[なぞ] 2010/02/28

憧れを抱いた時点で、ぼくの魂は抜かれていたんだと思う。

最初は理解できなかった。なぜ顔を見るなり笑われたのか。そして目線を遮るように隠れたのか。
選ばれたチルドレンじゃないから、なんて地図に指を走らせながら見当違いの見当をつけたり。
叱る、べきなのだろう。自分の立場として。役割として。また、責任として。大人が子どもを。
無邪気であることとは、残酷さを知らないということ。素直な本心が、常に美しいとは限らない。
あるいは、試されているのだろうか。そこで辣腕を振るえない、正真正銘の小心者であることを。
ああ、そうか。嘗められている。見くびられている。見透かされている。ぼくを、見下している。
そこで気づくんだ。思い違いをしていた。自身の人格やキャリアを、不当に肯定していたと。
やっと理解した。理由なんてないんだってこと。人から指を差されて笑われて当然なんだって。

ツノやらキバやらツメやら、あるいは虚栄心を隠して、それこそ草食動物として振る舞っていた。
自分より人生経験の豊かな人や、自分より秀でた技能を有する人にばかり、惹かれていった。
そういう人たちに囲まれ、自分の無能さや未熟さをあえてひけらかすことが、心地よかった。
動機は単純だった。誰かに甘えていたいだけだった。甘やかしてくれる環境が、欲しかった。
「子どもでいさせてくれる」場所に、居心地のよさを感じていた。
当然の感覚だ。どんな若僧だろうと初心者だろうと許されるのだから。責められないのだから。
ぬるま湯に入り浸るうち、もう大人にも子どもにもなれないツギハギだらけの自分が出来ていた。
泣き言や言い訳だらけの人生。そんな時間を過ごし続けてきた自分に、本気で嫌気がさした。

急がば回れ、と言うが、休めとは言われていない。実際、遠回りをしているのかもしれない。
どうして人の真似をすることばかり考えるのだろう。自分の生きる道を、幸せを、探しもせずに。
どうせ格好よくなんて生きられないのに。中途半端に振り分けられたスキルポイントみたいに。
そんなとき、気づいた。道に迷ったぼくを救ってくれたのは、いつも誰かからの言葉だったこと。
数の大小じゃない。たった一言で、たった一人でいい。一番大事なもの。忘れてはならないもの。
受験戦争、多数決、業績、査定。数字で争いあう場面に、とっくに疲れきっていた。もう十分。
勝ち残らなければいけない世界なんて、早々に退場しよう。負け続けたって、誇らしく生きられる。
それは、あの言葉があったからなんだ。これからは、言葉をくれた人たちに報いなきゃいけない。

失意と絶望の中でこそ、ぼくはやっと己に向き合える。

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