[なぞ] 2012/03/13

自分は人と争うことを好まないと思っていた。
いさかいを嫌い、万事穏やかに物事を進めようとする。角が立っても波風が立ってもろくなことがない。
論争になるなら譲ろう。意見なんか通らなくていい。決定事項をそのまま上書きしてしまえば、それで。
長い間そう思っていた。

自分はストレスの溜まらない人間だと思っていた。
怒りの感情を人にぶつけたりしない。内々に処理できる。人知れず捨てられる。愚痴なんて弱者が吐くもの。
のめり込める娯楽を、捌け口をいくらでも持っているから。常にリフレッシュした状態を保っているから。
長い間そう思っていた。

自分は博打を打てるタイプじゃないと思っていた。
一時の享楽に溺れて財産をなげうつのはもちろんのこと、儲けを増やすためにリスクを犯すなんてありえない。
確率論ではない。対価を得られない売買など売買とは呼べない。そんなものに血と汗と涙を投じるものかと。
長い間そう思っていた。

自分には人に見られて困るものはないと思っていた。
ばか正直に生きてきた。嘘をつけなくて損をしたこともあった。それでも信念を曲げることは頑なに嫌った。
隠し事をせず、性格に表裏を作らず、たとえ劣っていてもみっともなくても、ありのままの姿を晒してきた。
長い間そう思っていた。

全部大間違いだった。ありもしない幻影を溺愛していた。

誰もが当たり前に経験すること、なのに遠く感じられて。
ドラマや世間話に共感できないことが多くなる。さもそれが国民の義務であるかのように語られる世界。
画一論に嫌気が差しひとり反旗を翻したのが二十年前の話。
自分は変人だからと決めつけることによって。他の人とは考え方や生き方が違うと思い込むことによって。
耳を塞ぎ目を背けて生きてきた。真理という命題から。
だから、価値観が合わない、なんて。理解できない、なんて。軽々しく口にして人を突っぱねてきた歴史。
それを今さら仲間に入れてくれなんて虫がよすぎるんだ。
参加できない。世間という行事に。疎外感が嫉妬を増幅させ、みんなくだらないと負け惜しみを吐かせる。

それでもわめき続けた。ずっと繰り返してきたことだった。
泥玉を転がし続けて練成された信念。これ以外の生き方なんて選べない。土台はどこまでも盤石だと。
今だから首を傾げられる。何に対する反骨心だったのかと。
もしかしたら、いずれは袋小路に至る理論だと感づいていたのか。突破口を開こうともがいていたのか。
現実に打ちのめされると悟ってなお抗ったのだろうか。
仕事で失敗したら再就職すればいい。失恋したら次の出会いを探せばいい。では人生をやり直すには?
再チャレンジなんてできない。今から軌道修正も難しい。
このままタイムアップを待つだけの、空しくて虚しい余生。世の終わりを見届けることもない、ただの闇。

それなのに、期待は重くて。敷かれたレールの上を順調に滑る一両であると、誰も信じて疑おうとしない。
この暗澹たる心の奥底を見せれば一目散だろうに。一目瞭然だろうに。とかく世渡りとは煩わしいもので。
予定なんてない、と言ってしまう。事実ないのだから、と。0.5人は1人としてカウントしていいのか否か。
何も考えていないわけじゃない。けれど、形ある何かを想起するに至らないからいつまでもぼやけたままで。
だって線引きなんかできないだろう? 今思い描いている、どこまでが人生設計でどこからが妄想だなんて。
真剣な顔をして行く末に思いを馳せたところで、行き着く先はご都合主義だらけのお花畑みたいな場所で。
叶うとしたら、それは交わることのない平行線が交わるような世界が構築されたとして、ではないのか。
人に話しても笑われるだけ。だからノープラン、ということにしている。それが最たる秘匿なのだろうが。

もう死神はいないのに。怯える必要なんかないのに。後は本人の幸せだけを追い求めればいい状況なのに。
忘れちゃったのかな。ずっと我慢(笑)してきたから。
つくづく思い知る。人はひとりでいちゃいけない。自分しかいないと、やがてその自分もわからなくなる。
人とふれあうことで初めて自分の存在を意識できる。
意見が合ったり、違うところがあったり、時にはぶつかったり。それによって形づくられるものなのだと。
出会ってきた人たちのおかげで生きていられるのだと。
そうでなくても、ひとりでいると自分だけが孤立したような、誰からも必要とされていないように思えて。
両手を広げて雨空に叫ぶ。「助けて」は恥じゃない。

案外、そういうふうにできているのかもしれない。己に行き詰まったとき、他人や次の世代に思いを託す。

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