わりに迫ってきたのは、回りの速い火の手。炎の壁が、避難路を八方から塞いだ。
ミッドチルダ西部、第八臨海空港。
十一歳の少女、スバル・ナカジマはこの日、姉のギンガとともにここを訪れていた。
夏の休暇を利用し、父親の出張先に遊びに行くため。
時空管理局で部隊指揮を務める父ゲンヤは、今月から長期遠征でこの地に赴任していた。
都市化の一途をたどるミッドにあって、自然を多く残す地区。住宅や別荘も点在する。
降り立った空港施設を好奇心のままに探検していると、突然の火災に見舞われた。
鳴り響く警報装置のベル、パニックに陥った利用客の悲鳴、大挙して逃げ惑う足音。
それらがすべて去った後に、スバルだけが身動きひとつ取れず置き去りにされていた。
幼い頃に母親をなくし、代わりに頼りにしていた姉とはぐれてしまっていたから。
気が弱く、まだひとりで物事を決めて行動に移せないスバル。ロビーに取り残された。
「はぁっ……ふっ……。お、お姉ちゃん……っ」
火の手から逃れるため、またギンガの姿を探して、スバルはさまよい歩いた。
額に浮いた汗を袖で拭う。のどが渇き息を切らせる。顔面が炎に照らされ熱を帯びる。
真夏の直射日光よりも高温の赤褐色の光線が、じりじりとスバルの体力を奪った。
やがて、もう一歩も歩けなくなる。行き場もなくし、なす術なくその場にへたり込む。
そこはちょうど開けたロビーの中央。目の前に、背の高い女神の像がそびえていた。
「う……っう……、えぐっ……」
両膝を抱え、肩を震わせるスバル。塩味のする涙の雫が、瞳から頬へと伝う。
友達から「泣き虫」とからかわれ、ギンガからも強くなれと注意されるこの性格。
スバル自身、直せるなら直したいと思っている。すぐ泣いてしまう弱い自分なんて。
けれど。今の状況は、個人の力ではどうしたってあがけようもない。
火災の規模が大きく、消火や救助活動がスバルのいる棟まで間に合っていなかった。
機動力の高い、特別救助隊員なんかが颯爽と現れてくれたらあるいは――。
(お姉ちゃん……お父さん……! 助けて……誰か、誰か……!)
必死に祈りをこめるスバルのはるか頭上で、何かが爆発するような音がした。
黒煙の中から姿を現したのは――鉄骨を含んだ巨大なコンクリート片。
炎と熱に焼かれ強度を欠いた天井が崩壊し、瓦礫が降り注いできたのだった。
下敷きになったら一瞬で絶命しかねないほどの質量を有する破片が、一直線に落ちる。
自分に向かって飛んでくる天井片に、スバルは足がすくんでよけることもできない。
瓦礫は――幸いにもコースを逸れ、スバルの目の前にあった塑像の台座を直撃した。
女神が自分を守ってくれた、と安堵するのも束の間、今度はその女神像が倒れてくる。
「えっ……あ――」
目を見開いたまま石化するスバルに、加護の力を失った女神の上半身がのしかかって……。
スバルの意識はそこで途切れた。
次に気がつくと、スバルはある部屋の中にいた。
病室だろうか。……いや違う。見間違えようはずもない、ナカジマ家のリビングだった。
「あ、あれ……? いつ帰ってきたんだろ……」
自分の体を見る。あれほどの事故に見舞われながら、擦り傷ひとつついていなかった。
着ている服も、どこも煤けたり破れていない。火災に遭う直前とまったく同じ状態。
というより、自宅から出発する前の状態か。
「それじゃ今のって……、まさか――夢?」
先ほどまでの空港火災は、スバルが見た白昼夢。それでいて、これから起こりうる事実。
古きベルカの騎士の中には、未来を予見する特異な能力を有する者もいたと聞く。
自分がそんなレアスキル持ちだとは思わないが、偶然予知夢を見たのではと疑うスバル。
だとしたら――、予定通り出発したら事故に巻き込まれる。ギンガに伝えなければ!
「お姉ちゃん! ねえお姉ちゃん、どこにいるの?! ねえってば……!」
一階と二階、すべての部屋をあらため、声を張り上げたがどこからも返事はなかった。
面倒見のよいギンガが妹を置いて自分だけ出発するなんて考えられないが、しかし……。
胸騒ぎを覚えたままリビングに戻り、時計を確認する。
八月二十二日――今日の、十五時を回っていた。
「そんなっ……そんなはずない! だってそれじゃ、あの火事は未来じゃなくて――」
過去に――つい先ほどまで実際に起きていた出来事、ということになってしまう。
ギンガが立てた計画表によると、今日は九時に自宅を出発する予定だった。
最寄りの地方空港から第八臨海空港行きの直行便に乗って、十四時半に到着。
実際、その予定に沿って姉妹で移動した。何の滞りもない定刻通りのフライトだった。
火災が発生したのはスバルたちが到着して程なくだから……十五時前ごろになる。
予知などではなく、実際の体験として火災に遭遇し、恐らくは大怪我を負ったスバル。
その自分が、なぜ無傷でほぼ一瞬にして帰宅を果たしているのか。――自分だけが。
途端に胸がざわめいた。……ギンガは、まだ火災現場に取り残されているのではないか?
「――お願い、出て! 出てよお姉ちゃん……!」
空間モニターを開き、ギンガとの通信を繰り返し試みるも、まったく応答がない。
やはり姉の身に何か――。ゲンヤに連絡を取ろうとしたが、やはり繋がらない。
娘たちが空港に着いたら迎えに行くから、と連絡を心待ちにしているはずの父親。
何かがおかしい。スバルは思いつきうる連絡先に手当たり次第コールした。
ゲンヤの地上部隊、本局技術部、災害緊急ダイヤル、通っている学校、クラス担任……。
誰も出ない。まるで、この世界から人が消えてしまったかのように。
大慌てで家を飛び出す。住宅街の一角にある自宅前の通りに人影はなく、物音もしない。
隣家のドアを叩く。いつも在宅しているおばさんが出てこない。もう一軒隣も、その隣も。
走って大通りまで出た。普段は人の流れが絶えないのに……死んだように閑散としていた。
街の姿はそのまま残っている。商店の品揃えも、公園の噴水も、まばたきする信号機も。
ただ、その景色の中で思い思いに行き交うはずの人々の姿だけが、きれいに消されていた。
たった一人――スバルだけを残して。
「うぅ……みんな、どこ行ったの……?」
かくれんぼの鬼になって、一人も見つけられないときの心細さに通じるものがあった。
ギンガとゲンヤが仕掛け人になって近隣住民に呼びかけた……などという規模ではない。
空はすでに夕日が落ちかかっていた。もしかしたら、ひょっこり帰ってきているかも。
とぼとぼと重い足取りで、しかしわずかな希望を胸に、スバルは帰宅の途についた。
やはり自宅はもぬけの殻のままだった。
テレビのスイッチを入れる。電源ランプは灯っているのに、画面には何も映らない。
……テレビ局の人も出演者もいなくなったとすれば、当然、番組だって流れない。
スバルの身近な人だけでなく、本当に世界じゅうの誰もかもが消えてしまったんだ。
そこへ、唐突に腹の虫が鳴った。
どんな不可解な状況に置かれ、嘆こうとも、減るものは減る。もう夕飯の時間だ。
スバル独りでも簡単な料理はできたから、キッチンを漁って買い置きの食材を並べた。
「いただきまーす……」
食事の前に自然の恵みに感謝して手を合わせるナカジマ家の風習に、この日も従って。
だだっ広いダイニングで、たった一人の夕食。食べた物の味がわからなかった。
食後にシャワーを浴びて汗を流すと、その後にはもう眠気が迫っていた。
本当は寝ている場合ではないが、いろいろなことがありすぎて頭の回転が追いつかない。
これ以上は脳が焼き切れそうだった。一旦、考えるのを放棄してしまおう。
目が覚めたら解決しているかも、などと楽天的に考え、いつも通り自室の布団に潜った。
翌朝。夏らしくカラッと晴れた青空だったが、スバルの心はどんより曇っていた。
ギンガもゲンヤも帰宅していなかった。住宅街に人気はなく、テレビ画面も暗いまま。
リビングに掛けられたデジタル時計だけが、八月二十三日の訪れを静かに告げていた。
「……だめかぁ。夢なら覚めると思ったのに……」
自分の予想が外れたことへの落胆から、スバルは独りごちた。
空港火災に遭ったのは現実で、逆にこの誰もいない世界のほうが夢ではないか、と。
ただ、その割には意識ははっきりしている。自分の頬をつねると、ちゃんと痛い。
こんな訳のわからない世界に、ずっと取り残されたままなのか。不安に駆られる。
それでも、一晩休養を取ったことで気疲れは癒え、気分も前向きになっていた。
現実に帰る手掛かりを求め、家を飛び出した。両足にローラーブーツをはめて。
と言っても、魔導師用のデバイスではない。運動が得意なスバルの、単なる通学手段。
魔力資質に恵まれながら、スバルは魔法学校ではなく普通の学校に通っていた。
自分が将来何をしたいかなんて、まだ考えられない。
魔導師という選択を考えたとき、思い出すのは決まって母親のこと。かぶりを振った。
(痛い思いするなんて、あたし嫌だよ。お母さん……)
普段だったら車道のど真ん中を走るなんてできないが、交通量ゼロの今ならば可能。
両脚で蹴ってローラーの加速を高め、風を切るスピードで舗道上を滑走した。
とても浮かれていられる状況ではないものの、少しだけ心地よさに浸ることができた。
動力を搭載したらもっと速く走れるかな――なんて、楽しい想像も膨らんだ。
エルセア最大規模の、私立のエスカレーター式一貫校。スバルは初等科の高学年だった。
人影はなかった。けして夏季休暇中だからではない。
教職員は出勤しているし、校庭や遊具は開放されている。クラブ活動だってある。
実際スバルも、一昨日も学校に来て、クラスメイトとボールで遊んだりプールで泳いだ。
あの無邪気だった風景は、今やどこにもない。
「おはようございまー……す」
恐る恐る職員室に顔を出してみるも、やはり誰もいない。
優しい先生、明るい先生、厳しい先生。頼れる大人たちの不在が、スバルの心を翳らせた。
もっと別のところを探そう――。再びローラーブーツに足を通し、学校を後にした。
とは言ったものの、初等科の女児の行動範囲はもともとそんなに広くはない。
図書館、よく買い物に来る商店街、ギンガが通う格闘技のジム、駅前の歩行者天国。
自分の足で到達できたのはせいぜいこの程度。バスもレールウェイも走っていない。
そして。どこに行っても、「誰もいない」以外の情報を得ることはできなかった。
当てのない出口を探して走り回るうち、やがて空腹に見舞われた。
またか、と思わないでほしい。ただでさえ育ち盛り、食べ盛りの年頃なのだから。
加えて、スバル固有の“燃費の悪さ”。
自宅に戻るには距離がある。どこかで買って食べ――スバルは重大なことに気づいた。
どの店にも店員がいないから、買い物ができない。
「とりあえず入ってみたけど……。ど、どうしよう」
一軒のスーパーマーケットに足を踏み入れる。当然ながら、店内は無人だった。
まるで白昼の肝試し。薄気味悪さに背筋が震えた。
フライドチキン、サンドウィッチ、マリネ、スパゲッティ、アイスにスナック菓子……。
整然と陳列されたよりどりみどりの食料品を前に、目を輝かせ垂涎するスバル。
すぐにでも買い物して食べたい。だが、レジが開いていないため代金が払えない。
――ここは誰もいない世界。このまま持ち去ったところで、どうせ誰もとがめやしない。
(だ……だめだめっ!)
一瞬よからぬ考えが過ぎった頭をぶんぶんと振り、必死で雑念を追い払う。
後でゲンヤやギンガに知れたら何を言われるか。空の上から母親だって見ている。
否、誰かに怒られるからではない。スバル自身が、そんな曲がったことしたくなかった。
しかし空腹は我慢の限界。目の前には宝の山。天使と悪魔の葛藤の末、スバルは。
「……ご、ごめんなさいっ」
両手いっぱいに食料品を抱えて、逃げるように店の入り口から飛び出した。
ただし、合計代金をきっちり計算してレジカウンターの上に置いてきたのだが。
むしろ精算は済ませたのだから堂々とすればいいものを。気の小さいスバルらしい。
店員と対面していない以上、黙って持ち出したも同然で。どうにも気持ちが悪かった。
それでも、旺盛な食欲には逆らいきれず、食べ物を鷲掴みにして夢中で口に運んだ。
ひとしきり平らげると、罪悪感と、ここまで収穫がなかった脱力感が押し寄せた。
真上からじりじりと照りつける直射日光。時間はもう昼を過ぎただろうか。
このまま無闇に走り回って何かが見つかる保証はないが、探索を再開することにした。
「んぐ、んぐ……ふうーっ」
校庭に設置された水道水でのどの渇きを潤して、スバルは顔を上げる。
結局、また学校に戻ってきていた。
他人の家や、普段入場チェックが必要な施設などは、無人とわかっていても入りづらい。
遠慮なく立ち入れる場所、というと、自宅の他には通い慣れた学び舎しかなかった。
音楽室、保健室、科学実験室、体育用具室。何か手掛かりがないか、しらみ潰しに探す。
そもそも何を見つければよいかもわからないのに。結局、ここでもボウズだった。
朝から市中を駆け回ったスバル。グラウンドの片隅で腰を下ろし、校舎を眺めていた。
(――みんな、どこへ消えたんだろう)
思い浮かべるのは、クラスメイトたちの屈託ない笑顔。
内気で泣き虫な性格をからかわれもするけれど、基本的にいつも仲のよい友達。
待ち遠しかった夏季休暇も、みんなと毎日会えないのだけは少し寂しくて。
スバルを残して、どこへ旅立ったというのか。――どの道へ進んだというのか。
休暇前、ホームルームで担任の先生から進路についての話があった。
いずれ初等科を卒業し、大きくなったら何になりたいか。どんな仕事に就きたいか。
生き生きした表情で将来の夢を語る級友たちの中で、スバルはひとり縮こまっていた。
未来へのビジョンなんて、まだ何も描けない。ううん、描きたくなんかない。
「仕事」に生きた結果、命を落とした最も身近なサンプルをこの目で見てきたから。
友達が自分を置いて大人へと羽ばたいていく。まるで、それが具現化したような世界。
……今はそれよりも、目の前の現状をどうにかしなければ。
せめて自分の他に誰かいたら。もっと人の集まる場所を探したほうがよいだろうか。
膝を抱えていた姿勢からひとまず立ち上がり――、
「うわっ――」
強烈な立ちくらみが襲った。
いや、正確には視界ががらりと一変して、それを立ちくらみと勘違いしたのだけれど。
「こ、ここって……。……え? ええっ? な……なんで?!」
スバルが立っていたのは今までいたはずの校庭ではなく、自宅のリビングルーム。
……いつの間に、帰ってきたというのか。
酔いつぶれたゲンヤが「どうやって帰ったか覚えていない」などと言うのとは話が違う。
ほぼノータイム。ほんの一瞬のできごとだった。
スバルは空間転移魔法なんて使えないし、そもそも魔法が発動した形跡はなかった。
同じだ。昨日とまるで同じ。
炎に包まれた空港から瞬時に帰還した昨日と、よく似た現象を再現していた。
――はっとして、室内のデジタル時計を見やる。
「そんな……っ、日付が……」
八月二十二日、十五時。そう表示されていた。
今日は二十三日のはず。今朝、外出前に見たときだってたしかに二十三日となっていた。
昨日まで時間が戻った、ということになる。
まず時計の故障を疑いたいところだが、短時間でそんなにずれるとは考えづらい。
改めてリビングを見回す。見覚えのある自宅。……というより、見覚えがありすぎる。
突然の帰宅を果たした強烈なインパクトから脳裏に焼きついた、昨日のままの風景。
クッションや新聞紙など、動かした物の位置が、二十四時間前の状態に戻っている。
時計が狂っていないのだとしたら――。全身に悪寒が走った。
「はあっ、はあっ……。こ、ここも……?!」
何か映るかも、とつけたままにしておいたテレビの電源ランプが消灯していた。
手掛かりを探して引っかき回した自分の部屋が、まったく元通りに片づいていた。
昨晩料理してスバルの胃袋に消えた食材が、そっくり同じ数だけ補充されていた。
入浴後に洗濯機に放り込んだバスタオルが、脱衣場の棚にきれいに畳まれていた。
今朝、履いて家を出たはずのローラーブーツが、玄関の定位置に鎮座していた。
スーパーのレジ前に置いてきた現金が、小銭入れの中に全額舞い戻ってきていた。
自宅の中のいくつもの状況証拠に、次第に一つの結論へといざなわれるスバル。
そもそも今着ているのは、昨日と同じボーダー袖のシャツとプリーツスカート。
……もう間違いない。それ以外の可能性は考えられない。
日付が、巻き戻ってしまったんだ。
0 件のコメント:
新しいコメントは書き込めません。