[やどりぎ] 映画

 気持ちよく晴れた日曜日。普段よりも早いくらいに目が覚めた私は、朝の運動とばかりに庭に出て木によじ登った。幼いとき何度も練習して目指した大きな枝には、今はサンダル履きでもらくらくたどり着ける。枝に片足をひっかけて、柵なんかを乗り越える要領で体を持ち上げた。いつもの定位置に座る。でこぼこした枝の表皮がおしりに当たる感触がくすぐったい。
 さわさわさわ。四方を取り囲む葉が、風に揺れていっせいに鳴りだした。まるで、木が私におはようの挨拶をしているようだ。私もおはようと応えて、幹を手でさすったり軽く叩いてみた。こうすると喜んでくれるかな、って思いながら。
 この木と本当に心が通じあっているのか、実際のところはわからない。樹木と話ができるなんて話、誰も耳を貸さないから。けれど、植物に音楽を聴かせると育ちがよくなるという話もあるし、まったく考えられないことではない。
 だから、なるべく声に出して木に話しかけるようにしている。
「天気になってよかった。絶好のお出かけ日よりで」
 枝のすき間から澄みわたった空が見える。眼下に広がる町も、朝の太陽を浴びて少しずつ活動を始める。地球が目覚める。そんな躍動感を思わせる景色に、気持ちがはやる。
 ひとしきり木とのふれあいの時間を堪能した後、家に戻った。台所からおいしそうな匂いが漂ってくる。お父さんが朝食を作り終えて待っていた。
「おはよう志恵。日曜なのにずいぶん早起きだね」
「それを言うならお父さんだって」
 するとお父さんは、私が起きる物音で目が覚めた、なんて言う。それじゃまるで、私がお父さんの睡眠を妨げてしまったみたいだ。お父さんはまるで気にしている様子はなく、ニコニコした笑顔で私のご飯をよそっている。
「まだ時間は大丈夫でしょう? ゆっくり寝ていればいいのに」
 はい、と茶碗を差し出すお父さん。つやつやのご飯粒から湯気が立っている。
「そうなんだけど……」
 茶碗を受け取りながら苦笑した。今日のお出かけが楽しみで朝から気分が盛り上がり、すっかり目が冴えたなんて恥ずかしくてとても言えない。
 さらに白状するなら、珍しいことにゆうべもすぐには寝つけなかった。
「本当にお弁当は持っていかなくていいの?」
 昨日から何度も同じ質問を耳にしている。私は焼き魚をほぐすのに手元が一生懸命だったので、いらないよ、とだけ答えた。納豆を混ぜながら少し残念そうな顔のお父さん。
 私が休みの日に友だちと出かけると聞いて、お父さんはお弁当を作るつもりで張りきっていたらしい。だけど、お昼は外食をする約束になったから断ったのだ。それに、学校のある日もお父さんは毎朝早く私のお弁当を作ってくれる。今日はぜひともお休みしてもらわないと。
「ねえ、お母さんまだ下りてこないかな」
「どうだろうね。僕が起きるときも死んだように眠っていたから」
 あのまま目が覚めなければいいのにね。お父さんが笑顔で不吉なことを言い出すものだから、一瞬どきりとした。起きたらまた仕事に追われる生活が待っている。きっと、お母さんのそんな身の上を案じて言ったのだろう。それならうなずける。
 今朝にしようと思っていたけれど、お母さんにお礼を言うのはまた今度がよさそうだ。たまの休暇に心おきなく休ませてあげることが、一番のお返しになるだろう。ということは、今日は私が外出したら夫婦水入らずか。なんだか親孝行した気分。

 一週間くらい前、お母さんが仕事の関係で映画鑑賞券をもらったと言って、私にくれた。市街地の映画館でも使えるから観に行っていらっしゃいと。
 映画を観に行く。これまで映画館に行ったことがなかった私には、とても新鮮な響きだった。もちろん一も二もなく受け取った。上映中の作品を調べたりして、高まる期待に胸を躍らせた。
 しかし、初めての映画を一人きりで行くのは、わからないことも多く心細い。チケットは二枚あるから、お父さんかお母さんに付き添ってもらおうと考えた。けれど、券面を見ると、二枚とも「中学・高校」と印字されている。保護者同伴という線は消えた。友だちと行ってきなさい、ということか。
 そこから推理するに、お母さんにこの券をくれた人は、お母さんに中学生か高校生の子がいることを知っていたことになる。そうでなければ、大人に対して中高生用のチケットを渡すとは考えられない。お母さんは、仕事先で私や家庭のことをどんなふうに話しているのかな。少し気になったりもした。
 学校で同伴者を、私の場合どちらかと言えば引率者だけれど、とにかく探すことにした。
 初めに風を誘ったところ、風もあまり映画館に行った経験がないようで、力添えできないと断られてしまった。話をしたとき、風はどこか表情を曇らせていた。市街地に出かけることか、映画鑑賞か、よくわからないけれど何かを渋っている様子だったので、それ以上その話はしないでおいた。
 香織は「正樹と一緒に行ったら」と冷やかすばかり。あのにやついた表情は、絶対に私をからかっている。香織にのせられたわけではないけれど、正樹ちゃんにも声をかけようとした。ところが、正樹ちゃんは放課後いつも忙しそうにしていてなかなか捕まらない。
 そこへ名乗りをあげてくれたのは朱ちゃんだった。
「文化会館の裏の映画館でしょ? 私わかるからついて行ってあげる」
 聞くと、小さい頃から家族でよく街に出かけたり、映画も観に行っているそうだ。それならよろしくお願いします、と大仰に頭を下げて、券を一枚渡した。
 次の日曜日に、駅前へはバスで行って、昼ご飯は適当なお店で。さすが遊び慣れているのか、朱ちゃんは映画に行く日のスケジュールをてきぱきと決めた。これなら当日も頼りになりそうだ。

 小学校の近くにあるバス停留所。その前で待つ二つの人影の片方が、徒歩でやって来た私に気づいて大きく手を振った。朱ちゃんだ。おはよー、と声をかけて手を振り返す。朱ちゃんの横に、寄り添うようにもう一人女の子が立っている。誰かと思って近づいてみると――。
「わあ、愛ちゃん。お久しぶり」
「遅いぞしいちゃん! この炎天下をいったい何分待たせるんだ」
 威勢よく私にからんでくる少女の頭上に、朱ちゃんのげんこつが落ちた。
「つっ! いったあ……」
「口の利き方も知らない子で、ごめんなさいね。ほほほ」
 口元に手を添えて、お上品に笑ってみせる朱ちゃん。丁寧な態度がわざとらしすぎる。私はううんと首を振った。愛ちゃんのことはよく知っているし、がさつな喋り方もすっかり耳なじみだから、今さら気にしたりはしない。それよりも、しばらくぶりに会えた喜びが勝る。
 肝心の愛ちゃんはというと、朱ちゃんに頭をぶたれて涙目だけれど。
「それよりもごめん。いきなりついて来ちゃって」
 普通の口調に戻して、朱ちゃんは再び詫びた。愛ちゃんの口の悪さのことではなく、二人で行く予定だった映画におまけがくっついてきたことを言っているらしい。
「いいよいいよ、愛ちゃんなら大歓迎。だけどどうしよう、映画の券がない」
「それは私が出すから。子供料金だし、志恵は気にしないで」
「そう? わかった。よかったね愛ちゃん、朱ちゃん親切で」
「冗談きついよしいちゃん。こいつ家じゃ凶暴なゴリラだぞ」
「愛果……もういっぺん言ってごらん? たんこぶ二つにしてあげようか?」
 ぎゅっと固めた握りこぶしをかざして、朱ちゃんが愛ちゃんに詰め寄る。口元は緩いのに視線だけは刺すように鋭い。すごまれた愛ちゃんはうろたえて、姉ちゃんごめんなさいと言い繕っていた。
 おそらく朱ちゃんは、愛ちゃんに口を割らせまいと脅しをかけたのだろう。しかし残念ながら、今のやりとりで妹に対する力関係がまるわかりである。でも、家では態度が大きくなるってよくあることだから、別段隠すこともないのに。
 二人の掛けあいを見ていると、きょうだいっていいなと思えてくる。本当に仲がいいから、悪口やきついことも遠慮せずに言いっこできるんだろうな。
 愛ちゃんを大人しくさせた朱ちゃんは、バスの時刻を確認している。停留所の時刻表と、自分の腕時計を見比べて、もうじき来るかなってつぶやいた。……腕時計。私は朱ちゃんの手元に目がいっていた。
 ピンク色のバンドが、半袖からむき出しの右腕を飾っている。文字盤のガラスが鏡のように光を反射する。手首を返して時計を見やる仕草も可愛らしく、さまになっている。服装も、襟元を大きく開けたシャツに、よく目立つ短いスカート。とても大人っぽい。食い入るように見つめる私の視線に、朱ちゃんが振り返った。
 どうかした? 小首を傾げられて、私ははっとなった。同性の友だちに見とれていたなんて、なんという恥ずかしいことを。何か言わなくちゃと慌てた。
「ええと、その。時計、してるんだなって、思って」
 私のたどたどしい答えを聞いても、なお疑問符を浮かべたままの朱ちゃん。腕時計がそんなに珍しいの、と言いたそうな顔だ。朱ちゃんの目線の先が、私の手元あたりに下りて、また上がってきた。手首に時計がないことを確認して、いぶかしげな表情が緩んだのがわかった。
 実際、私は腕時計を持っていなかった。学校では必要ないし、習い事や塾にも通っていないから時間を気にして行動する機会もない。なるほど、今日のような日のために持っていた方がよさそうだ。
 必要性ばかりではない。学校でいつも会う朱ちゃんが、腕時計や私服でこんなに印象が変わって見えるなんて。私が並んで歩くのは釣りあわないくらい。身だしなみやアクセサリーのこと、もっと気を遣わないといけないのかな。
「バスが来たよ」
 朱ちゃんの言葉のとおり、一台のバスが向かってくるのが目に入った。市街地までの行き先がおでこに書かれている。あれに乗って街に行くんだ。そう思うとにわかに胸が高鳴った。
「今日はわりと空いてるね。休日はいつも混むのに」
 先に愛ちゃんを乗り込ませ、続いてステップを上る朱ちゃんが、背中ごしに私に言ってきた。そうだね、ととりあえず相づちを打ったけれど、路線バスにも今まで数えるほどしか乗ったことないから、実際のところどうなのかはわからない。
 乗車口で取った整理券を、なくさないように財布の中にしまう。最後尾の座席に三人並んで腰かけると、バスはクラクションを鳴らして走りだした。

 

 朱ちゃん、愛ちゃん、しいちゃん。私たちはおたがいをそう呼びあって、いつも一緒に遊んでいた。
 朱ちゃんは授業中はおとなしいけれど、私以上に外で遊ぶのが大好き。二歳離れた妹の愛ちゃんも負けん気が強くて、朱ちゃんに後れを取るまいとついて歩いていた。そして、自然の生き物や草木に興味がある私。三人で校舎の裏山に登ったり、町内のあちこちを探検して回った。
 使われなくなった農機具が積まれた空き地。そこが私たちの基地だった。
「姉ちゃん、車が来たよ!」
「わかった。しいちゃんはそこ隠れて」
「うん、了解。愛ちゃんも急いで!」
 木材の陰にさっと身を隠す。狭いスペースに三人が押し重なって。軽トラックが走り過ぎるのを息を潜めて待った。おたがいの呼吸や心臓の音が聞こえて、それがいっそう緊張感を高めた。エンジン音が遠ざかると、誰からともなく笑い声がもれて、しばらくみんなしてけらけら笑っていた。
「あーびっくりした。今のもスリル満点だったね」
「でもどうして隠れるのさ。戦わなきゃ明日はないぜ」
「だめだめ愛果。相手は大人なんだから敵いっこないって」
「朱ちゃんの言うとおりだよ。むだな争いはしたらいけないよ」
「ちぇーっ。朱実はいくじがないなあ……いてっ!」
「また呼び捨てにしたわね! 今日という今日は許さないから」
 逃げる愛ちゃんを朱ちゃんが追いかける。同じところをぐるぐる回っている様子がおかしくて、私は目に涙をためて笑った。そんな何でもないことが、面白くて面白くてしょうがなかった。
 他の子と遊んだり、家でお絵描きするのも楽しかったけれど、朱ちゃん愛ちゃんと一緒の時間は特別に輝いていた気がする。女子らしからぬ遊び、みんなに内緒の基地、町の片隅で出会う発見。同じ秘密を分かちあっているという連帯感が、私たちを強い絆で結んでいた。
 それが途切れる日が来るなんて想像もしていなかった。

 長梅雨の明けた、夏休み直前の暑い日。水田が広がる一帯を探検していた私たちは、水の上をすいすい走るアメンボを捕まえようと計画した。
 どうしてアメンボは水に浮くのか。たしか、そんな話になったと思う。知恵を絞りあう三人。足に油がついているから。どうして油がついていると浮くのか。水と油は混ざらないから。本当に? お味噌汁の表面に油が浮いていることあるよ。年少の愛ちゃんがものすごく納得していた。
 知りたい盛りの私たちの疑問が、そこですべて解決されるわけがない。本当に油がついているのか、確かめてみたくなるのが子供心というもの。しかし、今日は虫とり網を持ってきていない。
 素手で捕まえるなんて無理としり込みする朱ちゃんと、あたしが捕まえるんだと意気揚々の愛ちゃん。好奇心が勝ってあきらめきれない私が愛ちゃんの側について、これで二対一。
「アメンボ取っても姉ちゃんには見せてやらないもんね」
「そんなこと言って、田んぼに落ちても知らないから」
「私が落ちないように押さえてるから、大丈夫だよ」
 水田の端から愛ちゃんが身を乗り出して手を伸ばし、反対の手を私が握って引っぱるという体勢。アメンボが近くに寄ってくるのをじっと待った。朱ちゃんは不満そうに後方で見守っている。
 スーッ。一匹のアメンボがこちらにやって来た。愛ちゃんが思いきり腕を伸ばした。愛ちゃんの体が投げ出されないように、私も両足で力いっぱい踏んばる。よし、これなら支えていられる。もう少しで手が届く、というところで、アメンボは直角に進路を転換した。
「あ、待てっ!」
 愛ちゃんの小さな叫び声。急に向きを変えて手元から逸れていくアメンボに、なおも飛びついた。それまで引っぱっていた方向とは異なる方向に愛ちゃんの体が倒れたので、私は愛ちゃんを持ち上げきれなくなってバランスを崩した。足がよろける。このままでは二人とも落ちてしまう。
「きゃっ……」
 すんでのところで手を離し、私は何とかバランスを持ち直した。しかしその結果、……バシャーン。水しぶきが上がった先を見ると、愛ちゃんが四つんばいの姿勢で田んぼに手足をつっこんでいた。大変! すぐさま引っぱり上げる。
「愛ちゃん平気? どこかけがしなかった?」
「へへ、やっちまったぜ」
 愛ちゃんの顔を見ると、泣いたりはしていなくて、失態を見せたことへの苦笑いを浮かべているだけ。顔にかかった泥水も気に留めていない。本当に芯の強い子だ。愛ちゃんはどこも痛くしていないと言い、探しても外傷は見当たらなかった。
 田んぼの泥は軟らかいし水も張っているから、子供が落ちたところで大きなけがをするようなものではないことはわかっていたけれど。
 ほっと胸をなで下ろした私の背後に、何やら殺気だったものを感じる。振り返ると、朱ちゃんが険しい目つきをして私たちを見下ろしていた。
「ばか! だから言ったじゃないの!」
 愛ちゃんに雷が落ちる。朱ちゃんは愛ちゃんの腕をぐいっと引いて用水路の脇に連れて行き、流れる水を手足や服にかけ始めた。
「ぬれるけど我慢しなさいね。自業自得なんだから」
 片手をくぼませて水をすくい、泥の上にかけてもう片手で洗い流す。手や膝はすぐきれいになったけれど、シャツの裾や半ズボン、それにズックにまとわりついた粘土質の泥はなかなか落ちない。
 むすっとした顔で黙々と愛ちゃんを洗う朱ちゃん。愛ちゃんは、田んぼに落ちたときにはけろっとしていたのに、朱ちゃんのただならぬ雰囲気に威圧されてぐずり始めた。
 その様子をしばらく呆気に取られて見ていた私だったが、洗うのを手伝わなくちゃいけないと思い立ち、愛ちゃんに近寄って手を伸ばした。
 パチン――。私の手の甲を、朱ちゃんがはたいた。
「しいちゃんも悪いんだよ!」
 大きな怒鳴り声に、びくんと体がすくみ上がる。怖い。直感的にそう思った。普段、愛ちゃんに怒るときの、温かみや優しさを含んだ大声とはまるで違う。暴れ出すような感情をむき出しにした、ただ恐ろしくて冷たい声だった。
「なんで手を離したの。自分だけ落ちたくなかった? だいたい上級生なら、私と一緒に愛果のこと止めなさいよ!」
 怒りの矛先を私に向けて、ものすごい剣幕でまくし立てる。私はひたすら頭を下げた。朱ちゃんごめんね、愛ちゃんごめんね。ぺこぺこと何度も繰り返す。朱ちゃんの言うことは正論だし、自分が悪いと言われればとにかく謝るほかない。それなのに朱ちゃんは、
「ごめんで済んだら警察はいらないの!」
などとわめき散らす。謝らなければ怒るし謝っても怒るし、いったいに私にどうしろと言うのだろう。何がどうなっているのか、なぜこんなことになったのか、だんだん頭の中があやふやになってきた。
「もうやめてよ姉ちゃん。しいちゃんのせいじゃ……」
「うるさいっ!!」
 のどかな水田地帯が震撼した。私をかばおうとした愛ちゃんの言葉を、これ以上ないほどの怒号が掻き消したのだ。声を上げて泣き出す愛ちゃん。私の目にも涙が浮かんだ。私のせいで愛ちゃんが泣かされてしまった、そう思ったから。
 ふつふつと、朱ちゃんへの疑念が湧き上がる。愛ちゃんはけがをしなかったし、全身についた泥もある程度落とした。私の行動に落ち度があったかもしれないけれど、それだけでどうしてここまで責め立てるのか。何にこんなに腹を立てているのか。
 そんな私の疑問に、朱ちゃんは嫌味たっぷりに答えてくれた。
「お洋服こんなにして、もう着られなくなったらどうするの! 汚いのが全然取れないじゃない! お洋服がだめになったらしいちゃんの……志恵のせいだからね!」
 それきり口を開くことなく、朱ちゃんは愛ちゃんを引きずって家に帰った。途中、愛ちゃんが何度も私の名前を呼んだけれど、私は顔を上げられなかった。愛ちゃんのけがより服のほうが大事なことなの? 朱ちゃんの考えていることがわからなくて、その場に立ち尽くしてぽろぽろと涙をこぼすばかりだった。

 幸運にも、朱ちゃんとはその後仲直りすることができた。夏休みが十分な冷却期間になったようだ。けれど、朱ちゃんは私のことをあだ名で呼ばなくなり、私にも朱ちゃんが「お洋服」にこだわった理由がわからずじまい。三人で外で遊んだのもその日が最後となった。
 おたがいの心に小さなしこりを残したまま、今日まで来ている。

 

「さっきからため息ばっかり」
 顔を上げると、朱ちゃんが両手を腰にあてたポーズで立っている。ベンチで頬杖をついてぼーっとしていたから、すぐ横に立つ朱ちゃんの気配にも気がついていなかった。
 私たちは文化会館にいた。会館前の広場は公園のようになっていて、芝生や庭木が植えられている。憩いのひとときを楽しんでいる親子連れの姿が見える。愛ちゃんはというと、中央の噴水のそばで遊んでいた。
「まだしゃっきりしない? 飲み物買ってこようか」
「ううん……」
 朱ちゃんの親切な申し出を、首を振って断る。映画が終わった後の放心状態からはすでに回復していると思う。暑さにやられたのでも歩き疲れたのでもない。
 だけれど、何でもないから大丈夫、と言ってスマイルを作れるほどの元気もなかった。周りに余裕を見せられるだけの、心のゆとりが欠如している。
「映画館初体験だったものね。志恵の口には合わなかった?」
「そんなことないよ。面白かった」
 いい映画だった。それは本心から言える。
 三人組の少年が力を合わせて、次々と起こる不思議な事件に立ち向かう軽快なストーリー。原作の児童文学は読んだことないけれど、不慣れな映画館で観た私にもとてもわかりやすく、そして気持ちがすっきり晴れるような作品だった。
 ……晴れていないよ、今。自分で自分の揚げ足を取る。
 上映中、昔のことを思い出していた。三人の少年と私たちの姿がだぶったせいだろうか。あの無邪気な時間は戻ってこない。そんなことも、気重の原因のひとつ。
 それに、口に合わなかったのは映画よりもむしろ――。
「もしかして、ファーストフードも初めてだったとか」
 朱ちゃんが質問した言葉の意味がわからなくて、目をぱちくりさせる。
 聞けば、私が「ハンバーガー屋さん」だと思っていた、映画の後に三人で昼食を取ったあのお店は、一般的にファーストフード店と呼ばれているとのこと。呼び名すら知らなかった私が、当然過去に利用した経験などない。
 そうだった。あのメニューには参った。勝手がわからないので、見よう見真似で朱ちゃんと同じものを注文したのだけれど。ハンバーガーと、スティック状のフライドポテトと、飲み物のセット。その飲み物とは、なんとコーラ。
「自分の好きなドリンクを選べるのに」
 と朱ちゃんが後から教えてくれたけれど、レジの前でわたわたしていた私がそんなことに気がつく余裕なんてとてもなかった。
 どうしよう。パンを食べるのに炭酸飲料が合うとはどうしても思えない。けれど、朱ちゃんも愛ちゃんも何食わぬ顔しておいしそうにコーラとメロンソーダをすすっている。このお店ではこれが普通なのだろうか。
 飲み物なしでハンバーガーを食べ続けるのも限界にきていた。意を決してストローに口をつける。案の定、口の中が酸っぱくて変な味になった。
 ファーストフードは、もとは外国から入ってきたという。異なる国の食文化が受け入れられて、私の目の前にある。不意に、今朝食べた白米や納豆や焼き魚の味が恋しくなった。
 と、昼ご飯もこんな調子だった。初めてのこと、新しいことずくめの一日に振り回されている。目新しさに圧倒されてばかりいるのは、こういう遊びや食事を当たり前だと思っている朱ちゃんたちに失礼かもしれない。でも、慣れないことは想像以上に気疲れが蓄積されるようで、思うように体がついて来てくれない。
 挙げ句に、昼食後は駅のビルで買い物しようと朱ちゃんが持ちかけてきた。その提案を私が突っぱねたので、今とりあえずこの広場に来ているのだけれど。
 私には差し当たって何かを買う用はなかったし、それに何より、これ以上朱ちゃんたちと自分の文化レベルの違いを思い知らされるのはご免だった。
 そうでなくても、見違えるような朱ちゃんのファッションには朝から戸惑っているのに……。
 あらためて観察。例のピンクの腕時計と、手にはハート型のポーチ。ギザギザのひだがついたスカートに、膝まで覆うソックス。つやのある長い髪を、べっ甲のバレッタで留めている。私の服装や持ち物とは比較する対象にもならない。可愛いうえに上品な格好、それもかなり着慣れた様子。もう、女の子というよりお嬢様と呼ぶにふさわしい。
 同じ制服を身にまといアクセサリーも身につけていない、学校での朱ちゃんは、私とどこも変わらない同い年の少女にしか見えなかった。それがどうだろう。身近な友だちとの歴然たる差を見せつけられて、私の心はへし折れそうだった。
 眠くもないのに、まぶたが重くなってきた。

 うつむいていた私の頬に、冷たい感触が当たった。
「ひゃっ」
「どうだ? 元気出たか?」
 愛ちゃんの手だった。水遊びをしてきた両手の、ひんやりした気持ちよさと指先のくすぐったさが、なかば我を失っていた私に笑顔を呼び戻させた。
 やっと生き返った。そう言って、朱ちゃんが私の隣にすとんと腰を下ろした。
「何を悩んでいるのかわからないけど、できれば楽しいときは楽しい顔してほしいな」
 その言葉にはっと気づかされた。そうだ、私は今まで何を考えていたんだろう。映画を観て楽しむために街に出てきたんじゃないか。
 私がずっとこんな調子で、心配も迷惑もたくさんかけたのに。朱ちゃんは文句ひとつ言わず付き添ってくれて、今も母のような温かい微笑みを浮かべている。だから、私も精一杯笑い返した。
「そうだね。今日はありがとう朱ちゃん。ほんとに楽しかった」
「私も。楽しかったよ。だって、久しぶりに三人で遊べたからね」
 頬をかいて、ばつが悪そうに言う朱ちゃん。……ということは。一緒に遊んだ過去の記憶を、朱ちゃんも覚えていてくれたんだ。映画を観て思い出したのって聞いたら、小さな声で「うん」だって。愛ちゃんも親指を立てて笑っている。
 よかった。心から安堵した。私たちの思い出は途切れていなかった。
「今日の格好、とってもきれいだよ」
 ずっと抱えていた胸のつっかえが取れたので、率直な感想をやっと朱ちゃんに伝えることができた。もう自分と比較する気持ちや劣等感はない。私が突然顔を覗き込んでそんなことを言ったから、朱ちゃんは恥ずかしがって顔を赤くしている。
「やだ志恵ったら。どうりで時々じろじろ見てると思った」
「うん。私見とれちゃったもの。時計もかわいいし」
「ふふ、ありがとう。これみんな私のお気に入りなんだ」
 すっかり照れてはにかんでいるけれど、自ら気に入っていると言うファッションをほめられて、まんざらでもなさそうだ。上機嫌にベンチを立って、モデルさんみたいにくるっとターンしてみせた。スカートの裾がふわりと舞う。
「うちは洋服とか小物とか、よく買ってくれるから。どれも何回も着てるし大切にしてる。私の宝物」
 心から嬉しそうに語る朱ちゃん。その言葉に、過去のわだかまりを解くヒントが見えた。朱ちゃんは衣服や身につけるものをとても大事に扱っている。だから、愛ちゃんが服を汚したときあんなに怒ったのではないか。汚れたら洗濯すればよい、くらいに思っていた私とは考え方が違う。
 生まれ育った家庭が異なれば、物に対する見方や価値判断も異なるのに。最も基本的なことを何年間も見落としていた。家庭環境の差異なんて、私が人一倍気にしているはずだったのに。
「洋服たくさん持っているって、うらやましいな」
「あ、ごめん。なんだか自慢話みたいになっちゃって」
「そんなこと。こんなに素敵なんだから、もっと自慢していいよ」
 妬む気持ちではなく、純粋に朱ちゃんの姿に憧れていられる。おだてられて気をよくしている朱ちゃんのことを「今日は大目に見てやってくれ」と、愛ちゃんが私に耳打ちしてきた。まるで保護者のようなことを言う。
「どういうこと、愛ちゃん?」
「うちじゃこんなにはしゃげないからな。金持ちの家っていろいろ厳しいんだ」
「こらっ」
 愛ちゃんの話が耳に入ったのか、朱ちゃんがいさめた。そうだったんだ。小学校から一緒なのに、朱ちゃんの家庭のことを聞いたのは初めてだった。それはもちろん、朱ちゃん本人が口をつぐんできたからに他ならない。
 もしかしたら朱ちゃんも、私とは別の意味で、自分の家の特別な事情を気にしながら育ってきたのかもしれない。なんだか親しみの情が湧いてきた。
 確かに私たちは育ちも考え方も違う。けれど今日、その違いをきちんとわかりあえた。それぞれに抱えているものがあることを、認めることができた。だから、これからは今まで以上に仲よくやっていけるはず。
「きっと、もっと、ずっと!」
 僕たちは仲間だ――という、映画のラストの台詞に重ねて。私は朱ちゃんと愛ちゃんの手を取って、元気よくベンチから立ち上がった。

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