往来で賑わう雑踏の中を、禍々しい殺気を瞳にたぎらす少女が左右のおさげを揺らして歩いていた。
ミッド式魔法技術を主力とする連合勢力が次元を管掌する、時空管理局の設立から早数十年。
その「迫害」から逃れて管理外世界へ落ち延びた古代ベルカ末裔の魔導師の前に、闇の書が現れた。
主となった魔導師は闇の書の力によるベルカ再興を願ったが、管理局の存在も聞き及んでいた。
危険なロストロギアの発見に全力を挙げている。目立った行動を取れば彼らにマークされかねない。
幸い、この次元世界は管理外でありながら一部の人間は自覚せずして遺伝的に魔力を有していた。
そこに目をつけた主は、四人の守護騎士に命じる。住人から隠密にリンカーコアを蒐集せよ――と。
まず湖の騎士シャマルが広域サーチをかけ、「魔力持ち」がいそうな区域をピックアップする。
数か所に絞られた候補地に四人が分散して潜入、魔力反応を頼りにリンカーコアの持ち主を捜した。
ペースこそ遅かったが、管理局はもちろん現地の警察組織にも気づかれることなく蒐集は進行した。
この日も、赤髪のおさげの騎士は、露店の並ぶ青空市場を行き交う人々の流れに溶け込んでいた。
とにかく目立たぬようにと、主からは騎士甲冑ではなく現地住民と違わぬ普段着が与えられていた。
甲冑など不要。もし戦闘になっても頼れる相棒がいる――。小さな鉄槌のペンダントを握りしめた。
今朝方、この近辺で巨大な魔力反応があった。それを追う幼き騎士。突如、背後から声が掛かった。
「……タ! ヴィータよね……?!」
「あぁん……? ……あんた何者だ」
名前を呼ばれた守護騎士の少女――ヴィータが振り返ると、立っていたのは見知らぬ中年の女。
地道に単独行動を続け、この世界では誰にも知られていないはずの名を呼んだ。ということは……。
「って、まさか管理局っ?!」
警戒して両脚を構えるヴィータ。一般の買い物客か旅行者といった風体の女は、静かに首を振った。
それから自分の胸に手をやり、母が子に送るような慈悲深いまなざしをヴィータに向け、答える。
「覚えていて? あなたのかつての主、ワゴナー・アイミーヴの娘――エムルよ」
かつての主、その娘――。自己紹介を受け、ヴィータは……大脳がぐらつくような感覚に襲われた。
頭が重い。目の前が暗くなる。何も思い出せない。……記憶をたどろうとすると決まってこうだ。
もやを振り払うようにかぶりを振り、改めて女の顔を凝視したが、やはりぴんと来るものがない。
「――記憶にねぇな。過去の主のことも、その娘なんてのも」
「そう……。やっぱり転生を繰り返していたのね」
「……。妙にあたしらの事情に詳しいじゃねえか。……ほんとに管理局じゃねえよな?」
エムルと名乗った女は重ねて否定し、同じ主張を繰り返した。当時のヴィータにも会っていると。
闇の書に深く関わった人間がその後も生存しているとは珍しいが……。ヴィータはきびすを返した。
「仮にあんたの話が本当だったとしても、今のあたしには関係ねえ。……じゃあな」
「待ってヴィータ……! あなたと話したいことがあるの!」
「こっちにはねえんだよ……ってオイ! 手ぇ離せ! あたしはリンカーコアを集めなきゃ――」
「コアならここにあるわ……!」
叫んで、掴んだ手首を自らの胸元に強く引き寄せた。小さい手が、左右の膨らみの間に埋まる。
「なななっ……?! バッ、おい、やめろっ……なに恥ずかしいことしてんだ!」
「――純粋な古代真正ベルカの魔力よ。さあ、闇の書を呼んで好きなだけ吸わせるといいわ」
魔力、と聞いて手のひらに意識を集めた。……服越しに伝わる感触やら弾力はひたすら無視して。
すると、体内で何かが激しく脈打つのを感じる。心拍よりもはるかに大きい。魔力が奔流している。
大きな魔力反応の正体はこの人間だったのか。
それを自ら差し出そうなんて。ヴィータとしても、争わずしてページが埋まれば好都合だが……。
「正気か……? 闇の書がどんな代物か知ってて、それでも食わせようってのか」
「正気よ。大真面目よ。……だから、私の話を聞いてちょうだい」
目つきの悪い自分よりも鋭い眼光を一直線に向けられ、ヴィータは言葉を返せなかった。
ふと、不穏な空気を察して周囲を見回す。――ヴィータたち二人を囲むように人垣が出来ている。
少女の手は女の谷間に押しつけられたまま。その光景を遠巻きに眺め、ひそひそと噂する人々。
……まずい。自分の正体が知られるとか以前にあらぬ誤解が立ってはいろいろな意味でまずい。
大慌てでエムルの腕を払って胸から手を離すと、反対にエムルの手を取って人ごみから抜け出した。
「……なんつー魔力だよ。すげえ速さでページが埋まってく」
人気のない路地裏に連れ込まれたエムルは地面に膝をつくと、まぶたを閉じ祈るように指を組んだ。
やがて胸元から浮かび上がったのは、灰白色の光をほのかに放つ魔力の結晶……リンカーコア。
ヴィータが手元に呼び寄せた闇の書が、喜び勇んで“口を開け”ると魔力光の捕食を始めた。
「うっ……あ……くぅっ、……はぁ、はぁ……待ってっ、もう少しゆっくり……んはぁっ」
「おいおい……。ったく、若くもねーのに無理すっから」
「そ、そうね……ごめんなさい。ふっ……ん――ただ昔から体が弱くて」
そういうことか――。エムルに声を掛けられた当初から抱いていた疑問が氷解した。
外見年齢は四十歳代の、それほど高齢でもない彼女がアイボリーの杖をついていた理由について。
表面の細かな傷跡が長年使い込まれたことを物語る愛用の杖は、今は膝の横に転がっている。
「だから、魔力資質はあっても魔法は使えなくて。……いえ、最近やっと一つだけ覚えて……」
「……?」
「それよりも――よかった、また会えたのね。懐かしいわ……」
極限近くまで魔力を奪われ、もう意識も落ちそうなのを気力で堪え、力の入らない腕を懸命に伸ばす。
そして……震える指先がハードカバーの表紙に触れた。と同時に、闇の書による吸収が停止する。
背表紙を撫で、カバーの縁や金属製のエンブレムに指を沿わせる。感触をじっくり確かめるように。
まるでペットと戯れるように呪われた魔導書を愛でるエムルを前に、ヴィータの片頬がつり上がる。
「とことん変わった人間だな……。怖がるどころか可愛がってやがる」
言いながらもヴィータは、エムルが闇の書に向ける柔らかなまなざしに気づいて理解した。
彼女が心の底から闇の書に会いたがっていたことを。自らの魔力を餌にする危険を冒してまで。
「だって私、この子に再会するために旅をしてきたんだもの。……彼女は、もう具現化は?」
「闇の書の意志――のことか? ……いいや、まだページが足りねぇ」
エムルは「そう」と残念がって睫毛を伏せ、それから杖を手にしてふらふらと立ち上がった。
――手の中に舞い戻った闇の書を抱くヴィータに、再び慈しむような微笑みを向けながら。
「……彼女が目覚めたら、一緒にお話したいわ。ヴィータ、また会いましょう?」
「なんでだよ……。もう魔力はいただいたし、今度こそおばちゃんに用はねえ」
「明日も同じ時間、ここで待ってるから。約束よヴィータ……!」
「ケッ、何が約束だ……! 来ねぇからな!」
周囲に人の目がないことを確認すると、ヴィータはそう吐き捨てて一目散にその場から飛び去った。
「――ありがとう、約束どおり来てくれて」
「べ、別に。そんな急いで蒐集する必要もねーし」
満面の笑みを浮かべて歓喜するエムルと、横を向いて不機嫌そうな顔を作る少女騎士との対比。
翌日、待ち合わせ場所にヴィータは現れた。
前日吸収したエムルのリンカーコアで相当数のページが埋まり、ノルマが達成されたこともある。
暇だから、一応は世話になった人間の相手をしてやるだけ。……そう自分に言い聞かせるヴィータ。
「蒐集って……他の人を襲って? お願い、それだけはどうかやめてくれないかしら」
「知るか。まあ人間以外でもいいんだけどよ……、ってか、マスター以外の指図は受けねえ」
とっさに主の存在を口走ったのは、エムルへの反論というよりヴィータ自身のため。
……危うく絆されるところだった。切々と訴えるエムルの情に流されるまま頷くところだった。
人間以外――。野生の魔獣や魔竜などリンカーコアを有する生物も存在するし、蒐集も可能だ。
生憎この管理外世界にはいない。異世界へ渡れば、転送魔法の痕跡から管理局に嗅ぎつけられる。
慎重に慎重を期す主が承諾するとは思えない。……結局、この世界の住人から奪うより他ない。
「そ、そうよね。……私の魔力、もう一度あげられたらいいんだけど」
そこまでするか、と返したくなるような提案を持ちかけるエムル。残念ながら二度は蒐集できない。
よくよく考えたら、彼女は昨日の今日でもう回復しけろっとしている。やはりただ者ではない。
「あんた何考えてんだよ……。昨日あんなボロボロになっといてよ。もう忘れたか?」
「――。それって……私のこと心配してくれてるのかしら?」
「だっだだ誰が心配なんか……! クソッ何なんだ、調子狂うなこの女……」
気がつけば彼女のペースに乗せられている。戦闘では無双を誇るヴィータには居心地が悪かった。
「うふふ。……ところでそれ、お味はいかが?」
それ、と目を細めた先には……ヴィータの傍らで食べられるのをじっと待つ色とりどりの献立たち。
すでに路地裏から移動し、二人は近くの公園を訪れていた。日当たりのよい場所に見つけたベンチ。
人ひとり分の間隔を空けて腰掛け、二人の間にエムルお手製の弁当が広げられた。
不意打ちのランチタイムに困惑し、右手にフォークを握った姿勢のまま硬直しているヴィータ。
「食欲湧かない? これでも腕には自信あるんだけどな」
「いや味の心配じゃねえよ……。だいたい守護騎士に食いモンなんか……」
「でも食べられるんでしょ?」
弁当箱に視線を落とすヴィータの顔を覗き込み、エムルが目尻にしわを寄せた。
父親が主だった時代も自分がヴィータたちに料理を振る舞っていたから――と。……敵いっこない。
「……わあったよ。あ、味くらいなら見てやる」
と渋々応じたヴィータの口元に、一口サイズのハンバーグが迫った。「はい、あーん」とエムル。
「誰がんなことするか!!」
ハンバーグが刺さったエムルのフォークを奪取し、自分で口に放った。二刀流の構えでもぐもぐ。
「どう……? おいしい?」
「――ていうかジロジロこっち見んなよな。味わかんなくなるだろ」
悪くなかった、という率直な感想さえ、気高きベルカの騎士のプライドが言葉にするのを阻んだ。
過去にも食べていたという彼女の料理の味を思い出せないことが、このときばかりは残念に思えた。
次の日も、その次の日も。ヴィータは仲間たちに適当な言い訳をつけ、エムルと会っていた。
闇の書の守護騎士としての務めを、ヴォルケンリッターの誇りを忘れて一体何をしているのか――。
しかし、自分の内情を理解する彼女と接する時間は不思議と苦痛ではなく、手放すには惜しかった。
「――どうして、あの子だけ名前がないのかしらね」
「また管制人格の話か……? えらくご執心だな、あいつに」
「あら。……ヴィータ、ひょっとしてやきもち?」
「バッ、そんなんじゃねえ! 言っとくけど、具現化したところで会わせる義理はねえからな!」
逆上した勢いに任せテーブルを叩くと、アイスティーの中の氷がカロンと涼しげな音を立てた。
通りに面した街角のカフェの屋外テラス。四角いテーブルの隣り合う二辺に二人は着席していた。
怒鳴り散らされても、エムルはただ優雅に微笑むのみ。反抗的な子猫を温かく見つめるように。
「な、何だよ。気持ちわりーな……」
これでは柳に風だ。ほわんとしたオーラに当てられて毒気を抜かれ、頭に上った血が降下する。
「……名前っつったって、あいつ自身が闇の書みてえなもんだ。『闇の書』でいいだろ」
「そんなのかわいそうよ。みんなから本当の名前で呼んでもらえないなんて」
「本当の名前……? つーか、プログラムに対してかわいそうも何もねえと思うんだけど」
「闇の書だって、最初は『闇の書』ではなくて別の名前だったのよ? 思い出せない?」
ヴィータは記憶をたどろうとし……やはり気分が重くなった。すぐに思い出すことを放棄する。
管理局と接点はなく、長年かけて各次元世界を巡り独自に闇の書の情報をかき集めたというエムル。
何が彼女を駆り立てるのか。その執念はどこから。父親を奪われた怨みからか。復讐のためか。
――ヴィータの予想は的外れだった。
「私は……闇の書の主になって、あの子に名前をつけてあげたい。名前で呼んであげたいの」
普段はおっとりした雰囲気が一変した。瞳に力のこもった真剣な表情が、ヴィータに向けられる。
言葉にも確たる決意がみなぎっていた。願いを叶えるため生き延びてきた、と胸を張るように。
「意味わかんねえ……。マスターになりてえって、たかが名前のために……?」
「名前は大切よ? だけどそれだけじゃないわ。悲しみの歴史……その輪廻を断ち切らないと。
もう破壊なんてさせない。『闇の書』なんて呼ばせない。全部忘れてずっと平和に暮らすの」
そう言ってテーブルに身を乗り出し、気圧されて唖然としているヴィータの手を握った。
「――もちろんあなたたちも一緒よ、ヴィータ」
と、言葉を添えて。
我に返った少女騎士、慌ててエムルの手を払う。動揺を隠さんとアイスティーを一気に空けた。
「ぐっ……。つくづくおめでてえ女だな」
「ふふふっ。とても素敵なことだと思わない? 想像しただけで心が温かくなるもの」
うっとりとした表情を浮かべ、思い描く闇の書の意志たちとの新生活をお伽話のように語りだす。
住まいは白壁の一軒家。慎ましくてもみんなが顔を揃える毎日。自分の作った夕食を囲む団欒……。
瞳を輝かせる姿は夢見がちな乙女そのもので、おめでたいと揶揄されるのも無理もなかった。
元来は所有者に無限の力を与える破壊兵器である。その宿命を忘れるなど可能なものか、と。
話はさらに膨らみ、管制人格やヴォルケンリッターと買い物に出掛けるという想像まで飛び出す。
「ヴィータには……、そうね、ぬいぐるみなんてどうかしら? きっと似合うわ」
「んなこと……。見た目で子ども扱いすんなよな」
「私もぬいぐるみ好きよ? 可愛いじゃない。だから二人で一緒に選ん」
ぴたり。
ぜんまい仕掛けの人形のねじが切れたかのように、突然エムルの台詞と口の動きが止まった。
状況が飲み込めずうろたえているヴィータの目の前で、さらに思いも寄らない光景が広がった。
「――危ないっ」
言うが早いか椅子から立ち上がり、その勢いのままヴィータに全身を預けるように抱きついた。
次の瞬間、大通りの方角から飛んできた一本のレーザー光が、背中からエムルの左胸を貫いた。
ヴィータになだれるエムルの体。のしかかる体重を両手で支えた。その手のひらが、一色に染まる。
「ぁ……っ、……おいっ、しっかりしろっ! おい……!」
「…………」
呼びかけても反応はない。まぶたは閉じられたまま。薄手のカーディガンにどす黒い模様が広がる。
呼吸が、心音が、ヴィータの腕の中で急速にしぼんでいく。風前のともし火は……やがて潰える。
なぜこんな事態に――。あのレーザーは何だ。誰の仕業だ。なぜエムルが撃たれなければならない。
ヴィータは意識を集中し全神経を研ぎ澄ませた。と、向かいの建物の屋上での通信音声を捉える。
『しまっ……! ――狙撃失敗、民間人を誤射。繰り返すっ、民間人を誤射!』
きっと見上げると、ライフル型デバイスを手にした武装隊員の男が逃げるように物陰へ姿を消した。
――なんてことだ。狙われていたのはヴィータだった。いつの間にか管理局に尻尾を掴まれていた。
狙撃手による襲撃をいち早く察知したエムルが……身を挺した。
「なんでだよッ! なんでっ……なんでプログラムのあたしなんか庇ったりすんだ……!」
何度も肩を揺するが、今度こそ人形のように動かない。だらんと垂れ下がった頭部が振れるのみ。
騒ぎを聞きつけ店内の客が集まってくる。女たちの悲鳴が上がる。対照的にエムルは完全に沈黙。
激しい怒りに打ち震え、今にも叫びだしそうなヴィータに、……静かに語りかける声があった。
『ただのプログラムなんかじゃないわ。あなたには感情がある。心があるもの』
「ッ……! この声……エムルか?! どこから……?」
見回してみても、彼女の姿はない。あるのは――もう動かなくなった腕の中のエムルの身体だけ。
『……やっと名前呼んでくれた。ありがとう、ヴィータ』
「そんな場合かよ……! なあっ、意識あんなら目ぇ開けろって! なあおい……っ!」
もう一度エムルに呼びかけるがなしのつぶて。抱いている肩から伝う体温が、次第に褪せていく。
一方で、さらに続けられるエムルの言葉。さながら思念通話のように、心の中に直接届いた。
『これでいいの。これで……魔法が発動する。私が唯一会得した、最初で最後の魔法』
エムルと出会った初日、最近やっと一つ魔法を覚えた、というようなことを言っていた気がする。
そのことを指しているのだろうが……、しかし、それが一体何の魔法であるのか見当もつかない。
――魔法の力は、心の力。願いを叶えたいという思いが強ければ強いほど、その力は大きくなる。
念願だった闇の書との再会を果たしながら、自らの命をなげうった彼女が託した思いとは――。
『そのためには、精神を肉体から分離する必要があった。――きっと、長い旅になると思うわ』
「いや何言ってんだよ、全然わかんねえよ……。さっさと起きて説明してくれよぉ……!」
『……また会いましょう? そのときは、私は――として。――として。約束よ……』
ヴィータが抱いている疑問は何も明かされず、おまけに最後の方の台詞は一部聞き取れずじまい。
余計に戸惑わせる発言ばかり残し、勝手に自己完結して一方的に話を切り上げてしまうエムル。
……そして、声は聞こえなくなった。心の中に残っていた気配らしきものも、もう感じ取れない。
「……っ?!」
不意に、エムルの体がヴィータの腕から引きはがされる。――駆けつけたカフェの店員だった。
店員はエムルを木板の床に横たえると、首筋に手を添えたり耳元で呼びかけて安否の確認を始めた。
別の店員はテラスにいた客を屋内へ避難誘導し、またある店員は近くに医者がいないか呼びかけた。
場は混乱をきたし、沸き立つ人間たちのどよめきが、ヴィータの耳にはどこか遠くに感じられた。
外界の喧騒から自分だけ切り離されたような。張ってもいない結界内に、閉じ込められたような。
それほどに……ヴィータを茫然とさせるには十分なほど、エムルが遺した言葉は謎に満ちていた。
「何だよ約束って――。どうしろってんだよ……エムル、エムルぅっ……」
膝立ちの姿勢で、赤黒くまみれた手のひらを力なく広げたままうつろな瞳で天を仰ぐヴィータ。
糸口の見えない宿題を突きつけられた騎士をあざ笑うように、視界の端から一条の光が差し込んだ。
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