[やどりぎ] 木登り

 小高い丘の上に立つ小さな一軒家。それが私の家。
 制服姿の私は、自転車を立ちこぎして家の前の坂を上っていく。家まであと少し。そう思うと自然と気持ちが弾む。学校だってもちろん楽しいけれど、私は家がいちばん好き。だから、ペダルを踏む足にも力が入る。
 家のガレージに自転車を停めて、ヘルメットを外しながら空を見上げる。夕方前なのに一面真っ暗。濃い色の雲が、どよどよと左から右へ流れている。今にもひと雨来そう。無性にわくわくしてきた。
 玄関から家に入ると、二階の自分の部屋へと駆け上がった。通学かばんを机の上に置いて、窓を思いっきり開け放つ。
「ただいま。元気してた?」
 窓のすぐ外、目の前にまで伸びてきた枝に、私は声をかける。この部屋からの挨拶が、私の近ごろの日課みたいになっている。
 庭のど真ん中に、どっしりと根を下ろす大木。私が生まれる前から、この家と私たち一家を見守ってきた。その背は二階建てのうちの屋根よりも高く、枝葉も広く張り出して壁や窓に迫っている。
 窓から手を伸ばして、木の葉に触れてみる。みずみずしくて軟らかい。まだ新しい葉っぱだ。この木は今も成長を続けている。脈々と流れる生命の息吹を感じさせる。
 ふと、心の中に声が響いた。
 木が呼んでいる。そんな気がする。
「待ってて、今行くから」
 私は若葉をもうひとなでしてから、雨が降りそうだったので念のため窓を閉めた。それから、部屋着のトレーナーとスパッツに素早く着替えて、また階段を駆け下りて庭に出る。
 玄関の前の庭は、大木のほぼ一人舞台。門から入ってくるところに、お父さんが鉢植えの花やプランターなんかを置いているけれど、占めるスペースも、目立ち具合も、この木の圧倒的な存在感にはかなわない。なんて、お父さんに言ったらがっかりするかな。
 よーし、と腕まくりをして、木に飛びつく。太くてまっすぐな幹の、どこにこぶがあるか、どこが手足をかけやすいか、みんな体が覚えている。難なく最初の大きな枝に到達。その枝にまたがって片ひざを立て、幹に背をもたれる。こうすれば安定して座っていられる。
 その場所までたどり着いた私を、町内を一望できる見晴らしが迎える。子供のころから慣れ親しんだ、いちばんのお気に入りの風景。
 もちろん、木になんて登らなくたってそこそこの景色は望める。私の家自体が周囲より高い位置にあるから。けれど、木の上からとは見応えがまるで違う。それに、二階の窓からは、肝心の木が視界を遮ってしまうから。
 でこぼこな樹皮の感触が、健康サンダルみたいに背中を心地よく刺激する。成長期の私が登ってもびくともしない幹には、安心して体重を預けられる。こうしていると、何か大きな温かいものに包まれているように感じられる。
 楽な姿勢で眺める景色。私の通学路も、昔通った保育所も、お父さんと一緒に買い物に行くスーパーマーケットも見える。町全体が薄暗い。泣き出しそうな曇り空に対比して、私はとても穏やかな気分に浸っていた。

 不意に、家の中から声がした。
「志恵、雨が降りそうだよ。志恵ー」
 私を呼ぶ耳慣れた声。家の中まで届くように、大きめの声で返事をする。
「うん、わかるー。今見てるからー」
 少しして、私が開けっぱなしにしていた玄関のドアから、お父さんが出てきた。エプロン姿の似合う、いつも笑顔で優しいお父さん。私の自慢のお父さん。
 お父さんはサンダル履きで木の根元までやって来ると、目を細めて私を見上げた。今日はちゃんと着替えてるね、って小声でつぶやきながら。
「やっぱりそこにいたんだ。すっかり指定席だね」
「それはもう。それよりどうしたの? 洗濯物、私が取りこめばいいの?」
「いいや、それは僕が済ませた」
 首を振りながら微笑むお父さん。見下ろすと、お父さんが私の真下にいる。というより、私のちょうど脚の間にいる。なんだか妙な感じ。
「じゃあ、何を手伝おうか。二階の窓閉めてくればいい?」
「あはは。違うよ、お手伝いを頼みたいんじゃないんだ。雨が降りそうだから中に入っておいでって、そう言いたかっただけ」
 そうは言っても。五感を澄ませてみる。空気は湿っぽくなく、風もあまり吹いていない。それほど本降りになりそうな気配ではない。
 お父さんの言うことを聞いて素直に降りてもよかったけれど、ここは居心地がいいから。決めあぐねている様子の私に向かって、お父さんが言葉を続ける。
「降ってきてからじゃ危ないよ。滑りやすくなるし」
「平気、そんなに降らないと思うから。それに、いざとなったらこの木が守ってくれる」
「ああ――。それもそうだったね。妬けるなあ」
 お父さん、思わず頭をかいて苦笑い。たしかに、娘が自分よりも一本の木に信頼を寄せているとあれば、父親として心境は複雑だろう。もちろん、私はお父さんのことも全面的に信頼しているけれど。
 それに、お父さんは本気で私を引きずり下ろすつもりなんてないと思う。私が長年この木と戯れているのを、ずっと見てきているから、今さら心配も何もない。お父さんはそこまで過保護ではない。
「冗談だって。もうじき降りるから」
 とは言え、お父さんによけいな心配をかけるのも気分のいいものじゃない。そう思って声をかけたけれど、お父さんの反応がない。私の言うことが耳に入っていない様子だ。
「……お父さん?」
「あっ、すまない。ちょっと思い出していたんだ」
 私の呼びかけに、慌てて顔を上げたお父さん。授業中に考え事をしていて突然指された子みたいで、ちょっと反応が面白かった。
 何を思い出していたのか、なんて尋ねなくても私にはわかる。だって、他ならぬ当事者間のできごとだから。
 私が、この木に宿る声と初めて心を通わせたあの日のできごとを。
「そうだね、私も思い出す。こんな天気の日はとくに」
 お父さんが見上げる視線の先を追って、私も空を見る。雲の流れはいっそう速くなっている。木の枝がざわめきだす。雨降り前の、私の好きな天気。
 触れ合っている背中ごしに、また声が聞こえた気がした。

 

 私は、園児だった当時から、よく庭の大きな木で遊んでいた。見上げてもてっぺんが見えないほど高い木は、幼い私の目と興味を引いた。
 何より、樹木は生きている。季節によって、葉っぱをつけたり枯れたり、色を変えたり。木の皮をはがしても、いつの間にか元通りに再生する。粘っこい樹液に昆虫たちが群がる。早起きしてセミの羽化も見た。身近にそびえる生命の神秘は、いつも私を感動させた。
 日に日にその木への興味は募って、いつしか私は登ってみたいと思うようになった。
 そのころ、木登りは男子だけの遊びだと思っていた。同じ組の女子の中にも、木登り遊びなんてしたがる子はいなかった。鉄棒やジャングルジムは平気なのに、木には触らない。今思えば根拠のない線引きだけれど。
 女子が男子の遊びをしてみたいとはなかなか言い出せなかった。けれど、私の思いは強くなるばかり。上まで登ってみたら、そこから何が見えるのかな。何か新しいものが見つかるかな。思い浮かべるだけで胸が躍った。
 好奇心に堪えきれなくなった私は、お父さんに自宅の木に登りたいと打ち明けた。五歳の私が、勇気を振り絞って。
「いいよ。僕が見ていてあげるから、やってごらん」
 当然のことながら、あっけなく了承された。お母さんは危ないと心配していたけれど、お父さんが必ず付き添うと聞いて許してくれた。
 ついに始まった私の木登りへの挑戦は、一筋縄ではいかなかった。私の体に比べて木が大きすぎた。節穴や出っぱりに手が届かなくて、なかなか上に進めない。実際にやってみないとその難しさはわからないと、そのとき痛切に感じた。
 お父さんは言葉どおり、ずっと後ろで見守っていた。声をかけて励ましてはくれるけれど、具体的なアドバイスをしたり、また私がひざや腕をすりむいたからってすぐに手当てしようとはしなかった。自力で困難に立ち向かう経験を積ませたくて、私に木登りをさせたのかもしれない。
 一度だけ、失敗して木から落ちたことがあった。最初の太い枝を目指していた私は、ようやくその枝に手が届きそうな高さまで登った。あと少し。右手を精一杯に伸ばす。そのとき、幹に指をかけている左手に何かが触れた。モゾッという不快な感触。見ると、指の上を黒い毛虫が這っていた。私はびっくりして声を上げ、思わず手を離してしまった。
 幸い、お尻から地面に落ちたので、これと言ったけがはしなかった。しかし、毛虫に刺された指が赤く腫れていた。これはさすがにお父さんが消毒してくれたけれど、しびれるようなチクチクとした痛みは消えなかった。
 私は泣かなかった。ここで泣き言を言ったら、もう木登りをさせてもらえなくなると思っていたから。幼心に何でもないという顔をして、指先の痛みや毛虫への恐怖心を我慢しながら木に挑み続けた。

 それは夏の盛りのある日。朝、仕事に出かける前のお母さんと、木登りの話をした。身支度を整えながらも、いつになく真剣に耳を傾けてくれるお母さん。もう少しで枝に乗れそうだと聞くと、私を導いて庭に出た。
「枝って、この枝? あんなところまで登るの?」
 お母さんが手を伸ばして、一本の枝を指した。葉の間から朝の光がもれている。背の高いお母さんは、私が目指すその枝に、ジャンプしただけでタッチできそうに見えた。なんだかうらやましかった。
「うん。そうだよ」
「そう。志恵は偉いわね。登れるようになったら、私にも見せてちょうだい」
 その言葉は、私にとって最高に嬉しかった。いつも忙しくて私にかまってくれないお母さんが、木に登るところを見たいと言ってくれたから。私は元気よくうなずいた。
「よかったね志恵。でも、今日は台風が来るから練習できないよ」
 お父さんが玄関から出てきて私に告げた。まさか、と耳を疑う。だって、朝からこんなに太陽がぎらぎらと照りつけているのに。持ってきた焦げ茶色のハンドバッグをお母さんに手渡しながら、お父さんはお母さんにも台風に気をつけるよう言っていた。
 やがて、お母さんは乗用車で家を後にした。私とお父さんは手を振って見送って、それから家の中に入った。
 朝ご飯の後片づけなどしているうちに、本当に空が暗くなってきた。どこからか湧いて出た雲が、またたく間に日差しを遮った。
「ほらね。今日は家の中で遊んでいようね」
 お父さんはどこか得意げな顔をして言った。えーっ、と頬をふくらませる。窓から暗くなった空を見上げては、朝のお母さんとの約束ばかり思い出していた。早くお母さんに、私のがんばっている姿を見せたいのに。
 私は、言いつけを破った。お父さんが掃除機を持って二階に上がったのを見計らって、こっそり玄関に向かった。靴のマジックテープは、はがすときにビリビリと音が出る。気づかれないよう慎重にはがして靴を履いた。
 庭に出ると、上空で轟音のように風が鳴っていた。空は一面灰色の雲に覆われて、雨降りの準備は万端。いつもはけたたましいセミの声も、今はまるで聞こえない。
 今までけがをしたことはない。お父さんが見ていなくたってきっと大丈夫。私は意を決して、幹に足をかけた。

 お父さんが、姿の見えなくなった私を捜して庭に飛び出てきたとき、すでに雨足は強かった。風も猛烈で、ビュオオという激しい音とともにガラス窓をきしませた。
「おとうさん……」
「志恵! ああ、なんてことを」
 お父さんを力なく呼ぶ。私の体は、木の枝の上にあった。目標だった太い枝に、初めて到達することができた。しかし、喜びも感動も味わうどころではなかった。
 そこから降りられなくなってしまったから。登っている間は夢中だったけれど、登りきってから地面を見下ろして、別世界のようなその高さに足がすくんだのだ。その上、強風がしきりに枝を揺らすから、うかつに身動きも取れない。
「いいね、絶対に手を離しちゃだめだよ。つかまっていなさい」
 激しい雨を浴びながら、心配そうに見上げるお父さんの顔。心の中で、お父さんに何度も謝った。ちゃんと言うことを聞いていれば、こんな目には遭わなかったのにって思ったから。後悔が押し寄せて、涙がこみ上げてきた。
 お父さんは手をこまねいていた。私に飛び降りさせるのは酷だと思ったかもしれないし、腕力がある方ではないお父さんが私の体を受け止められるか、正直不安だった。また木に登ろうにも、すっかり雨に濡れた幹では大人でも難しそうだった。
 それに、お父さんは向こう見ずな行動に出たりはしない。私を助けられないばかりか、自分までけがをしたら。そうなったら私がもっと悲しむことを、ちゃんとわかっている。
「すぐに助けを呼んでくるから。じっとして、そのまま動かないで」
 しばらく状況を見ていたお父さんは、私が少しの間ならこのまま耐えられると判断したようだった。萎縮してしまって声が出ない私は、無言で大きくうなずいた。幹を抱きしめる両手に力がこもる。お父さんは坂を駆け下りていった。
 ほぼ横殴りに近い雨が、葉の間を縫って私に打ちつけた。夏とは言え、時間がたてば体温や体力が奪われるだろう。風にあおられて枝が大きく反った。叫び声も出せなくて、ただ必死で幹にしがみつくばかり。その幹にも雨水が伝って、しだいにぬめりを帯びてきた。
 そんな中私は、意外にも落ち着いて状況を見ている自分に気づいた。お父さんがいないのは心細いけれど、不思議と怖くなかった。この木につかまってさえいれば大丈夫。どうしてかそう思えた。日々の木登りの経験が自信につながったのだろうか。
 それだけではないと思う。安心感を与えているのはこの木だった。いつだってそう。幹に背をもたれるとき、木陰で涼むとき、木漏れ日を見上げるとき。この木のそばにいるときは、包みこむような優しさや、守られているような安らぎを感じられた。それは樹木の生命力そのものだったのかもしれない。
 私は、抱きつく木に身も心もゆだねて、ひたすらじっと風雨に耐えていた。
 やがて、遠くから私の家に向かってくる人影が見えた。二人の人が、何か大きなものを持っている。
「志恵ー! 大丈夫かー?」
 一人はお父さん。助けを呼んできてくれたんだ。
「今行くから、もう少し辛抱しとれよー!」
 もう一人は、声を聞いてわかった。おじいちゃんだ。近くに住む小庄さんのおじいちゃん。二人で運んでいるのは、長い梯子のようだった。
 小庄さんの家は、古くからのお百姓さんで、この辺り一帯の大地主。でも権力におごったりはせず、温厚で人当たりがいい。よそから移り住んできたお父さんたちに特別目をかけて、いつも相談に乗ったり世話してくれる。私のことも実の孫のようにかわいがっていた。
 そのおじいちゃんは雨具に長靴で完全装備なのに対して、お父さんはエプロンつけたままの格好だから、もう全身ずぶ濡れ。だけど、息を切らしながら懸命に走っている。お父さんのそんな姿に心を打たれ、また、自分のしたことをあらためて反省した。
 それにしてもお父さん、おじいちゃんになんて説明して助けを求めたんだろうか。娘が木から降りられなくなったって言ったのかな。子猫じゃあるまいし、そんなの恥ずかしい。でも、正直者のお父さんのことだから、きっとその通り話したんだろうな。
 ――ほら。こんな状況なのに、私は冷静に周りを観察したり、考えごとなんてする余裕まであった。

 庭に着いたお父さんたちは、まだ枝に乗っている私を確認して安堵の顔を浮かべた。
「おお、無事じゃ無事じゃ。志恵ちゃんは豪気だ」
「よかった、よくもちこたえたね。さあ、すぐに助けるよ」
 口々に声をかける。私はまだ声が出せなかったので、返事の代わりにこくこくとうなずいた。それから二人は、木製の梯子を幹に立てかけた。私のいる高さまでゆうに届いた。
 小庄さんのおじいちゃんが梯子に足をかけた。軽い足取りでひょいひょいと登ってくる。お父さんは下で梯子を押さえていた。おじいちゃんは程なく私の目の前までやってきて、私を抱きかかえようと腕を伸ばした。畑仕事で鍛えられた、力強くてがっちりした腕。
 ところが、私は反射的に首を横に振っていた。
 体が動かない。この段にきて、にわかに恐怖が押し寄せてきた。この木から少しでも離れたら落ちてしまう、そんな不安に駆られた。手も足も震えて思うように動かせない。あるいは体力が限界にきていたのかもしれない。慌てたのはおじいちゃんだ。
「どうした? 嫌がるでない、ほら早くおいで」
 お父さんも声を張り上げて急かす。
「志恵、大丈夫だから、おじいちゃんにつかまって!」
 雨の降りは激しさを増し、風も猛然と吹きつけてまるで嵐だった。突風でおじいちゃんがバランスを崩しかけた。お父さんが必死に梯子を支え、おじいちゃんも梯子と木の枝とにつかまって体勢を持ち直した。またいつ強風にあおられるか。もう猶予はなかった。
 しかし、私は怖気づいて身を固くするばかり。おじいちゃんも早く救助したいのだろうけれど、一向に手を離そうとしない私を無理に引きはがすのも危ない。
 そんなときだった。声が聞こえたのは。
 お父さんのとも、小庄さんのおじいちゃんのとも違う、声。二人の大声は風雨にかき消されて思うように聞き取れなかったのに、その声はとても鮮明に聞こえた。しかも、お父さんたちはその声にはまったく気づいていないようだった。私にだけ聞こえる声。
 だれ? だれなの? 私は目をつむって、その不思議な声に問いかけた。答えはなくて、代わりにまた同じ声が聞こえた。幹の中から聞こえた気がする。
 ただ、それが何と言っているのか、私には意味がわからなかった。少なくとも日本語ではなかった。というより、世界じゅうのどの人が話す言語にも当てはまらないように思えた。
 だけれど。
 何となく、私にこの木から降りるよう諭しているのではないかと感じた。サイレンのように、同じ声が何度も聞こえていたから。
 私は推測するまま、再び心の中で語りかけた。きからおりればいいの? 声はぴたりと止んだ。
 目に見えない何かと言葉を交わした。そのことが、高揚感とはいかないまでも、私をふわふわした気持ちにさせた。その分恐怖は薄れて、ようやく手足が動かせるようになった。差し出された腕にしがみつく。おじいちゃんは片腕で私を抱いたまま、梯子を降りていった。
 お父さんが梯子を下ろした直後、これ以上ないという突風が襲った。葉はむしられて飛び散り、枝という枝がねじ曲げられるようにしなった。ついには木全体が巨大なばねとなって、根元から何往復も揺れた。
 自然の猛威を目の当たりにして、私たちは言葉を失った。木から降りるのがもう少し遅ければ、私は間違いなくはじき飛ばされていただろう。おじいちゃんやお父さんまで危険だったかもしれない。
 だから私は、あの不思議な声が私に危険を知らせて、救ってくれたと本気で思った。
 それだけに留まらない。お父さんが戻ってくるまで、雨風で木から振り落とされそうになる危機は何度かあったに違いない。その間ずっと私を守ってくれていたのは、他でもないこの木だった。木の声を聞いた、心が通じ合えたと、私は確信した。

 目立った外傷がなかったので、私を医者に連れて行く必要はないだろうという話になった。お父さんは小庄さんのおじいちゃんに何度も深々と頭を下げた。私も、おじいちゃんまたね、とバイバイをした。子供は呑気なものだ。おじいちゃんは私に手を振り返して、一人で梯子を持って帰っていった。
 それから言うより早く、私は浴室に押しこまれた。当然お父さんもびしょびしょだったから、お父さんと一緒にお風呂に入った。私は疲労感と、木の声のことで頭がぼんやりしていて、お父さんに謝るのをすっかり忘れてしまった。
 お風呂から上がっても、外ではまだゴウゴウとすごい風が吹いていた。バスタオルを頭からかぶって体を拭いてもらっているところに、お母さんが飛んで帰ってきた。お父さんがいつの間にか連絡していたらしい。
 ところがお父さんは、暴風雨の中を車を走らせて帰宅したお母さんを注意した。
「危ないじゃないか。もしきみが事故にでも遭ったらどうするんだ」
「心配しすぎよ。それよりも志恵が気掛かりだったんだから仕方ないでしょう」
 二人がちょっとした言い合いになったので、私はお父さんとお母さんがけんかを始めてしまったものと勘違いして、突然声を上げて泣き出した。それまでずっと張っていた緊張の糸が、一気に切れたということもあるだろう。
 慌てて駆け寄ってくる二人。お母さんがひざをついて、私の体を抱きしめた。
「よかった、本当に無事でよかった……!」
 スーツ姿だろうがお構いなし。まだ濡れている私の髪をくしゃくしゃとなでた。私は胸がいっぱいになって、お母さんの胸に顔をうずめて泣きじゃくった。
 そのまま私は泣き疲れて眠りについた、らしい。暴風が収まって、お母さんは再び仕事に行って、目を覚ましたら枕元にお父さんがいた。うちわでパタパタあおぎながら、いつもと変わらない優しい目で私の顔を見ていた。
「おとうさん。ありがとう」
 私の口をついて出たのは、その言葉だった。本来ならごめんなさいなんだけれど、お父さんはそれを待っていない気がしたから。お父さんはこんなとき、私を叱りつけたりしない。謝罪の言葉より、私自身がよく反省すればそれでいい。そういう考えだから。
 でも、そんなお父さんでも、私からのありがとうは意外だったみたい。
「えっ、どうしたの志恵。どういうこと?」
「わたしをたすけてくれたから。だからおれいをいうの」
 お世話になった人にはきちんとお礼を言いなさい。お父さんの口癖。お父さんもそのことを思い出したようで、苦笑した。その通りだね、よくできました、って。
「それから、おじいちゃんにも。それから、おかあさんにも」
「そうだね。おじいちゃんの家には今度挨拶に行こうか」
 布団の中で私は続けた。体が疲れていて元気はなかったけれど、話をしているうちに、みんなのおかげで自分は今ここにいるんだっていう実感が湧いてきて、自然と顔がほころんだ。
 そうだ。もう一人、名前を挙げなくてはいけない。
「それから、きにも」
 お父さんの表情が一瞬固まったのは言うまでもない。

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