[RESET-Y] ヴァルキュリア

 一面の花と緑に覆われた広大な敷地の中、帝国の戦渦から切り離されたようにのどかに佇む女学園。
 昼休みともなると、上流階級育ちの穢れを知らぬ才女たちのさえずりが校庭のあちこちで響き渡った。
 多感な年頃の乙女が集うともなれば、交わされる話題も自ずと色香を帯びようというもの。

「うらやましいわ、パレットは大変仲のよい恋人がいて」
「はあっ?! なな何言っちゃってるわけ?」

 ここ、オープンテラスの白い丸テーブルを囲む三人組の間でも。
 仲良しの友達二人がわいわいと黄色い花を咲かせるのを、エムルは頬杖をつきニコニコと眺めていた。
 からかわれた側の少女は、火消しとばかりに両手をぶんぶん振る。うなじの両横で短いおさげが揺れた。

「あいつはただの腐れ縁だってば。いっつも口喧嘩ばっかだし、ちっとも仲よくなんか……」
「喧嘩ばっかりって、それこそ親しい証拠だと思うけど」
「まったくね、エムルの言う通りだわ。……ふふふ」

 あまり上品とは言えない口振りで否定するパレットに対し、エムルがもう一方の側について勝負あり。
 二対一の状況では言い返そうにも叶わない。うなだれて低く唸っていたが、すぐさま反撃に出た。

「そーゆーヴァリエッタはどうなのよ。晩餐会とかよく出てるんでしょ? いい人いないの?」
「わたくしは……、お断りすると父の仕事に差し支えるから顔を出しているだけで」

 淡々とした口調でさらりとかわすもう一人の友達は、気品あふれる巻き髪に手をやり眉を下げた。

「出会う男性は歳の離れた方ばかりだし、胸がときめくことなんてないもの」
「ふーん、お嬢もお嬢で大変なんだ。ぜいたくな悩みだと思うけどさ。……で? エムルは?」
「はいっ?」

 急に自分に矛先が向いて、素っ頓狂な声が出る。

「わ……私が何……?」
「何って、この流れでわかりなさいよ。あんたも浮いた話の一個ぐらいないのかー、ってこと」
「ええ、ぜひわたくしにもお聞かせ願いたいわ。エムルのこいばな」

 興味津々といった顔つきで、ヴァリエッタもテーブルに身を乗り出す。にしても、こいばなって……。
 ――こんな二人でも、体の弱いエムルを常日頃気遣い学業をサポートする大切な友人たちである。

「ええと、その……。好きというか……気になる人ならいないことも」

 適当に茶を濁しても解放してくれそうにないので、エムルは口を割った。渡りに船、でもあった。
 あまり他言したい話ではないが、一人で抱え込むのも重荷。信頼の置けるこの二人になら――と。

「うちの父のことは知っていると思うけど。その父の近衛部隊に新たに加わった騎士で――」

 気になる人物とは、美しい髪の下でいつも物悲しい表情を浮かべている古代ベルカの騎士のこと。
 もちろん闇の書の意志だなどという正体は伏せ、最近知り合い親しくなった事実のみを伝えた。
 エムルの打ち明け話を受け……、パレットは興奮気味に拳を握った。ヴァリエッタも溜め息を漏らす。

「はぁ……憧れますわ、そんな出会い。銀髪の騎士……きっと素敵な男性なんでしょうね」
「えっ、いいえ……。女の人……かな」

 自信なげに答えると、友達二人の顔面が頬が上がったまま凍りついた。引かれてしまっただろうか。

 おかしいと自覚はしていた。見た目は女同士、しかも実体は人外の存在。それなのに抱く淡い思い。
 加えて彼女はデバイス-兵器-である。蓄積された魔導師の源を糧とし純粋な破壊を行う――。
 それでも……己の意思でエムルを守るという誓いを受けたとき、心に安らぎを覚えたのもまた事実で。
 四つ葉のクローバーを差し出された瞬間に高鳴った胸の鼓動は、はっきりと記憶の中に残っていて。
 他人に指をさされようと、自分が抱いたこの感情は間違いなんかじゃないと。そう信じたかった。

「悩むことないわ……! 誰かを慕う気持ちに垣根なんてないもの。そうよねパレット?」
「も、もちろんよヴァリエッタ。初めて聞くパターンだったからちょっと戸惑っただけ」

 肩を落とす友人の姿に、慌ててフォローに走る二人。気休め程度の慰めでも心は軽くなるもので。

「まあ応援してるよ、エムルのこと。またなんか進展あったら報告よろしくねっ」
「し、進展って別にそんなつもりは……!」

 ……体は正直だ。友達の言葉に反応してかっと体温が上がった自分自身が、さらに恥ずかしくなる。
 物事を深く考えていなさそうなパレットの一言が、深刻に考えすぎていたエムルの頭を柔らかくした。
 理屈をこねても仕方ない。自分の思いに素直になろう。目を閉じれば浮かぶのは、あの人の顔だけ。

 

 少女たちが思慕を語らった日々も、黒雲立ちこめる戦況下にあっては束の間の晴れ間に過ぎなかった。

 徹底抗戦の構えを続けていた帝国軍が、ミッドチルダ連合軍への総攻撃を宣告したのは昨夜のこと。
 ワゴナーいわく、闇の書が完成した――と。
 エムルには勝敗などどうでもよかった。……騎士団長の娘の発言としては責任を問われそうだが。
 目指すところは一緒なのに、なぜ対立するのだろう。平和のためになぜ争わねばならないのだろう。
 犠牲者の少ないうちに戦争が終結してほしい。父や部隊の騎士たちが、無事に帰ってきてほしい。

 そして彼女を――。破壊兵器という呪われた宿命から解き放ちたい。戦争に、巻き込みたくない。

(……地震? 違う、これは――)

 女学園から休校が通達されたこの日、自宅内で落ち着きなく歩き回っていたエムルが天井を見上げた。
 かすかに空気が震え、砂粒大の埃が天井から落ちてくる。――次の瞬間、強烈な縦揺れが襲った。

「きゃっ……!」
「お嬢さまっ!」

 身辺の世話を担う使用人がエムルに飛びつき、そのまま主人を庇う形で背面から床に倒れた。

「……ありがとう、ステア」

 揺れは数秒間続いた。収まってから上半身を起こし、尻の下に敷いている使用人に礼を述べる。
 使用人はごく冷静に、子どもを抱き上げるようにしてエムルごと立ち上がる。そして手を取った。

「どうやら敵襲が始まったようですわね。さあこちらへ、早く避難を……エムルお嬢さま?」
「ごめんなさい、私……っ」

 地下シェルターへ誘導しようとする手を振り解き、エムルは一目散に屋敷の外に飛び出していった。
 呼び止められても振り返ることなく。駆り立てられるように。何かに、誘(いざな)われるように。

「はあっ、はあっ……」

 ものの一分ともたず息が上がる。元より力の入らない両脚に加え、杖をつく腕にも疲労物質が溜まる。
 そもそも走ることなど叶わない体に鞭打ち、走り続ける。中庭のバラ園を横切り、なお敷地の奥へ。
 曇りという天候以上に上空が薄暗く感じられる。かすかに鼻をつく硝煙の臭い。胸の奥がざわつく。

 ステアは敵襲と言っていた。――連合軍が帝国の民間人を襲っているという情報は本当だったのか。
 魔法の平和利用による統治を標榜し、「時空管理局」なる崇高な機関の設立を訴える彼らがなぜ。
 帝国軍に早期の投降を促すための見せしめか。――いつだって、犠牲になるのは力なき者たちで。
 大揺れの直前、たしかに感じた。この世界の住人が持つベルカ式体系とは全く異質の魔力波形を。
 しかし、エムルが屋外に出た理由はそれではない。……もう一つ、巨大な魔力を察知したから。

(あの反応、もしや――いえっ、間違いない)

 エムルには確信があった。魔力検知能力に長けているからではない。――間違えようはずがない。
 その確信に後押しされ、さらに歩みを進める。普段ならもう歩けないくらい体力を消耗してもなお。
 クローバー畑の上に両足で引きずった跡をつけながら。つま先を、土と深緑色の汁で汚しながら。
 そして、草畑の最果てへ。木造の丸太小屋が、巨人に踏み潰されたように全壊していた。

「……っ。やっぱり……あなただったのね」

 その瓦礫の上に立つ、人影。背中に黒き翼をめいっぱい広げ、眼光はより鋭く、燃えるように紅く。
 ――それでも、それ以外の部分はエムルのよく知るかの騎士の面影を残していた。
 闇の書の意志、マスタープログラム。エムルの接近に気づいて顎を引き、顔を下げ……目を見開いた。

「エムル? なぜこのような場所へ……いえ、それよりもよかった、ご無事で」
「――――」

 口の端をわずかに上げる管制人格に対し、エムルは言葉もない。
 ……最初は遠目からだったし、外壁の陰になっていたため、大きな袋を持っているように見えた。
 この距離まで近づいて、ようやく認識する。それは、白色のマント――を羽織った人間の姿だと。
 若い男だろうか。顔面を鮮血に染め、白目をむき、しかし最後の気力で魔法杖は離そうとしない。
 その男の頭を、闇の書の意志が鷲掴みにしている。

「……そ……、……それっ」
「ええ。大方ここが主ワゴナーの屋敷と嗅ぎつけ、襲って人質でも取ろうとしたのでしょう。
守護騎士とともに前線にいたのですが、急に胸騒ぎがして――。引き返してきて正解でした」

 つまり……アイミーヴ家を狙った連合軍の魔導師を、駆けつけた彼女が返り討ちにしたというのか。
 これが、戦争。誰かが生き延びるために別の誰かが、死ぬ。
 エムルが世の不条理に打ちひしがれ何も答えられずにいると、管制人格が片腕で男を持ち上げた。
 掴んだ頭を、自分の胸の高さまで上げると、そのまま握り潰すように指先に力をこめ――、

「――これで安心です。今のうちに安全なところへ身を隠してください」
「ぅう……んぶっ」

 素手で果物を割る、力自慢のパフォーマンスのように軽々と、そして平然と。
 その魔導師を亡き者にすると、飛散した返り血を頬に浴びたままの涼しい顔でエムルに目配せした。
 一瞬の凄惨な光景に、エムルはたまらず地面に膝をつき四つん這いになった。胃の中身が逆流する。

「ケホッ……、ま……」
「では、前線へ戻ります。平和を脅かす連中を根絶やしにして、エムル――あなたを守るために」

 ――少女は感づいていた。闇の書の意志のリンカーコアから、ワゴナーの魔力も発せられていること。
 闇の書の、覚醒。完成とともに所有者と融合して人格を乗っ取り、力尽きるまで破壊を繰り返す。
 主ワゴナーの願いは……一人娘の幸せ。そのためにあらゆる阻害要因を排除せんとするだろう。
 その結果、己が身が朽ち果てようとも。

 そんな幸せなど望まない。幸せであるはずがない。父も、闇の書の意志も帰って来ない未来など。

「……待って! 行かないで! 行ってはだめ……っ」

 出征を引き留めなければ。まだ喉が支える感覚が残っているのを堪え、必死に声を張り上げた。
 六六六ページに及ぶリンカーコアの魔力が放出されれば、次元世界一つ丸飲みにしかねない。
 エムルだけではない、もはや誰も救われない。破壊と――悲しみしか生まぬ、血塗られた魔導書。

 少女の悲痛な叫びは――しかし聞き入れられることなく。
 両の翼を一回大きくはためかせると、管制人格の体が宙に浮き、一気に真上へと飛び上がった。
 それから暗雲渦巻く戦線の方角へ。小さくなる黒い影は煙る空に紛れ、やがて溶け込んでいった。

「ああっ、そんな……、う……うあぁ」

 天を仰ぎ嗚咽を漏らすエムル。虚空に向け伸ばした手に、何かがふわりと舞い落ちる。黒き羽根。
 闇の書の意志の魔力で構成されたそれは、手のひらに乗るとシャボン玉のようにあっけなく弾けた。
 無数の光の粒に砕けて、やがて跡形もなく消える。その様が、儚くも散った苦い初恋に重なった。

 

 

 赤く燃える空。黄昏の色とは異なる鮮やかな真紅の光が、空一面を覆う雲を地表から照らしていた。

「クソッ、体がいてぇ……! 目も霞んできやがった」

 痛みを堪えるため吐き出された怒声は、火を放たれた周囲の建物が崩落する音に紛れ消えていく。
 心もとない隠れ場所――古い城壁の陰に身を潜めるのは、幼き体躯の少女と、銀髪の若い女だけ。
 甲冑の上から脇腹を押さえる少女。手甲が指の間から赤黒く染まった。石畳の上にも池ができる。
 剣十字のエンブレムが表紙を陣取る、古びた魔導書。それを小脇に抱える女が、少女に声を掛けた。

「紅の鉄騎、大丈夫か……?」
「……っざけんな。これが大丈夫に見えるかよ……」

 力なく答える満身創痍の少女――ヴィータ。銀髪の女――闇の書の意志に噛みつく元気もなかった。

 時は新暦。ミッド式魔法体系が主流の時空管理局が、平和の名のもとに次元世界を掌握する時代。
 滅んだ古代文明が残した危険な遺産をロストロギアと呼称し、回収、封印、厳重に管理している。
 呪われた魔導書『闇の書』も第一級捜索指定遺失物として、局員らが血眼になって探し求めていた。
 果たして、転生により闇の書が出現した管理世界ノアローブルは、管理局との全面衝突の場となる。

 戦況は……このありさまである。四人いた古代ベルカの守護騎士は、今やヴィータ一人を残すのみ。

「シグナムがやられた。シャマルもやられた。ザフィーラも最後はあたしの……」

 あたしの……身代わりになって。その光景なら、闇の書の内部でその意志も目の当たりにしていた。
 ヴィータを背にして立ち塞がり、一斉に撃ち込まれた無数の魔力の刀剣をその全身に突き立てた。
 二つ名の通り――仲間の盾となり守護した獣人の、誇り高き最期。

 管理局サイドは、敵の戦力を徹底的に調べ上げていた。そして、目的のために手段を選ばなかった。
 プライドの高いシグナムを誘い出すため、武装隊のエース級魔導師が一対一での決闘を挑んできた。
 剣型デバイスを操る魔導師は強かったが、剣でシグナムの右に出る者はなく最後は追いつめられる。
 とどめを刺そうとシグナムが構えた刹那――隠れていた千人の砲撃魔導師が同時に攻撃を放った。
 「一騎当千」の強さを誇る烈火の将であっても、本当に千人分の魔力すべてを耐えきれはせず。
 決闘でのダメージもあり、シグナムは力尽きた。……砲撃の流れ弾を浴びたエース級魔導師とともに。

 リーダーの統率を失い、戦力を分断されるヴォルケンリッター。その後の壊滅ぶりは語るに及ばない。

「だが、三人が消滅する直前にリンカーコアは蒐集できた。そのおかげで私は目覚め――」
「何だよそれ……! 犬死にじゃなかったらいいってのかよ! 一緒のことだろ……?!」

 短気で八つ当たりばかりのヴィータの性格を熟知している管制人格も、このときばかりは驚いた。
 闇の書の守護騎士たる彼女が、本体が完成に近づいたことを祝うよりも仲間の消滅を悼んだから。
 ――マスタープログラムにしてみれば、ありえない挙動だった。
 バグか暴走かと思わせるような例外だらけの台詞を、ヴィータはさらにうめくようにつぶやく。

「あたしら……なんでこんなことしてんだよ。何のために、生まれてきたんだよ……っ」
「……」

 紅の鉄騎は何を言っているのだろう。闇の書の意志はいよいよ本気で頭を抱えざるをえなかった。
 自らの行動に理由を求めるなんて。自らの存在に、意味を求めようとするなんて。無為なことを。
 強いて回答を挙げるならば……そのように作られているだけ。プログラムで規定されているだけ。

「おまえの気持ち、酌んでやれなくてすまない――。だがここは抑えてくれ。気配を悟られる」
「……わあってるよ」

 過剰にエキサイトし声を荒げれば、まだこの辺りを偵察している管理局員に発見されかねない。
 もし見つかれば。手負いのヴィータと本来の力が戻らない管制人格……生存できるかは望み薄。
 ヴィータも子どもではないから戦局はわきまえている。短く応じると、険しい表情で唇を結んだ。

「なあ、闇の書……。あたしのリンカーコア、吸ってくれ」

 しばしの沈黙の後、ヴィータが落ち着いた声を発した。虚を突かれたように顔を上げる管制人格。

「どうせこのままじゃ守るどころか足手まといだ。シャマルいねえから回復もできねーし」
「しかし……」
「迷ってる場合か?! マスターの願いを叶えんのがあたしらの存在理由だろうが……!
 だったらさっさと全ページ埋めきって、管理局の連中なんか返り討ちにしてやれよッ!」

 怒鳴り声にならないようボリュームを落とし叫ぶ鉄騎の脇腹、甲冑の隙間から再び液体が滴った。
 ヴィータは主によって、小さな体を覆う赤褐色の分厚いフルアーマーを身につけさせられていた。
 ――完全に長所を潰している。こんな重い装備では、彼女の機動力や小回りのよさが生かせない。
 シグナムの不覚も同じようなもの。この時代の守護騎士たちは、よい主に恵まれなかったようだ。

 それでも、どんな無能な主、どんなに反りの合わない主でも忠誠を誓うのが守護騎士という存在。

「紅の鉄騎……。その確固たる思い、しかと受け取った。だが望みは聞いてやれない」
「なんでだ……?!」
「――おまえの分の魔力を加えても、まだ六六六ページに到達しない可能性があるからだ。
 もし届かなければ、蒐集に動いてくれる守護騎士は誰もいなくなる。私は、完成しない」

 自らをなげうって闇の書を完成させようとするヴィータに、意志は説得するように説明した。

「今しばらく力を借りたい。協力してくれるか」
「ケッ……! こんな死に損ないでもくたばるまでこき使おうってのか。……上等だ!」

 気勢を張って答えると、右手のグラーフアイゼンを持ち上げた。ハンマーヘッドが鈍く光を弾く。
 使用者の強い思いに呼応するように。

「けど……ゴホッ、わりぃ……まだ動けそうにねえ」
「ああ、構わない。ここで存分に体を休めてくれ」

 早くページを集めなければ劣勢は覆らないが、頼みの綱であるヴィータの復活なしには始まらない。
 幸い、周辺に魔力反応はない。この廃墟同然の古城の物陰で、気長に回復を待つことにした。

 一陣の風が、目を閉じて休息するヴィータの前髪を揺らし、それを眺める闇の書の意志の頬を撫でた。
 風の癒し手シャマルが操るのとは異なる、ただのそよ風。それでも心を鎮める効果はあった。
 つい先ほどまで激しい死闘が展開されていた戦場が、今は嘘のようにひっそりとしている。
 静まり返る戦場――。敵を全滅させた後の光景は、いつもこのように静寂に包まれていた。
 守護騎士たちに達成感や充実感など何もない。ただ命令に従っただけ。空虚な徒労感だけが残る。
 今は……どうだろうか。逆の立場に置かれ、この嵐の前の静けさがいかに貴重な晴れ間かを知った。

 たしかに理由も意味もない。しかし、ただ生きたい。生き延びたい。ヴィータが熱く訴えかけたように。

「なあ」

 そのヴィータが、またおもむろに口を開く。
 こんなに積極的に他人に話しかける子だっただろうか。記憶との辻褄が合わず、戸惑う管制人格。
 そのマスタープログラムをさらに混乱させるような単語を、ヴィータは口にした。

「――エムル・アイミーヴってやつ、覚えてっか?」
「……」

 紡がれた言葉は――人名らしかった。耳慣れない、しかしどこか懐かしい響きの……。

「いや……すまない。一体何者――いや、姓にはかすかに聞き覚えが。過去の主か……?」
「の、娘だってよ」

 なぜか伝聞調で答えるヴィータ。本人がそう自称していたのを鵜呑みにしただけ、といったふう。
 しかし、おぼろげながら闇の書の歴史にもかする名前である以上、全くの嘘でもなさそうだ。

「はなはだしく意外だ。血縁者とは言え、おまえが主でもない人間と交流を持っていたとは」
「……それがさ。その父親がマスターだった頃じゃなくて、知り合ったのは別の時代なんだよ」
「何だそれは……? 聞けば聞くほど妙な話だな」
「あたしにだってわかんねえよ。なんでこの記憶だけ残ってんのかってことも。それに――」

 そこまで言って、ヴィータは横にある崩れかけた石塀に視線を移した。
 ――闇の書の意志から表情を覗かれまいと逸らすかのように。

「それに交流っつーか……、元はあいつが一方的に絡んできただけだし」

 その人物を懐かしがるとも鬱陶しがるともつかぬ顔つきで、紐解くように昔語りが始まった――。

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