[やどりぎ] 床屋さん

 学校の帰り道。雨上がりの後の澄んだ空気がおいしく感じられる。路面にところどころできた水たまりに注意しながら、軽快に自転車を走らせる。
 昼間に強い通り雨があった。突風にあおられた大粒の雨が、校舎の窓を割らんばかりに叩いた。雨雲はすぐに流れていって、今はもう晴れ間が覗いている。
 家に着くと、庭じゅうに緑の葉っぱが散らばっていた。雨風で木から抜け落ちたのだろう。玄関に頭を突っこんで声を上げる。
「お父さーん、竹ぼうきどこー?」
 私の家には大きな竹ぼうきが一本ある。落ち葉をかき集めたりするのにとても便利。この木に魂が宿っていると信じている私は、足元をきれいにしてあげたら木も喜ぶんじゃないかと考えた。
 お父さんからの返事は返ってこなくて、代わりにお父さん自身が玄関に出迎えた。
「おかえり。ほうきは裏にあるけど、庭なら僕が後で掃くからいいよ」
「そんな。私にやらせて」
「志恵の仕事を取るつもりはないよ。だけど、まだ地面が濡れているでしょう。乾いてからの方が掃きやすいんだ」
 言われて庭を見渡すと、たしかに芝や雑草には水滴の玉が光っていた。家事の大ベテランのお父さんが言うのだから間違いではなさそうだ。
「じゃあ、先に正樹ちゃんのところ行ってくる。帰ってきたら私が掃除するから」
「ああ、今日だったね。それなら支度して行っておいで」
 お父さんに続いて家に入る。私の部屋に上がって制服を着替えて、またすぐ下りてきた。
「はいお金。お父さんとお母さんによろしくね」
「うん、わかってるって。それじゃ行ってきます」
 再び玄関から外に出た。見上げた大木は、葉がまばらになって幾分涼しそうに見えた。蒸し暑いこの季節、もさもさと生い茂った葉は見る側まで暑苦しく感じるから、これなら見た目にも優しい。ようし、私もこの木みたいにさっぱりしてこよう。
 さっきまで乗ってきた自転車にもう一度またがって家を後にする。小学校の通学路だったこの道を通ると懐かしさを覚える。今の中学校に通うのとは反対方向で、通る機会が少なくなったからよけいにそう感じるのかもしれない。
 そんなことを考えながら少し走ると、民家に囲まれた中に一軒だけ白壁の建物を見つける。赤と青の縞模様がぐるぐる渦を巻く看板。理容オワダ。私の行きつけの床屋さんだ。
 小学校の途中まで、私はお父さんに髪を切ってもらっていた。
 リビングに新聞紙を敷いて、もしくは天気のいい日は庭に出て。椅子に腰かけた私の後ろにお父さんが立って、ハサミ一本とくしだけで、本当の床屋さんかと思うくらい上手に切り揃えてくれる。髪型はいつも私に似合うショートカット。出来上がったら手鏡でチェック。少しだけ印象が変わった自分の顔を見て照れ笑いをする。
 私はそんな「お父さんの床屋さん」が大好きだったのに、学年が進むにつれてお父さんは私の髪を切ることを渋るようになった。僕の腕前ではもう可愛くしてあげられない、って言う。たしかに男子顔負けなくらいの短髪だけれど、とても気に入っていたのに。
 それでもお父さんは聞き入れてくれなくて、きちんと美容院に行って切ってもらうように言った。けれど、お父さんにしてもらうことにすっかり慣れていたから、今からよそへは行きづらい。知らないお店に入って知らない人に頭をいじられるのは、何となく抵抗があった。
 学校でクラスメイトに相談しても、みんな小さいときからちゃんと外のお店に行っているから、私がどうしてためらっているのか理解できないようだった。それで困っていたら、それならうちに来いよ、と声をかけてくれたのが正樹ちゃんだった。
 正樹ちゃんの家は床屋さんで、お父さんとお母さんが二人でお店をやっている。友だちの家ということなら抵抗も薄いし、何より正樹ちゃんのご両親とも以前から面識があった。それなら大丈夫かな、と思って通うようになったのが始まりだ。

 カランコロン。お店のドアを開けるとカウベルの音が聞こえる。けれど、ドアに取りつけてあるのは本物のベルではなくて、人の出入りに反応して音を鳴らすセンサーなんだって。
 中に入ると、男の人が初老のおじいさんの頭に蒸しタオルをあてていた。私が入ってきたのに気づいて男の人が振り返る。人当たりのよい朗らかな表情で迎えた。
「やあいらっしゃい。そろそろ来ると思っていたよ」
 正樹ちゃんのお父さんだ。鼻の下に品格のあるひげを生やしていて、いかにもこんなお店の主人といった風貌。でも気さくで話しやすい人だ。
「はい。よろしくお願いします」
「うむ、そこにかけて待っといてくれ。母さーん、志恵ちゃんが来たよ」
 お父さんがお店の奥に向かって呼びかけた。床屋さんの奥に自宅の生活スペースがある。私は空いている座席に座った。据えつけの椅子は大人用だから、私にはひと回り大きい。洗面台はきれいに磨かれていて、正面の巨大な鏡には私が映っている。
「あらあらこんにちは。お待たせしました」
 少しして、自宅との出入り口から女の人が姿を現した。こちらは正樹ちゃんのお母さん。私がぺこりと会釈すると、子供のような屈託のない笑顔を返した。豊かな表情の丸顔には親しみを感じる。棚からカット用のマントを出して私にまとわせた。
 以前はお父さんがカットしてくれたこともあるけれど、最近はほとんどお母さん。どちらでも構わないのだけれど、一応私が女子だからという配慮かもしれない。
「あんなお嬢さんのお客さんも来るのかい」
「ええ。うちの子供の同級生でしてね」
 隣でそんな話をしている。一般的には、年頃の少女がこんな昔ながらの床屋さんに通いつめるものではないから。
「そうよねえ。志恵ちゃんは美容院とかには行かないの?」
 お母さんにもその会話が聞こえたらしく、私に尋ねてきた。わざわざ自分のお店の客を手放すようなことを言わなくてもいいと思うんだけれど、そこはやはり親切心というか、人のよさがにじみ出るところなのだろう。
「いいえ。短くしている方がいいですから。それに私、ここのお店が一番好き」
「まあ、嬉しいこと言ってくれること。お礼にうんと可愛くしてあげなくちゃ」
 ことさら上機嫌になって、私の髪に指をはわせてとかし始めた。慣れた手の感触だから別に嫌ではないけれど、これがもし知らない人の手だったら、やはり違和感を覚えてしまうかもしれない。
 それからハサミが入る。チョキチョキという小気味よい音に合わせて、切られた髪の毛がパラパラと落ちる。うなじや耳の後ろの生え際は、ハサミの先端を使ってちょっとずつ切り揃える。学校の女子には耳に髪がかかっていたり隠れている子も多いけれど、私はこうしてすっきり出しておきたい。
 正樹ちゃんのお母さんのカットはとても丁寧だ。私は毎回短くしてもらっているから、一度にばっさり切ってもいいのに、そうはせず慎重に少しずつ髪型を整えていく。そうしたカットやサービスの面でも、このお店は信頼できるし気に入っている。
「志恵ちゃん、正樹とは最近仲良くしてくれてるかしら」
 突然、正樹ちゃんのお母さんがつぶやくように言った。ちょうど前髪を切っている最中で、私は髪の毛が入るといけないので目を閉じていた。
「いえ、それが。クラスが違うとあまり話す機会なくて」
 困った話題を振られた、と思った。無難な答えを返したけれど、内心焦って動揺していた。正樹ちゃんのお母さんに隠し事をしているみたいで、胸がちくちく痛む。
「それもそうよね。あの子、ちっとも学校のこと話さなくて」
 ちゃんとやっているのかしらね、とため息をもらす。正樹ちゃんを案じる気持ちが伝わってきた。真っ暗い視界の向こうに、お母さんの心配そうな顔が思い浮かぶ。
 それきり正樹ちゃんの話は出なかったけれど、すっかり会話が重くなってしまった。髪を切り終わってシャンプーしているときに、指使いがくすぐったくて変な声を出してしまい、それを聞いた正樹ちゃんのお母さんが高笑いした。それでようやく空気はなごんだのだけれど。
「はい、お疲れさん」
 後ろから両肩をぽんと叩かれた。乾かして髪型を整えて、新しい私の出来上がり。頭の後ろの方がスースーして、慣れないと落ち着かない。思わず笑みがこぼれた。
 ただ、途中の会話が最後まで私の心にひっかかったままだった。正樹ちゃんのこと、きちんと話すべきだろうか。そう言えばお父さんは、と思って店内を見渡すと、もう姿が見当たらなかった。仕事を終えて自宅に引き返したのかもしれない。
 結局お店を出るまで、何か言いかけてはやめて、なんて態度を繰り返した。お母さんはそんな私の様子に首をかしげていたけれど、最後は私に手を振って見送った。いつもと変わらない人懐っこい笑顔だった。

 

 保育所から一緒だった正樹ちゃんとはもともと仲がよかった。明るくさばさばした性格で、みんなに人気があった。とくに、背が高くてスポーツが得意、加えて端正な顔立ちだったから、いつも女子にもてはやされていた。
「私、正樹ちゃんの名前好きだな」
 いつだったか、そんな話をした。私は自宅の木がお気に入りだったこともあって、その名前にとても好感を持っていた。ところが正樹ちゃん本人は嫌いだときっぱり。格好いい名前だと思うのに、何が気に入らなかったのか。
 お父さんとお母さんがつけてくれた名前にけちをつけるなんて、私にしてみれば絶対に考えられないこと。それを正樹ちゃんは平然とやってしまう。自分の気持ちにとても正直で、思ったことをはっきり言える。少々荒っぽいと思うこともあるけれど、同時に大きな魅力も感じていた。
 ただの幼なじみと思うには、正樹ちゃんは格好よすぎた。いつしか私の憧れはふくらんでいった。
 やがて卒業式の日を迎えた。式が終わった後の教室でも、正樹ちゃんは大勢の女子に囲まれていた。同じ中学校に進むとは言え、私も最後に正樹ちゃんとおしゃべりしたかったのに。教室の隅から遠巻きに眺めながら、ため息をついた。
 ところがである。正樹ちゃんが人の波を押しのけかき分けて、ずんずんと私の席までやって来た。ちょうど正樹ちゃんのことを考えていた私はことさら驚き焦った。
「志恵ちゃんもこっち来いよ。みんなで話しようぜ」
 どうやら、私にも輪に入るようにわざわざ誘いに来てくれたようだ。よく気がつくなと思った。けれど私が望んでいたのは、そんな大人数で語らうことではなかった。
「そうしたいんだけど、ちょっと人が多いから……」
「だな。じゃあ放課後でいいか? 志恵ちゃんと二人で話がしたいから」
 ――耳を疑った。私が聞き返そうとするより先に、正樹ちゃんは人垣の中に戻っていった。二人で話がしたい。私と同じことを、正樹ちゃんも思ってくれていた。にわかに胸の鼓動が早くなった。
 二人きりの教室で、日が暮れるまで語り合った。どきどきしっぱなしだったから会話の内容も思い出せない。けれど、中学に上がっても正樹ちゃんと仲良しでいたい、正樹ちゃんをずっと見ていたい、という気持ちと決意を新たにすることができた。

 それなのに。あの日の悔しさは忘れることができない。
 入学して数日が過ぎた。私の趣味に関心を持ってくれた同級生がいて、その子に見せようと家で漫画を仕上げているところだ。新しい友だちになってくれたらいいなと思っている。
 ようやく校内の雰囲気にも慣れたので、他の教室の様子を見に行くことにした。別のクラスのみんなはどうしているかな。一番最初に、正樹ちゃんの顔が浮かんだ。
 教室を覗くと、見慣れた背の高い人影が目に飛びこんだ。制服姿の正樹ちゃんはぐんと大人っぽくなった印象だ。声をかけようと近寄ったとき、異変に気がついた。
 正樹ちゃんは数人の男子と一緒にいた。違う小学校の子だったけれど、みな一様に柄が悪い。入学したてなのに制服を着崩しているし、ポケットに手を入れたり机の上に足を乗せたり。正直な話、あまり関わりたくないタイプの人たちだ。そんな彼らに囲まれるようにして、正樹ちゃんはうつむきがちに席に座っていた。
「あの。正樹ちゃん、お久しぶり」
 話しかけづらい空気を察して、無意識のうちに体がこわばっていた。でも正樹ちゃんの様子が気にかかる。心の焦りを気づかれないよう、つとめて笑顔で振る舞った。正樹ちゃんは顔を上げて私を見た。まるで知らない他人に向けるかのような、まったく感情の入っていない冷たい目で。
「ああ……須里」
 目の前が一瞬真っ暗になるような感覚。私は表情を引きつらせた。返事はしたものの、正樹ちゃんの態度は明らかに私を避けていた。こんな自分を見てくれるなと全身で訴えるように、すぐに視線を逸らして身を縮めた。まるで人が変わったような正樹ちゃんを前にして、もはや何も考えられなかった。思考が現実に追いつかない。
 気まずい空気にみるみる飲まれていく。息もつまるほどの緊張に襲われ、急激にのどが渇いた。周りの少年たちは何も言わず、ニタニタと嫌らしい顔つきで私をなめるように見ていた。気味が悪くて背筋が震える。まるで生きた心地がしなかった。
 正樹ちゃん、何があったの。どうしてそんな子たちと一緒にいるの。どうして私によそよそしくするの。どうしてこんなに変わってしまったの。本当は大声で問い質したかったけれど、それを今ここで口にしたら、私と正樹ちゃんの間にある何かが壊れてしまうのではないかと思った。それくらい一触即発の雰囲気だった。
「顔、見に来ただけなんだ。それじゃね」
 最後の方は声が上擦った。どうにかそれだけ言葉を絞り出すと、逃げるように教室を飛び出した。耐えがたい緊張感から抜け出した途端、両足がすくんで廊下にへなへなと座りこんだ。ひざが震え、心臓はばくばく鳴っている。とうとうこらえきれずに涙がこぼれた。他の生徒が見ているというのに、私は泣いた。
 何よりもショックだったのは、正樹ちゃんが私を苗字で呼んだこと。小学校ではずっと志恵ちゃんだった。二人で話をした卒業式の日から、まだ数週間しかたっていないのに。なぜ呼び名を変えたのか。あまりにも冷酷で、ただ悔しかった。
 それ以来、正樹ちゃんがみるみる遠い存在になった。すれ違っても目も合わせないし、話もしたがらない。学校での態度や言葉遣いはすっかり乱れて、それまで短かった髪も伸ばし始めた。みんなの注目の的だったあの頃の面影はどこにもない。
 後から聞いたのだけれど、正樹ちゃんはあの男子たちに自分から接近して、そしてグループに加わったということだ。いじめを受けているのではないと知って安心する反面、寂しさも隠せなかった。正樹ちゃんは本人の意志でかつての自分を捨てたということだから。私がずっと憧れていた正樹ちゃんは、もういなくなってしまったのか。

 

 その日の夜。いつまでも家に入ろうとしない私を、お父さんが庭まで見に来た。私は木の根元にしゃがんで星空を見上げていた。髪を切ってさっぱりして、帰ってから庭の落ち葉もきれいに掃き集めたのに、心は一向に晴れなかった。
「――私、どうしたらいいのかな」
 正樹ちゃんの件をかいつまんで話した。お父さんは私のすぐ横に立って、じっと聞いていた。どうしたらいいか、なんてお父さんに答えを求めるべきものではないけれど、とにかくそう締めくくった。
「そうだったのか。小和田さんの床屋さんには通っているのに、正樹さんの話が全然出ないなって思っていたけど」
 お父さんの言う通り、中学に上がってから今まで正樹ちゃんの話をしたことはなかった。とても言えなかった、というのが正直なところ。お父さんも地面に腰を下ろした。私と話をするときは、いつも私と目線の高さを同じにしてくれる。
「志恵はどうしたいの」
「元の正樹ちゃんに戻ってほしいよ。でも、それって私のお節介じゃないかなって」
 私が悩んでいる理由はそれだった。正樹ちゃんが今の性格や友人関係を自ら望んだのだとしたら、他人である私が口を挟む権利はないと思ったから。自分の考え方や価値観だけで、今の正樹ちゃんは間違っているなんて決めつけることはできない。
「それなら、今の僕もお節介かな。志津には放っておけって言われたんだけど」
 お父さんは目を細めて、少し寂しそうに言った。お母さんは今夜は家にいるけれど、私が家に入らなくて夕飯を始められないから、先にお風呂に入ったそうだ。
 お父さんがお節介だなんて、もちろん思っていない。私を心配してくれたことも嬉しいし、今まで言えずにいた話を聞いてもらって、随分と気持ちが軽くなったから。
 間違いでも、出しゃばっているとしても、まず向き合って話をしなければ何も始まらない。お父さんは自分をたとえにして私に教えたのだと思う。今の私のように、正樹ちゃんも誰かが心に踏みこんできてくれるのを待っているかもしれない。
 そろそろご飯にしよう、と言い残して、お父さんは先に家に戻っていった。お父さんのことだから、私の正樹ちゃんへの思いもきっと見抜いているだろう。その上で背中を押してくれた。正樹ちゃんにお節介を焼く権利なんて、昔から親しかった私にだからあるんじゃないだろうか。

 明くる日の昼食後、私は教室棟の屋上にいた。昨日と同じく、今にも降り出しそうな空模様。他に生徒の姿はなかった。私にはその方が好都合だけれど。
 正樹ちゃんと待ち合わせて、ここで話をすることになっている。午前中の休み時間に正樹ちゃんの教室に行って、約束を取りつけてきた。相変わらず愛想のない態度だったけれど、こちらが決心を固めてきた分だけ、約束にはすんなり応じた。
 こっちも言いたいことがあるから。そんなことを正樹ちゃんは口にしていた。正樹ちゃんも私と話をしたがっている。少なくとも突っぱねようとしているのではないとわかって少し安心し、期待しながらこの昼休みを待った。
 もっと早くこうすればよかった、と今さらながら思う。入学してすぐ、正樹ちゃんの変わりように衝撃を受けたことを引きずって、それからきちんと話し合おうとしなかった。私こそ正樹ちゃんを避けてきたのかもしれない。
 ギイイイ、という、重い非常扉の音に振り返ると、正樹ちゃんが立っていた。
「正樹ちゃん。ちゃんと来てくれた……」
「おまえ、もううちの店に来るなよ」
 私の呼びかけを遮って、そう言い放った。予想だにしなかった一言に息を飲む。正樹ちゃんは私と打ち解けるために約束に応じたのではなかった。それどころか、私をさらに自分の領域から追い出すつもりだった。
 期待を裏切られて、胸をえぐられるような痛みを感じる。しかし私は引き下がらなかった。
「どうして? 正樹ちゃんには関係ないことでしょ」
 私があの床屋さんに行くことを、正樹ちゃんが拒むのは筋違いだ。正樹ちゃんの家だからという理由だけで通っているのではない。お父さんもお母さんも大らかでいい人だし、カットも丁寧にしてくれる。本当に好きで気に入っているから。
 けれど、私にはそれだけ言い返すのもひと苦労だった。人に意見したり反論したりするのは苦手だから、すぐ弱気になって自分を引っこめたくなる。でも負けられない。声が震えそうになるのを何度もこらえた。もう正樹ちゃんから逃げたくなかったから。
「それとも、私がお家の人と会うと何か困ることでもあるの」
 雨降り前を思わせる強い風が、私の短い髪をそよがせた。昨日私が床屋さんに行ったことを、お母さんたちが正樹ちゃんに話した。学校での様子など答えづらいことも聞かれた。それを正樹ちゃんは不愉快に思っている。何となく構図が読めてきた。
「うるさいな、別にそんなこと。だいたい須里は恥ずかしくないのかよ」
 図星を突かれたのか、正樹ちゃんはさらに反論してはこなかった。照れを隠すように髪をかき上げる。バサバサと乱雑に舞う長髪は荒れ野を思わせた。
「中学生にもなってちゃんづけで呼んだり、人の親と仲良く喋ったり。まったく」
 吐き捨てるように言った。私が前々からしていて、正樹ちゃんも当然知っていることを、なぜ今になって恥ずかしいなんて言うのだろう。
「ひょっとして、中学生はそういうことしちゃいけないって思ってるの? だから私のことも下の名前で呼んでくれなくなったの?」
 中学生になったら、それまでの対人関係や接し方をいっさい改めなければいけないのだろうか。友だちの呼び方まで? そんなわけない。私にはとても納得できなかった。
 私がはっきり言い返したら、正樹ちゃんは黙りこんでしまった。自分でも主張に無理があるとわかっているのだろう。次第にぽつぽつと雨粒が体に当たり始めた。
「だって……中学生ってもっと大人だと思ってたから。テレビとか見てもみんな進んでるし。早く追いつきたくて、子供から脱皮したくて、そればっかりで焦ってて」
 言い終える頃には、攻撃的なとげとげした姿勢はすっかり失せて、自信なさそうに小声になっていた。ようやく正樹ちゃんの本心が明かされた、そう思った。
 言い分はわかったけれど、それで私の気持ちは収まりそうになかった。入学後のあの日からずっと溜めてきたいろいろな気持ちが、心の中で噴き上がって、いよいよ本降りになりだした雨と一緒に激しい言葉となって降り注いだ。
「それならそうって相談してほしかった。私、悲しかったんだから。正樹ちゃんが別人みたいになって、名前で呼んでくれなくなって、いつも避けるみたいにして。私の好きな正樹ちゃんがどこか行っちゃったって思って。本当に悲しかったんだから!」
 滝のような雨があっという間に二人の姿を飲みこんだ。私の言葉も、止まらない涙も、沸き返る憤りも、正樹ちゃんへの思いも、それから私の心も体も、みんなこの大雨に流されて消えてなくなるのではないかと思った。

 感情を爆発させて放心状態だった私を、正樹ちゃんが肩を抱いて非常口に避難させた。ハンカチを出して私の目元を拭いてくれて、その感触で私は我に返った。
「心配かけて悪かったな。……志恵ちゃん」
 照れくさそうに、けれどはっきりと。懐かしい声の響きに胸が温かくなった。
 私は正樹ちゃんの髪を拭くことにした。長い髪の先端から水滴がぽたぽた落ちている。久しぶりに向かい合うと、また身長差が開いたようだ。背伸びをして頭に手を伸ばす。顔が近づいて至近距離で見つめ合う格好になったので、妙に気分が落ち着かない。
「無理に自分を変えることなかったのに。正樹ちゃんは正樹ちゃんなんだから」
 ハンカチごしに正樹ちゃんの頭をなでた。子供に言い聞かせる母親のように、つとめて優しく。正樹ちゃんは静かにうなずいていた。
 たしかに小学生のときは、中学生という存在はとても大人に見えた。けれどいざ自分がなってみると、これと言って成長したとは感じられない。よくよく考えれば、進学を境に人間の中身が急に変化することなどないのだけれど。
 それなのに、正樹ちゃんは大人びたイメージに固執してしまった。人との話し方や接する態度をがらりと変え、子供臭さを捨てようとした。少し不道徳なことをしてみたり、柄の悪い友人とつきあうことも大人らしさの表れと考えたらしい。
「志恵ちゃんのこと、ずっと憧れてた」
 雨で透けたブラウスの袖を気にしている私に向かって、正樹ちゃんがいきなり神妙な顔をして言った。そんな突拍子もないこと言われても、照れてしまう。
「中学生になっても全然変わらないだろ? いつも遠くで見てて羨ましかった。ガキっぽいって思ったりもするけど、自分を変えないって大事なんだなって」
 夢ではないかと思った。正樹ちゃんに憧れを抱き続けてきた私と同じように、正樹ちゃんも私を見ていてくれた。私たちの気持ちはずっとつながっていたんだ。
 だけど、そんなこと教えてあげない。私はわざとらしく頬をふくらませた。
「ちょっと。それほめてないでしょ。ガキっぽいって何よ」
 もちろん本当に怒ってはいない。勢いのない私のパンチを正樹ちゃんが受け止めて、二人で顔を見合わせて笑った。こんなふうにじゃれあったり、正樹ちゃんが笑いかけてくれる日がまた来るなんて。思い切って話をしてみて本当によかった。
「正樹ちゃんだって、中身は変わってないはずだよ。今からでも少しずつ戻していったらいいんじゃないかな。私がついてるから、ね」
 これまで遠ざけていた時間の分も、正樹ちゃんにうんとお節介を焼こう。
「それは嬉しいけど、でもできるかなあ。こんななりになっちまったのに」
「それなら、……とりあえずそのうっとうしい髪を切ろう?」
 正樹ちゃんの顔が引きつった。

 理容オワダのドアが開いて、カウベルの音が店内に響き渡る。一人で店番をしている女の人に私は声をかけた。
「こんにちは、正樹ちゃんのお母さん」
「あら、志恵ちゃん。どうしたんだい、昨日どこか失敗してたかしらね」
 すぐ手直しするから、とカットの準備に取りかかろうとする。
「いえ、違うんです。今日はお客さん連れてきました」
 そう言って、入り口の後ろに隠れていた人の腕を引っぱって中に入れた。それを見たお母さんの目がまん丸になる。
「正樹――」
「た、ただいま」
「というわけで、この子のカットお願いします」
 まだ決心を渋ってまごついている正樹ちゃんを、私とお母さんで店内へと引きずった。途中からお父さんも出てきて、三人がかりでお店の椅子に腰かけさせた。
 正樹ちゃんは抵抗していたけれど、嫌がっている感じではなかった。今まで家族と話すのも避けていたのに、急にこんな馴れた状況になって照れているんだと思う。
「お客さん、どんな髪型にしましょうかね」
「そうですね。私と同じくらいにしてください」
 お父さんがてきぱきと準備を進め、お母さんがしらじらしい接客口調で注文を聞いた。夫婦息の合った連携プレーで、正樹ちゃんに逃げる隙を与えない。私が代わりに注文を出したのを耳にして、正樹ちゃんが思いきり慌てた。
「志恵ちゃんと同じ? そんな短いの嫌だって」
「正樹ね、だったらなんでこんなボサボサにしてるの。毛先もこんな痛めて。髪伸ばそうと思ったらそれだけ手入れが大変なんだよ。ずぼらなあんたには無理無理」
 責め立てるような口調だけれど、正樹ちゃんのお母さんはどこか嬉しそうだった。髪の専門家に説教されては、正樹ちゃんも大人しく引き下がるほかない。
「第一、私に正樹なんて男みたいな名前つけやがって。父さんが男扱いして育てたりしたせいで、私の乙女心はズタボロだって言うの。ぐれたくもなるよ」
 まだぐちぐち言っている正樹ちゃんにはお構いなしに、お母さんが両肩を押さえつける。とうとうハサミが入った。娘を男勝りに育てた張本人のお父さんは、伸びきった髪を大胆に切りながら「正樹の口から乙女心だって」と笑いをこらえていた。
「いいと思うけどな。男の子みたいって格好いいし、名前も素敵だし。私は好きだよ」
「だーかーらー、女子にばっかりもてても仕方ないだろ!」
 フォローのつもりで言ったのに、正樹ちゃんはますますお気に召さない様子。同性にばかりちやほやされていた正樹ちゃんの心境は、思いのほか複雑だったかもしれない。それを考えると、格好いいなんて言ってきた私も配慮が足りなかった。
 けれど、人の本当の魅力に男らしさも女らしさもないと思う。私は、正樹ちゃんのはっきりした性格や、芯の強さや、さりげない思いやりなど、根っこの部分に惹かれているから。昔のように髪を短くして、活発だった自分を思い出してくれたらと思う。私の熱い憧れのまなざしを、これからも正樹ちゃんに向けていられるように。

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