それを口にしたら…戦争だろうがっ…!

2015/05/18

何様

牧場でヒツジにタックルされるとかご褒美だろ…。ごきげんよう。

ことしは終戦70年ということですが。
子どもの頃から戦争反対とか平和は大切とか耳にたこができるほど聞かされてきた
一方で、どうしたらそれを実現できるのかはこれまで教わったことがありません。
戦時中の苦しい生活とか空襲とかはだしのゲンとか、それはわかったと。
じゃあ結局何をしたらいいの、となると当時の大人は答えませんでした。
自分で考えなさいってことなんでしょうが、実は自分たちも答えを知らないのでは?
…おそらくですが、自分の親世代も戦争を体験してないから上の世代から言われた
話を伝言ゲームしてただけなんじゃないかと。
それで教育という大人の役割を果たしたつもりなんですから無責任なものです。

って別にそれを非難するのが趣旨ではなくて、原因を考えるに、戦争というのは
国と国の間で起きるものだから個人がどうこうできるものではないという先入観が
あったのではないでしょうか。
当事者意識がないままに悲惨な記憶だけが語り継がれるものだから一人歩きして、
もっと議論しあわないといけない問題が宙に浮いた状態になったのだと思います。
だから責任を誰かに押しつけるような被害者ぶった口調だったり、戦争はだめだと
言いながらどこか他人事っぽかったりしたのかなと。

しかしそれは太平洋戦争のときの話。現在は状況が変わっています。
国家という単位によらない民族間対立や宗教対立、テロ組織が「国」を名乗って
勢力を拡大したり、民衆がSNSで集結してデモを起こすなど多様化の一途です。
戦争が個人にとってむしろ身近になりつつさえあります。
それは同時に、平和のために個人個人の行動がより重要になってきていることを
意味しています。

そのためにぼくが考えた結論は「個人レベルの戦争を起こさない」です。



戦争とか平和を考える際に、上で問題提起した当事者意識の欠如、他人事のような
空論を改め、自分の問題としてとらえることがまず大切です。
そうしたときに個人に何ができるか。自己中にならず他者を尊重するくらいかなと。
人を見下さない、ばかにしない、考えの違いを認める、人のものを欲しがらない。
それをみんなができればおのずと争いは消えていくのでは…と夢のような話ですが。

先人たちが目をそらしてきた戦時中の振り返りを行うとすれば、当時も戦争反対の
人はいたと思います。けれどそれを口にすることを許さない雰囲気があった。
寄ってたかって非国民だとそしり、嫌がらせをして、同調することを強要しました。
この閉鎖的で排他的な、“日本的な”集団意識こそが平和を望む声を封じたのです。
70年たった今の日本はどうですか。
いじめ、仲間外れ、偏見、無理解、ハラスメント、弱者やマイノリティーの排斥。
…何も変わっていません。日本には差別は存在しないなんて大嘘です。

集団に溶け込めない子どもたちが不登校や引きこもりになっていますが、彼らが
問題児なのではなくむしろ集団のほうに問題があるのではという見方は出てこない
ものなのでしょうか。
クラスメイトをからかって笑いものにして不登校に追いやった加害者たちが平然と
学校に居座り続け、やがて社会に出ていく。この流れを断ち切らないといけません。
また、10年前にも当時運営していたサイトで書きましたが、JR西日本の脱線事故、
あの原因の半分は利用客にあると思っています。
電車が少し遅れるとすぐ文句言うのに、駆け込み乗車など自分たちで遅らせている。
そういう乗客の態度が駅員や運転士にプレッシャーを与えた側面はあるはずです。
それなのにいまだに槍玉に挙げられるのはJRばかり。自分たちの行いを棚に上げて
いるという点は昔から変わっていないと感じざるをえません。
これらは一例ですが、何かのきっかけでもっと大きなことが起きないとも限らない
危うさが日本社会にはあると感じます。

憲法何条とか何々政権とか、そんなスケールの大きい話が自分たちの生活に直接の
影響を与えるとはとても思えません。
それよりも自分の身の回りに危険やいさかいがなく、心穏やかに暮らせることの
ほうがよっぽど平和を実感できると思うのですが。
何かのせいにするのではなく、たとえば身近な人との接し方に問題はないかなど
自分の足元から見つめ直す、身の回りのことから考えていける人間でありたいです。

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