[やどりぎ] 風

 スズメのさえずりに目を覚ます。いつもと同じ時間。
 ベッドから起きて、んーっと伸びをする。昨夜もぐっすり眠れた。寝覚めがすっきりしていると、それだけで朝から気分がいい。薄暗い部屋のカーテンと窓を開ける。澄んだ青空がまぶしくて目を細めた。
「おはよう。今日はよく晴れたね」
 庭の大きな木に言葉をかける。一羽のスズメが、私の声に驚いて逃げるように飛び去った。木はそれを笑うみたいに、濃く色づいた葉をそよ風に泳がせている。
 朝の時間はあまり木からの声を聞かない。まだ眠っているのか、それとも寝起きが悪くてご機嫌斜めなのか。想像するとちょっと面白い。
 制服に着替えて一階に下りると、テーブルにはすでに朝食が並んでいた。私が毎朝飲む牛乳も冷蔵庫から出してある。
「お父さんおはよう。ご飯できてる。いつも早いね」
 リビングで朝刊を読んでいるお父さんに挨拶をして席につく。お父さんも読むのを中断して、私の向かいの席に座った。二人で声を揃えていただきます。食事はなるべく家族一緒に食べよう、それがわが家の約束事。
「はいお弁当」
 朝ご飯を食べ終えた私に、お父さんがお弁当を手渡す。受け取ってかばんにしまおうとしたとき、どうにも気になって、お弁当箱の入ったプリント柄のポーチをまじまじと見つめた。
 小学校の授業で作ったポーチは、食べ盛りの私のお弁当箱を入れるともうパンパン。これではまるで私が大食いみたいで恥ずかしい。と言っても、これくらい女子中学生の平均値だと思うけれど。……新しいポーチ作ろうかな。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
 お父さんに見送られて家を後にした。柔らかな日差しを受けながら自転車を走らせる。顔に当たる空気が気持ちいい。この付近は田畑が多くて、見晴らしのよいのどかな景色が続く。
 学校から離れた区域の生徒には、自転車通学が認められている。自転車に指定のステッカーを貼ること、ヘルメットをかぶること、雨のときは雨具を着用すること(傘差し運転はだめ)、という決まりがある。
 初めはただの通学の手段にしか思っていなかったけれど、いざ通い始めてみるとこれが楽しい。それまで自転車で遠くに出かけたことのなかった私には、新たな発見や刺激が多くて、毎日がちょっとした探検気分。
 早めに家を出ているから時間はある。自分のペースでペダルをこぐ。学校に近づくにつれて住宅が増える。徒歩で通学する、同じ学校の制服もちらほら。新しい一日の始まり。はやる気持ちが、自転車を少しだけスピードアップさせた。

 ぽんぽん。
 教室で始業を待っていると、不意に背後から肩を叩かれた。私も慣れたもので、このまま振り返ると頬をつつかれてしまうから、肩に置かれた手を自分の手で押さえてから振り向く。
「おはよう、風」
「おっはよう。あら、さすがに引っかからないか」
 舌を出して笑う少女は風。本名は風祭草子って言うんだけれど、私は風とか風ちゃんってあだ名で呼んでいる。風も私のことをスーやスサと呼ぶ。中学からの同級生でとても仲がいい。
「それにしてもスサは毎朝早いね。うむ、感心感心」
 両手を腰に当てたポーズで、うんうんとうなずく。風はいつも、こんな感じにおどけてみせて私を楽しませる。朗らかでユーモアがあって、人を飽きさせない。どちらかと言えば内気な私は、風の人柄に憧れている。
「風だって。来ようと思えばもっと早く来られるでしょ」
「思えば、ね」
 風の家は学校から歩いて五分ととても近い。学校を囲む住宅地の中にあって、二階の窓から学校のグラウンドやプールが見えるくらい。
 けれど風が言うには、学校が近いとかえって気を抜いてしまうそうだ。通学に時間がかからないと思うと安心して、つい寝坊しそうになったり、時間ギリギリまで家を出なかったりするんだって。近ければ近いなりの悩みがあるらしい。
「そうだ。今日また帰りに寄ってもいい?」
「もちろん。スサさえよかったら来て」
「やった、行く行く。今日こそあれクリアしたいんだ」
 あれ、とは、風が持っているテレビゲームのことである。
「張り切るね。でも、ゲームは一日一時間までですよ!」
 ぴっと人差し指を立てて私を注意する。どうやら今度は教育ママを演じているようだ。くいっと眼鏡を持ち上げる仕草までする。私もつられて、はーいと間延びした返事をして、それから二人で笑い合った。
 そのうち予鈴が鳴ったので、風はバイバイと手を振って自分の席についた。私の斜め前。好きな友だちの横顔を見ながらの授業は退屈することがない。
 お昼休み。教室内で自由に机をくっつけてお昼を食べる。私は二人分の牛乳パックを持って風のところに行く。他のクラスメイト二人も一緒に、お弁当を囲んで雑談に花を咲かせる。
 二人の子は私と同じ小学校なので、今朝思いついたポーチの話をした。家庭科の授業で同じポーチを作ったから。そう言えば作ったね、という反応が返ってくる。
「私もう捨てちゃったかも」
「もったいないよ。せっかく作ったのに」
「でも、お弁当入れるには小さくない?」
「そうだよ。これじゃ志恵、まるで大食いじゃない」
 ポーチにぎゅうぎゅうに押しこまれたお弁当箱を指さして笑うクラスメイト。自分が気にしていることを人から指摘されると、よけいに恥ずかしくなる。
「ねえ、風は――」
 照れ隠しで風に話しかけようとしたら、風は固まったように無表情。びっくりして顔の前で手をパタパタ振ると、はっと気がついて何事もなく笑顔になった。私は少し反省した。この場で小学生のときの話をするのは、小学校が違う風を仲間外れにしてしまうと思ったから。
 けれど疑問は残る。話し上手のうえに聞き上手でもある風は、いつもなら自分に関係のない話題でも身を乗り出して聞いてくれるのに。考えごとでもしていたみたい。
「草子のところは家庭科で何作ったの?」
「ええと、何だったっけ。エプロンと、筆入れだった……かな」
 他の子が尋ねても、どことなく歯切れが悪い。はきはきしている普段の風からはあまり考えられない。急に質問されたからよく思い出せなかったのかな。
 ただ、その話題を除けば風はいつも通り面白くて、だから今日のお昼休みも楽しい雰囲気のまま過ぎていった。

 一日の最後の授業が終わると、次は掃除の時間。私と風は仲良く当番の区域に向かう。今月は一緒に二階の水飲み場の担当。制服が汚れるといけないので体操着に着替えてきた。
 タイルをたわしで洗って、排水口まわりもきれいにして、小さくなった石けんを交換して、濡れた床を雑巾で拭いて、となかなかハード。でも、風と一緒ならどんな掃除も楽しいけれど。
 私は班でのじゃんけんに負けてここの清掃を受け持ったけれど、風は他の子がやりたがらないので率先して名乗り出たそうだ。みんなが嫌がることを進んでやるなんて、周りに気を配っているなって本当に感心する。しかも、先月は女子トイレの担当にやはり立候補したとか。
 風が大人びていると感じるときは他にもある。実験やグループ学習を真面目にやらない男子生徒がいると、女子は口うるさく注意するものだけれど、風はいちいち相手にしないで課題を進める。細かいことに目くじらを立てず、人の悪口も文句も言わない。人が出来ている。
 何でも相談に乗ってくれるし、明るく垢抜けている反面穏やかで落ち着いている。だから、背格好は私と変わらないのに、ずっと年上のお姉さんと接しているように感じる。
 放課後。明日は国語の小テスト、と手帳に書き記す。先に帰り支度を済ませた風がやって来た。
「ところで、今日は部活行かないの?」
「うん。昨日顔出したから、今日はいい」
 私の部は活動があまり活発ではなくて、日によって出たり出なかったりの生徒が大半を占める。そんなところへ根をつめて毎日通うこともない。
「それならいいんだけど。じゃあ行こう」
 自転車を押して風と一緒に風の家へ。話をしながら少し歩くと本当にすぐ着く。
 玄関に入ると、風は無言で家に上がった。ただいまって言わないのかな、と思ったけれど、人の気配がない。私は一応、家の中に向かってお邪魔しますと声をかけた。返事はない。
 何度も家に来ているのに、風のご両親とは会ったことがない。共働きで二人とも帰りが遅いと以前聞いた。風のおばあちゃんとはときどき会うけれど、今日はおばあちゃんもお留守みたい。
 風の部屋はどことなく殺風景な印象。テレビゲーム以外に目立ったおもちゃはなく、女の子らしいこまごましたものも見当たらない。だけれど、机の上の写真立てには、遠足で撮った私との写真を入れてくれている。くすぐったくなるような嬉しさを覚える。
 おしゃべりもそこそこにゲームのスイッチを入れる。風に手伝ってもらってクリアすることはできたから、今度は一人でクリアできるか挑戦。
「それさ、そんなに面白い?」
 夢中になってボタンを押している私の後ろから、風が尋ねてきた。これは何年も前に流行したゲームということだから、風はとっくに遊び飽きたのかもしれない。
「えっ。面白いよ」
 答えながら、画面の中のキャラクターと一緒に上体がジャンプする。だって、中学に上がって風と知り合って、風の家で初めてテレビゲームで遊んだのだから。私には新鮮そのもの。
「小学校じゃ女子は誰も持ってなかったから。風のところは違ったの?」
 しばらく待っても返答がない。気になって振り返ると、はっと気づいたような顔をした。
「あ、うん。持ってる子も、いたよ」
 きまりが悪そうな受け答えが気になりながらも、ゲームを再開しようとテレビの方を向き直すと、画面にはゲームオーバーの文字。ポーズもかけないで目を離すから、と風に笑われる。
 きりがいいので今日は帰ることにした。玄関から出ようとすると、ちょうど帰ってきたおばあちゃんと鉢合わせ。両手に長ねぎの束を抱えている。
「おやスサちゃん、いらっしゃい。今お茶入れるからお上がり」
「ちょっとばあちゃん、裏口から入ってきてよ。それから、スサはあだ名だからちゃんはつけなくていいの」
 突然のおばあちゃんの登場に、風はうろたえた様子。たしかに、自分の家族を人に見られるのは恥ずかしいから。でも、優しくて人のいいおばあちゃんだから照れることないのに。
「いいえ、今日はもう帰りますから。どうもお邪魔しました」
「そうかい、忙しないねえ。これからも草子と仲良くしてやっておくれ」
「はい、こちらこそ。それじゃ風、また明日ね」
「うんバイバイ。……もう、ばあちゃんは変なこと言わないでよね」
 引き戸を閉めてからも、困りきったような風の声はまだ聞こえていた。

 

 入学式が終わった後の最初のホームルームで、一人ずつ前に出てきて自己紹介をした。みんな入学したてで緊張していて、同級生の名前など耳に入っていないかもしれない。その一方で、ここでの第一印象が今後の学校生活を左右することにもなるから侮れない。
「須里志恵です。絵を描くことが好きなので、美術部に入ろうと思っています」
 何日も前から考えていた台詞。おかしな趣味と思われるかもしれないけれど、自分の好きなものは正直に言おうと決めていた。一礼して席に戻る途中、教室のどこからか「漫画おたく」と冷やかす声が上がった。同じ小学校の誰かだろうけれど、わざわざよけいなこと言ってくれなくたっていいのに。私は知らんぷりをした。
 担任の先生から当面の行事日程などが説明されて、最初の日は放課となった。配られたプリントをまとめてかばんにしまっていると、一人の女子生徒が私のところへ寄ってきた。
「須里さんだっけ」
 私の顔を興味ありげに覗きこむ。うなずいてみたものの、その子の名前が出てこない。少女は先回りして自ら名乗った。
「ああ、私は風祭。まだ初日だもの、名前わからなくても仕方ないよ」
 しまいかけたクラス名簿を出して確認する。風祭草子という名前があった。
 一日中おどおどしていた私とは反対に、風祭さんは初対面の相手に堂々と話しかけて、物怖じしない子だなと思った。それに雰囲気が温和というか柔らかくて、風祭さんと向き合っていると私も緊張しないで話ができそうな気がした。
「ううん、ごめんね風祭さん。あの、一年間よろしくね」
「よろしく。それで質問なんだけど、須里さん、ひょっとして漫画描いてるの?」
 その問いかけを耳にして、私は頭を抱えたくなった。あの冷やかし、やっぱりみんなに聞かれていたんだ。一気に心の中に不安が広がる。風祭さんも私をからかいに来たのだろうか。
「まあ、ね。……やっぱり変かな」
 半分諦め顔でそう言うと、風祭さんは首をぶんぶんと振った。私の手を取るとそれを自分の両手で包んで、興奮ぎみに目を見開いた。
「そんなことない! 私は漫画とかよくわからないけど、描けるなんてすごいことじゃない。変どころか、もっと誇りに思っていいよ。自信持って」
「本当? そんなふうに言ってくれたの、風祭さんが初めて」
「本当も本当。私が保証する。そうだ、私、須里さんの漫画見てみたい」
 風祭さんは目を輝かせた。申し出は嬉しいけれど、見せていいものか不安はあった。腕前を気にしているのではない。やっぱり自分の漫画なんて笑われるかもしれない。でも、せっかく私に興味を持ってくれたのに無下にはできない。風祭さんのこと、信じてみようかな。
「わかった、今度持ってくる。上手じゃないけど、見てくれたら嬉しいな」
 後日、私は風祭さんの前で大きな封筒を出した。放課後の静かな教室。他の生徒はみな早々に帰るか部活動の見学に行って、私たち二人しか残っていない。
 家から大事に持ってきた封筒。その中には、画用紙に清書した漫画が入っている。しばらく下書きのままだった作品を、風祭さんに見せるために急遽ペン入れしたものだった。私の趣味を受け入れてくれるか、ひとつの賭け。原稿を取り出しながら全身に緊張が走る。
「すごい! プロみたい」
 原稿を目にした風祭さんは驚嘆の声を上げた。私から画用紙の束を奪うように受け取ると、ものすごい勢いで読みだした。茶化したりすることなく夢中でページをめくる。感想を尋ねるまでもない。風祭さんのその姿を見て、私の胸に熱いものがこみ上げた。
「本当にうまいね。びっくりした」
 最後まで読んで顔を上げた風祭さんは、言葉通り心底驚いている表情だった。
「やだ。こんなの全然だって」
 手を振って否定する。実際に私の技量は大したことない。それに、出来栄えをほめられるよりも、風祭さんが熱心に読み通してくれただけで十分満足だったから。
 それから、漫画を描き始めた時期や、描くときに使う道具の話をして聞かせた。漫画はあまり知らないという風祭さんも、次々に質問したり大きくうなずいていた。こんなに真剣に漫画の話を聞いてくれる人はいなかったから、私も嬉しくなって言葉が弾んだ。
「絵もきれいだけど、話もよかった。話も自分で考えるの?」
 もちろんと答えながら、さらに心が躍った。異世界への冒険に旅立つ少女の揺れ動く心境を描いたストーリー。どんな困難が待っているか、新しい仲間に出会えるか、自分はどう成長していくか。それは他ならぬ、中学進学を控えた私自身の期待と不安そのものだった。
 私にとって漫画は、ただ物語を綴るだけのものではない。自分の気持ちや主張を、話の展開を通して表現したり深めるものだと思うから。その思いは風祭さんにも伝わっただろうか。
 ふと辺りを見回すと、教室にはもう西日が差していた。グラウンドのかけ声やブラスバンドの演奏も聞こえない。すっかり時間を忘れて話しこんでいた。
「今日はありがとう。私の話いっぱい聞いてくれて」
「私も楽しかった。須里さん絶対才能あるよ」
 茜色の光が頬を照らす中、私たちはおたがいを温かなまなざしで見つめた。もう言葉にしなくても、相手を友として認める気持ちは通じている。それでも私は言いたかった。
「これからも仲良くしてほしいな。かざま……えっと、風ちゃん!」
 思いきって口に出してみると、思いっきり恥ずかしかった。風祭さんはそう呼ばれて目を丸くしたまま。やはり、いきなり愛称で呼ぶのは少々気が早すぎたか。
「えっ、今――」
「あのね、風祭さんじゃ長いから、風とか、どうかなって。でもそういうの嫌だったら……」
「いいよ、全然嫌じゃない。むしろ嬉しい。出来た娘を持ってあたしゃ果報者だよ」
 風祭さんはみるみる笑顔になって、それからめそめそと泣き真似をしだした。突然冗談めかして芝居するものだから、おかしくなってお腹を抱えて笑った。
「あはは。じゃあ約束しよう。風ちゃんとずっと友だち」
 そう言って小指をぴんと突き出した。風祭さんはまた目を白黒させる。今思えば、中学生にもなって指切りなんてどういう発想だろう。私はかなり舞い上がっていたらしい。
「そうだね、約束。うーん、スサ。いやそれともスーがいいかな」
 私に合わせて小指を出しながら、いかにも今考えたようなあだ名をつけてくれる。即席だろうと私は構わない。愛称で呼んでくれる友だちができたことが一番だから。
 二人の小指がからまる。胸の鼓動が早くなった。私はすごく恥ずかしくなって、顔を真っ赤にしてうつむいた。風祭さんもそっぽを向いて照れくさそうにはにかんだ。くすぐったいような小指の感触が、いつまでも手の中に残っていた。

 

 ううむ、いつ思い出してものたうち回りたくなる赤面体験。今ではいい思い出だけれど。
 夜になって、窓の向こうの木を眺めながら風のことを思い浮かべていた。今日少し様子がおかしかったのが気がかりだったこともある。
 それにしても風は不思議だ。何事にも寛容で、広い心を持っている。考えが大人っぽくて、何でも話を聞いてくれる。よく気が利いて頼りになる人柄で、誰からも好かれるタイプ。そんな風が、どういうわけかいつも私のそばにばかりいる。まあ、目立ちたがり屋ではないから、クラスの中心に踊り出てみんなにちやほやされるという柄ではないけれど。
 風の存在を嬉しく思う反面、申し訳なく感じることもある。明るくてひょうきんな風と目立たなくて内向的な私とでは不釣り合いだから。面白みも取り柄もない私を、わざわざ選んで一緒にいてくれる。親友だと言ってくれる。風の思いやりに心が苦しくなる。
 けれど今は何も言わない。私は風のことが好きで、風も私を気に入ってくれて、一緒の時間は楽しくて、毎日が充実しているから。今の関係にわざわざ水を差すことはない。

 事件は、そんな私の甘い考えをあざ笑うかのように突然起こった。
 いつも私と風と一緒にお弁当を食べる二人が、ある日を境に同席しなくなった。私にごめんねと断って、よその女子グループの机に吸収されていく。
「球技大会があるから、その打ち合わせじゃないの」
 風はそう言ったけれど、打ち合わせならお昼の時間でなくてもできる。それより、二人の態度がよそよそしかったのが気になる。もしかしたら私を避けているのかもしれない。
 そのうち、二人はお昼休み以外でも私たちと距離を置くようになった。疑いが確信に変わる。何も言わずに遠ざけられれば誰だって気分がよくない。もし私が知らずのうちに気に障るようなことをしていたとしたら、すぐにでも謝らないといけないのに。
 私のことはともかく、このままでは風まで不安がらせてしまう。原因がわからないことには歩み寄りのしようもない。私は放課後、二人を渡り廊下に連れてきて問いただした。
「何があったか教えて。私が悪いなら謝るから」
「違うよ。志恵じゃない」
 否定してから、二人は同時にしまったという顔をした。私じゃない。ということは――。
「まさか、風を避けて……? どういうことなの、朱ちゃん、香織」
 うつむいたまま目を合わせようとしない。あの風が二人に悪いことをしたとはとても思えなかった。何とか真意を引き出そうと二人の肩を揺する。ようやく重い口が開かれた。
「あのね。他の子から聞いたんだけど、草子、小学校のときいじめられてたんだって」
「前は暗くて荒れてて、友だちいなくて、今とはまるで別人だったって。それ聞いたらなんか怖くなっちゃって」
 心の中で、何かが壊れる音がした。とても信じられない話に、目の前が真っ白になる思いがした。どうして風がそんな目に遭わなければならなかったのか。いや、それよりも。
「そんなの過去の話じゃない。それだけで今の風を嫌いになるなんておかしいよ」
 私は訴えた。小学校でのできごとなんて風との仲には関係ない。むしろ、つらかった過去を背負っているなら、なおのこと支えたり励ましたりするのが友情というもの。それなのに、目の前の友情が今消えようとしている。
 お願いだから離れていかないで。懇願にも近い説得を続けたけれど、二人には届かなかった。私の手を振り払ってさらに目を伏せてしまう。
「だって、あの性格はキャラ作ってるんだって思ったら、急に信じられなくなって」
「私も。嫌いじゃないけど、二重人格みたいでちょっと気味悪いかも……あっ」
 二人は、視線の先の何かに気がついて声を上げ、きびすを返して逃げ去ってしまった。キャラ作るとか二重人格とか、耳慣れない言葉で本心をはぐらかされたような割り切れない気持ちが残る。背後に立つ気配にゆっくり振り返ると、そこにはまさに風の姿があった。

 渡り廊下には他に人影はない。空気が重かった。まずいところを聞かれたと思いながらも、事の真相を本人に直接確かめずにはいられなかった。そして嘘だと言ってほしかった。ところが。
「今の話、本当だから。性格を作ってたのも当たり」
 ひっそりと静まり返った廊下によく通る声。本当に、風には驚かされる。私の心を読んだみたいに先回りして答えてくれるんだから。
 風は、これまで見せたこともない悲しい瞳をしていた。その視線は鋭く冷たくて、温かい雰囲気がまるで伝わってこない。これが、かつて暗かったという風の素顔だと言うのか。
「そんな……。でもなんで、いじめなんて、一体どんな」
 しどろもどろにそう言うのが精一杯。私は気が動転していた。まるで悪い夢を見ているみたいだった。隠された風の真実。そんな素振り、今まで一度だって見せたことなかったのに。
「聞きたい?」
 風は不敵に口元を緩ませ、それから静かに語り始めた。残酷なまでの記憶の数々を。
 最初は名前だった。草子だからクサ子とかクサイ子とからかわれた。黙殺していたら次第にエスカレートした。教科書を読んだり問題を解くとき、間違えると一斉に笑われた。女子には無視され、男子からは暴力を受け、クラスで孤立した。席は隅に追いやられ、着替えを隠され、花壇を荒らした犯人にされた。トイレや汚い場所の掃除ばかり押しつけられた。テレビゲームを買ってもらっても誰も相手にしなかった。担任にも見て見ぬふりをされた。不登校も経験した。勇気を振り絞って両親に打ち明けたら、いじめられる人間が弱いと見放された。
 私はショックのあまり床に崩れ落ちた。心に黒いものが流れこむ感覚。風の言葉を反復するたびに吐き気を催しそうになった。聞くのも耐えられない。これは拷問かと思った。
 拷問。その通りかもしれない。今まで風に、悩みや本心を明かしてほしいと持ちかけたことがあったか。心の声に耳を傾けようとしたか。親友なのに私は何もしていない。その報いをきっと今受けている。
「だから、中学に上がったら生まれ変わろうと思った。昔の自分を捨てて、人から好かれる性格になりきって、新しい友だちを作ろうって」
 わかる、わかるよ。何度もうなずいた。そんなにつらい過去や自分なら忘れたいと思うのは当然のこと。人格を変えてまで新しい学校生活に挑んだ、その勇気と努力を非難する権利は誰にもないし、もちろん風を嫌う理由にもならない。
 それに私は、今の風の性格はまったくの嘘ではないと思う。本当は明るいけれど、不幸な境遇の中で心を閉ざしていたかもしれない。また、自分が苦しみ傷ついた経験があるから、相手の気持ちを考えて優しく接しられるのではないだろうか。
 風にかけてあげたい言葉はいくつもあったのに、どれも声にできなかった。私が泣いていたから。
 これからは風の話をたくさん聞こう。もっと本音で語り合おう。私がずっとそばにいて、もう一人きりになんてしない。こぼれる涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、固く心に誓った。
「泣いてくれるんだ。スサは本当に優しいね」
 肩に手を乗せられて、いよいよ私の涙は止まらなくなった。私は優しくなんてない。友だちの苦悩に気づけなかったなんて、とんだ偽善者。風に気遣ってもらう資格なんかない。
「さあ立って……。私、もうだめ。スサのことだましてたから、もう一緒にいられない」
 風に腕を引かれて立ち上がった私は、次の一言に耳を疑った。風が私との仲を断とうとしていると知って、血の気が引く思いがした。しゃくっていて思うように声が出せないので、大きくかぶりを振って拒んだ。私の方が責められこそすれ、風は何も悪くないのに。
 一方の風は、過去を洗いざらい暴露したというのに落ち着き払った顔をしていた。いつか私にこの話をしなければならないと思っていて、その覚悟を決めたという表情にも見えた。
「私、性格……なんて、気にしない」
 ここで何か言わなければ風は戻ってこない、その一心で必死に涙声を搾り出した。
「そのことじゃない。私が入学式の日、どうしてスサに声かけたかわかる?」
「えっ――」
 風が静かに尋ねた。私たちが初めて言葉を交わしたあの日。どうしてってどういうことだろう。風が私の自己紹介に興味を持って話しかけた、それだけの理由ではないというのか。私が答えられずにいると、風はやがて意を決したように大きく息を吸った。
「……いいカモだと思ったからよ。大人しくて気弱そうだったし、他の子にからかわれてたし、人を疑うことも知らないような顔してたし。少し自分と重なったのもあるけど、声かけたら簡単に友だちになってくれそうに見えたから。漫画の話を振ったら案の定喜んだから、あとは適当におだてればすぐ懐くだろうって。本当に楽勝で驚いた。ね、もういいでしょ。スサのことずっとそういうふうに見下してたの。こんな最低なやつ、友だちでも何でもない」
 夕日に照らされた渡り廊下を、そよ風が穏やかに吹き抜けた。私たち二人が立っているこの空間だけ、他の場所とは別の時間が流れているように感じられた。
 風の告白を聞いても、私は別段気を悪くしなかった。動機なんて何であれ、風が話しかけてくれて、私たちは仲良しになれたことに変わりはない。それよりも、ずっと一人で苦しんでいた風を思うと胸が痛む。私は何とも思っていないから、もう自分を責めないで。心から願った。
 だいたい、私の漫画を我を忘れて読んでいた、あの様子が演技のわけない。風の部屋にある写真も、まさか私が遊びに行く日だけ飾っているとは思えない。いつも私とばかり一緒にいたのも、私を頼っていた何よりの証拠。風は紛れもない、正真正銘私の本当の友だちだ。
「風。風は私のこと好き?」
 風のことは完全に許しているけれど、それを風にどう伝えたらいいか考えていた。ちょうど涙も引いたので、少し意地悪に言ってみた。思った通り、ストレートな質問に頬を染めて戸惑う風。恥ずかしいのはこちらも同じ。私は続けた。
「私は好き。風のこと一番大事だから、全部許せるし、離れてほしくない。風はどうなの。私のこと好きじゃないから、友だちやめたいの?」
 ずっと風を見てきた。だから風の気持ちはわかっているつもり。これは温情や義理じゃない。純粋に大切に思うから、風を受け入れたいし、支えられる存在になりたいと願う。
 ゆっくり両腕を広げると、風がその中に飛びこんできた。
「違う! そんなの嘘。離れるなんてやだ。嫌いにならないで。お願いスサ」
 堰を切ったように言葉があふれた。堪えきれなくなった涙が私の胸を濡らす。いつもは頼もしいお姉さんの風が、このときはたまらなくか弱く思えて、ぎゅっと肩を抱いて慰めた。風の本当の気持ち、これからもこんなふうにいっぱい聞かせてほしいなって思いながら。
「大丈夫。私はここにいるよ」
 触れ合う風の温もりを感じる。指切りをしたあの日のように、窓から夕焼け空が見えた。

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