[やどりぎ] お母さん

 よく晴れたお昼休み。四人での昼食も元通り復活し、その後私は風を誘って屋上にやって来た。太陽がぽかぽかして気持ちいい。柵につかまって景色を望む。
「今度うちにおいでよ。遠いから自転車になるけど」
 風を私の家に招待するためだ。気分転換させて元気づけたいと考えたからだった。風は見た目に落ちこんではいないけれど、あんな話を知った後だから何かせずにはいられない。
「いいの? 嬉しい。でも迷惑じゃないかな」
 風の顔がほころぶ。先日の一件以来、作らない元の性格を少しずつ見せてくれるようになった。これまでの印象より大人しく、話し方にもやや幼さを感じる。でも、こちらの方が断然風のイメージに適っていると思う。
「全然。お父さんもぜひ来てって。風のこと気に入ってるから」
「スサのお父さんが? 私会ったことないのに」
「私がいつも家で風のこと話してるからね。風は家で話しないの?」
 口にしてからしまったと気づく。小学校以来、ご両親とは疎遠な状態が続いているらしい。風を避けるようにいつも帰宅が遅く、家にいてもあまり口を利いてくれないとか。
 ばかばかばか。不用意な言葉で風を嫌な気持ちにさせたと思い、げんこつで何度も自分の頭を叩いた。
「いやだ、気にしないで。私が話しかけないのがいけないんだから」
 仕方ないという顔をする風を見るのがつらい。私がお父さんと親密だから、他の子が家の人と仲がよくないって聞くと残念になる。同じ家に暮らす家族なのにどうして、って思ってしまう。
「小学校のとき、私は本当にだめで弱くて、お父さんたちを失望させて、いっぱい迷惑かけたから。だから嫌われても仕方ない」
「そんなの絶対嘘! 風は被害者だったんだから、風が悪いことなんて一個もない!」
 あまりに悲しいことを言うものだから、私は思わず風に抱きついた。風の言葉を遮るように怒鳴りつけて、それから両手で自分の顔を覆った。熱い涙がこぼれる。
 風が肩をさすって慰めてくれる。スサは泣き虫になったねと冗談っぽく言いながら。けれど、私を涙もろくさせているのは間違いなく風だ。
 私が悲しくなるのは、それだけ風が私に心の苦しみや弱さを見せてくれるということだから。もう一人で抱えこまないでいいように、私の前でみんな吐き出して楽になってくれたらと願う。
「ありがとうスサ。私も立ち向かわないといけないね。スサのこと、もっと家で話してみる。遊びに行っていいかも聞かないといけないし」
「そうだね、期待してる。おばあちゃんは喜んでくれそうだけど」
 私は涙声で言って、ハンカチで顔を拭った。風のおばあちゃんは私にも親切で優しい。風の友だちとして歓迎しているからだと思う。きっと風の味方になってくれる。
「ところで、スサのお母さんは? お母さんにも会ってみたいな」
 やはりそう来たか。私としてもぜひ風をお母さんに会わせたいところだけれど。腕組みをして頭をひねっている私の顔を、なぜか風がすまなそうに見つめる。
「も、もしかして聞いちゃいけないことだったかな」
 どうやら、私の家庭にも何か触れられたくない事情があるのではと誤解したようだ。
「違う違う、ちょっと考え事してただけ。お母さん忙しいから、うちに来ても会えるかわからないんだ。今朝も予定聞こうと思ってたのに聞きそびれちゃって」
 そこで予鈴が鳴ったので教室に引き返した。私はすっかり風が来てくれる気になって、二人で何をして遊ぼうかとか、庭の木を見たら驚くかななんて思いを巡らせていた。
 そのときお母さんもいてくれたらもっと楽しいのに、って考えながら。

 話は昨日の晩に遡る。
「――それでね、朱ちゃんと香織にも少し事情を話したら、それなら味方になるって。もちろん風とも仲直りしてくれた」
 夕飯の後、私はお父さんに学校での話をして聞かせた。二人で台所に立って、食器を洗ったり後片づけをしながら。お父さんはいつも家のことを一人で済ませてしまうから、私から手伝いを買って出ないと何もさせてくれない。
「それはよかった。草子さんもほっとしていると思うよ」
 嬉々として話す私ににっこり微笑み返すお父さん。私より嬉しそうだ。
 お父さんは私の学校の話をいつも楽しみにしていて、夜はこうして話を聞いてくれる。だから私の周りの人間関係はだいたい把握していて、小学校からの同級生はもちろん、面識のない風のこともびっくりするくらいよく知っている。
「志恵。学校で学ぶものは勉強だけじゃないからね」
 お父さんが突然真面目な顔をして言う。言いながら、私の顔の前に余ったミニトマトをかざした。両手が洗剤の泡だらけだから、口を開けてミニトマトにぱくついた。ちょっとお行儀悪いけれどいただきます。
「人との接し方、つき合い方を学ぶのも大事なことだから」
 私は大きくうなずいた。お父さんの言葉は身につまされる思いだ。思い出すのは風とのこと。結果的に絆は深まったけれど、友だちを大切に思う気持ちはただ楽しいことに目を向けるだけでは育まれないと痛感した。
「もっと風に親身になって、いい関係を作りたいな」
 私が食器を水ですすいで、お父さんが受け取って水気を拭く。
「志恵が思いやりのある子に育ってくれて嬉しいよ」
「えへへ。きっとお父さんに似たんだよ」
 二人でくすくすと笑い合う。きれいに洗われたボウルの縁に、私とお父さんの笑顔が映った。
 後片づけが終わって、お父さんが入れてくれたココアを飲む。口に広がる甘さにほっと息をつく。働いた後の一杯はまた格別。
「お父さん、風にうちに遊びに来てもらってもいいかな」
「それはいい。きっと喜んでくれる。僕も腕によりをかけるよ」
 お父さん、予想以上に好反応。ただ考えが先走りすぎて、すっかり風をわが家の夕食にまで招くつもりでいるみたいだけれど。それだけお父さんも風のことが気がかりで、励ましたいと思っているのだろう。
「まだ気が早いって。それより、せっかくならお母さんもいる日にしたい」
 お母さんも私の自慢だから、ぜひ風に紹介したい。けれど、今夜もお母さんは家にいない。窓の外はもう真っ暗。
「ああ、そうしようか。明日の朝には帰っていると思うから、予定を聞いてみてごらん」

 そして明くる朝、私の眠りを覚ましたのは自動車のエンジン音だった。
 飛び起きて階段を下りる。玄関にはローファー。廊下にはハンドバッグ。洗面所を覗くと、女物のスーツを着て突っ立っている人が一人。
「お帰りなさい。今日もお疲れさま」
 私の声にのっそりと振り返ったその人は、上体がふらついていて目が据わっていた。その顔ちょっと怖いよ、お母さん。
「あら、志恵……。しばらく見ないうちに大きくなったわね」
 だめだ、完全にぼけている。声のトーンも異様に低い。明け方に帰ってきたときのお母さんはいつもこんな調子。疲れきっていてまともに頭が働いていない。
「お母さんどうしたの。顔を洗いに来たんじゃないの?」
「そうだったかしら。でも面倒だからいいわ。もう休むわね」
 そう言ってふらふらと洗面所を出て行こうとする。慌てて腕をつかんで引き留めた。
「ちょ、ちょっと待って。寝る前にお化粧落とさないと大変なことになるよ」
 そう。お母さんはときどき、疲れて洗顔をせずに寝てしまっては、目を覚まして悲鳴を上げている。何度失敗しても懲りない。
「志恵、あなたよく知ってるわね。もう化粧なんてするの?」
 感心したように目をぱちくりさせる。いいえ、私はしませんけど、お母さんがよく自分で言っているじゃないですか。
「年頃だものね。いいわ、私が化粧のしかたを教えてあげる」
 ありがたい、確かにありがたいけれど。今はそれどころではない。これは思考が危険な状態に入っているかもしれない。早いところ休ませないと。
「それはまた今度ね。とりあえず顔洗って。石けんはお風呂場?」
 上着を脱がせて、ブラウスの袖をまくって、浴室から洗顔用ソープを取ってきて、栓をして蛇口をひねって。半分眠っているお母さんを急かして顔を洗わせる。これでは親子の立場が逆。
 それから、お母さんの手を引いて二階の寝室に連れて行った。お母さんはベッドに倒れこむと、その上でもぞもぞと服を脱ぎだした。脱いだものを投げ散らかして、枕元に丸めてあったネグリジェをかぶってもう寝息を立てている。瞬く間の早業。
 しかし、娘が見ている前で何という醜態をさらすのか。身の回りのことにはてんでずぼらなんだから。仕事でずっと気を張っているから、家族の前では一気に緊張が緩むのかな。
 スーツをハンガーにかけて、洗濯物を拾ってまた階下に持っていくと、ちょうどお父さんが洗濯を始めるところだった。
「おはよう。はいこれ、お母さんの」
 丸まったストッキングを見せる。お父さんが受け取って洗濯機に投げ入れた。
「ああ、志恵が寝かしつけてくれたのか。呼んでくれれば僕が行ったのに」
 寝かしつけるって。まるで子供みたいに言う。実際あのお母さんは手のかかる子供そのものだったけれど。
「顔洗うのも私が手伝ったんだから。ほんと、お母さんってしょうがないよ」
「そうだね。本当にしょうがないから、つい世話を焼きたくなるんだね」
 独り言みたいにしみじみと言うお父さんの横目は、とても優しくて、そして嬉しそうだった。だらしのないお母さんが好きなお父さん。面倒見のいいお父さんに甘えるお母さん。これが夫婦の愛というものか、と私はまた一つ大人の世界を知った。
 と、朝から慌しくて、お母さんにお休みの予定を聞くのを忘れてしまった。

 お母さんは仕事に生きる人だ。
 お母さんの職業はよく知らない。出版業としか聞いたことがない。関心がないわけではないけれど、お母さんが自分から話してくれない以上、親子の仲とは言え何でもかんでも首をつっこんでいいわけではないから。
 一つだけ確かなのは、多忙を極める仕事だということ。
 私たちの多くは、朝起きて夜眠って、昼間は学校や会社に行って夕方には帰ってきて、という生活をしている。カレンダーで平日と休日というふうに決められてもいる。ところがお母さんの生活には、昼夜や曜日の概念がまるでない。
 真夜中や朝近くに帰ってきたり、学校から帰宅した私と入れ違いに出社したり。お休みの曜日もばらばら。しかも単純に昼夜逆転というわけではなく、朝食や夕食を一緒に食べる日もあれば、丸一日顔を合わせないこともある。まさに神出鬼没。
 家にはお母さんに仕事の電話がよくかかってくる。電話機の前でメモ片手に打ち合わせを始めたり、大急ぎで家を飛び出ていったりもする。
 私もときどき電話に出るけれど、どの人も丁寧な言葉遣い。何度か出るうちに応対に慣れてきて、まず電話口ではお母さんのことを母と呼ぶことを覚えた。母は先ほど家を出ました、とか。お母さんの秘書か部下にでもなった気分。
 お母さんのおかげで、そんなビジネスの世界や、働くということの一端を垣間見ることができて得した気分。多くのことを教わっている。
 一方、仕事中心で家庭を顧みないというわけでもない。忙しい合間を縫って私と話をしてくれるし、お父さん伝いにも情報を仕入れていつも私を気にかけているみたい。
 何より、お母さんは私を産んでくれた。母親としてこれ以上の大仕事はないし、子を持って初めてお母さんになれるのだから。
 もっとも、若い頃は赤ちゃんを産むつもりはなかったらしい。仕事にのめりこんでそんなこと考える余裕もなかったって。
 けれど、お父さんと結婚して、お父さんの愛情に触れるうちに、この人の赤ちゃんをどうしても残してあげたいっていう気持ちが強くなって、それで出産を決意したそうだ。とても素晴らしい話だと思う。お父さんとお母さんがたがいに睦み合って私が生まれたんだって思えるから。
 大変なのはその後。私を妊娠したはいいけれど、お母さんは休暇を取ろうとしない。長い間仕事を休んだら職場での地位に影響すると心配したのだろう。お腹が大きくなっても働き続けて、産後もわずかに入院しただけでまた何事もなく復帰したそうだ。
 そんなお母さんだから、育児にはあまり関わらなかった。けれど、四六時中べったりするだけが愛情の示し方ではないから。たとえ距離を置いていても、一緒にいる時間が少なくても、お母さんの思いは感じているつもり。
 でも、やはり小さいときは不満だった。留守が多いし、家にいてもごろごろしてばかりで相手をしてくれない。休日にお母さんと出かけることなど滅多になかったから。お母さんの気持ちを考えないで、だだをこねてばかりいた幼い自分を思い出す。

 

 それまでは、時間は遅くても朝外出して夜帰るという生活だったお母さん。その頃から日増しに忙しさが増し、生活リズムがみるみる不規則になった。
 一度も会わない日が二度三度出てくる。同じ家に暮らしているのかさえ疑問に思った。お母さんのベッドに潜りシーツに顔をうずめる。お母さんの匂いはちゃんとするのに。
「おかあさん、あそんでよ。ねえおかあさん」
 ソファを陣取って横になっているお母さんを揺すっても起きてくれない。目を開けたかと思えば、片手をしっしっと振って追い払われるだけ。
「お母さんはお仕事で疲れているから、休ませてあげようね」
 そのうちお父さんが間に入り、僕とあっちの部屋で遊ぼう、と私の手を引いてリビングから連れ出す。お父さんと一緒でもよかったけれど、たまにはお母さんにもかまってほしかった。お母さんに好かれていないのではと不安に感じたりもした。
 お父さんの心境は複雑だったろう。私の気持ちもわかるし、お母さんの立場もわかる。いずれか一方の味方につくことはできない。私は自分勝手なわがままで、お母さんだけでなくお父さんも困らせていたのかもしれない。
 けれど、幼児にも体裁というものがある。保育所ではどの子もお母さんの話ばかり。お母さんと遊ばなかったり外出しないのは私くらいだった。幼心に肩身の狭さを感じた。
 お父さんの話をしても、みんな変な顔をするだけ。お父さんがいつも家にいるのはおかしい、お母さんはどこに行っているの、離婚したんじゃないか。口々に責め立てられた。
 うちはお母さんが仕事をしてお父さんが家のことをしている、と説明して回ったけれど、そんなの変だと取り合ってくれない。そのうち説明するのにも疲れてきた。よその家庭と事情が違うだけで、どうしてこんな思いをしなければならないのか。
 腹の虫が収まらなくなって、私はとうとうお母さんを拉致した。
 ある日曜日の昼過ぎ、ガレージの隅にじっと身を潜めて機会を狙った。仕事に向かうためにお母さんが乗用車のドアを開けた、その一瞬の隙に私も車内に体を滑りこませた。
「何やってるの。ふざけてないで降りなさい」
 すごい形相で私をにらみつけるお母さん。仕事前だから気を詰めていて神経質みたいになっている。けれど、お母さんに邪険にされるのには慣れっこだからひるまない。
「いや! きょうはおかあさんとおでかけなの!」
「訳のわからないこと言わないで。私は仕事があるの。締め切り前なんだから」
 こうなれば意地の張り合い。私は助手席のシートにしがみついて、お母さんが何を叫んでもわめいてもいやいやと首を振って徹底抗戦の構えを崩さなかった。
「……わかったわよ。敵わないわ。どこでも好きなところおっしゃい」
 とうとう根負けしたお母さん。観念して運転席に乗りこんでエンジンをかけ、助手席の私のシートベルトも締めた。怒りにまかせてハンドバッグを後部座席に投げつけたら、口が開いて中身が散らばった。
 お父さんが騒ぎを聞きつけて家から飛び出てきたときには、私を乗せた車はエンジン音だけを残してガレージから姿を消していた。

 私のリクエストでやって来たのは近くの動物公園。乗馬を体験したり、ヤギのお乳を搾ったり、ウサギやチャボに餌をあげたりと、動物と触れ合えるコーナーが家族連れに人気だ。
 休日のレジャーに、しかもこんな山に囲まれた場所にふさわしくないスーツ姿だったことを除けば、念願のお母さんとのお出かけ。私は終始ふくれっ面のお母さんの手を引いて、次から次へと柵の中の動物たちを見て回った。
 ウサギ小屋で飼育員のおじさんにウサギを抱かせてもらう。毛は真っ白で目は真っ赤。手足をばたつかせ、口元をもごもご動かしている。お母さんにもなでさせてあげようとウサギを差し出したけれど、お母さんは気味悪がって触ろうとしなかった。
 それから、売店でソフトクリームを買ってもらって、芝生に腰を下ろして食べた。お母さんもスーツのままふて腐れて寝転がった。
 お母さんの投げやりな態度を見て、あることに気づいた。一度も笑っていない。仕事を邪魔されて腹を立てているだけという感じではなく、娘と遊んで過ごした時間に何一つ楽しみを見出していない様子だった。
 ようやく悟った。自分が遊ぶことばかりで、お母さんのことなんて少しも考えていなかった。
「ごめんなさい。おかあさん、たのしくなかったね」
 私は頭を垂れた。太陽が赤くなって、たくさんの親子連れがぞろぞろと通り過ぎていった。父親も母親も男の子も女の子も、みな一様に充実した晴れやかな顔をしている。思い描いていたのは私とお母さんのあんな笑顔だったのに。
「全くよ」
 がばっと上体を起こして私を凝視するお母さん。顔は引きつっていて怖かったのに、どうしてか目元だけは緩んでいた。
「だだこねられて仕事放棄させられた挙げ句、こんな来たくもないところ連れて来させて、散々引き回してくれて。こんなので志恵は満足したの?」
 首を横に振った。手の中のソフトクリームが溶けかけていたけれど、急いで食べようという気にはなれなかった。心は空しさでいっぱいで味なんて感じない。
「でしょうね。もうこれに懲りて、私と出かけたいなんて言い出さないことね」
 非常に冷淡な言葉だったけれど、説得力は絶大だった。私は黙ってうなずくしかなかった。じわじわと後悔が襲う。お母さんに仕事まで休ませて、それなのに退屈させて。過失の重さは計り知れない。
「だから子供は嫌なのよ……」
 傷心の私に追い討ちをかけるように毒づく。やはり私は嫌われていたのか。
 しかし、お母さんの本心はそうではなかった。私の口元をハンカチで拭いながら言った。
「志恵、聞いて。私がこんなこと言えた義理じゃないけれど、志恵のこと好きよ」
 すでに溶けてだらだら垂れていたソフトクリームのコーンを私から取りあげて、地面に投げ捨てた。それから手や指先もきれいに拭く。お母さんに好きと言われて私はきょとんとした。
「それはあなたが大人だから。一人で何でもしたがるし、周りのことにもよく気がつくし、人の言うことを聞いてとても利口。お父さんに似たのかしらね」
 お父さんという言葉を口にして、お母さんは初めて笑顔になった。私に無関心のようにも見えたお母さんが、意外にも私のことを言い当ててくれるので、それが嬉しかった。
 なるほど、お母さんは私を子供扱いしたことがない。大人の人と話すのと同じ言葉遣いで私にも話しかける。少々のことでほめたり叱ったりしない。私自身に考えて決めさせる。一人の出来上がった人間として、私を見ていると思う。
「普段あなたにかまわないのは、仕事のせいじゃないの。小さい子供と接するのが苦手だから。だから、今日みたいにまとわりつかれると非常に困るんだけれど」
 ずっと心に溜めこんでいたような言葉。何となくだけれど意味は飲みこめた。お母さんが煙たがっているのは私そのものではなくて、大人げない言動でお母さんを困らせる私。
「この前、家の木に登ってみせてくれたでしょう? あれは良かったわ。新しいことを次々覚えて、どんどん一人立ちして。志恵の成長する姿を見るのが私の幸せ」
 木登りの一件を思い出す。台風であわや大惨事という汚点がついたけれど、後日めでたく勇姿を披露した。お母さんは高いところの私に、手を叩いて喝采を送っていた。
 ――そうだった。お母さんは、ちゃんと見るべきところでは私のことを見ている。台風の日だって私を心配して仕事先から駆けつけた。お母さんなりのやり方で、私を見守り、しつけ、そして愛してくれている。
 それなのに私は、そんなお母さんの思いもわからずに一方的にわめいていた。自分にかまってくれないというだけで、薄情な母親と決めつけていた。
「おかあさん、おかあさん……!」
 呼びながらお母さんの胸に飛びこんだ。ひしと抱き止められる。子供嫌いと言っておきながら、私が抱擁を求めて拒絶されたことは一度もない。この温もり、この力強さ。言葉よりも確実に信じられる。やっぱりお母さんは私のお母さんだ。
「わがままいわないから。いいこになるから」
 ぽろぽろと涙が頬を伝う。こんなふうに泣いてすがったりしたら嫌がられるだろうか。それでも構わない。今だけはお母さんの悪い子になって甘えていたいから。
「あら、志恵は今でもいい子よ。こんな母親失格の私でもこうして慕ってくれるんだもの」
 辺りは暗くなり始め、閉園を告げる放送が流れた。お母さんは私の髪をそっとなで、背中をぽんぽんと叩いて落ち着かせた。好きよ、って耳元でもう一回ささやいて。
 すっかり心が通い合った私たちはお寿司を食べに行くことにした。電話口のお父さんの声がひっくり返るのも無理はない。お母さんと二人で外食なんて初めてのことだから。
 回転寿司のチェーン店に入る。私を絶対に子供扱いしないお母さんが取ってくれた皿のお寿司は、もちろんわざびを抜いてなくて、鼻に突き刺さる刺激に飛び上がった。今思えば、あれはお母さんのささやかな報復だったのかもしれない。

 

「どうしても話がしたいって。恐い人たちじゃないから、会ってくれる?」
 自転車で並んで走る風が聞いてきた。薄緑色のワンピースの裾がひらひら揺れている。私はもちろんとうなずいた。土曜日の午後の見慣れた田舎道。
 これから風を連れて家に帰るところだ。風はお家の人と無事打ち解けることができたそうで、私の家に遊びに行くことも承諾してもらえた。しかも泊りがけで行ってきたらという話になって、風も私も何日も前から楽しみにしていた。
 ただし交換条件があって、それは後日私が風の家に泊まりに行くこと。なんでも、風のお父さんとお母さんが私に会いたがっているらしい。私も聞きたいことが山ほどあるから、条件どころか大歓迎だけれど。
「でも今日は残念だね。スサのお母さんに会うのも楽しみだったのに」
 本当に残念そうな顔をしてくれる。せめてこの表情だけでもお母さんに見せたい。
 お母さんとは結局、あれから一度も話ができなかった。熟睡しているところを起こすのもかわいそうだし、お父さんが今日のことを伝えておいてくれたそうだから。でも、このところ連日多忙だから、今日も帰ってくる見込みは薄いとのこと。
 それに推測だけれど、お母さんは私の友人にまでは関心を持っていない気がする。学校のことにはあまり口を出さないから。風ともさして会いたがってはいないだろう。
 そう思っていたのに。……家に帰ったら、いるんだもの。
 ガレージに車があったのでもしやと思って家に入ったら、仕事を取られたお父さんが肩をすくめていて、代わりにお母さんが台所に立っていた。エプロン姿が全然板についていないけれど。
「お母さん!」
 お母さんに駆け寄って抱きついた。状況は飲みこめないけれど、とにかく家にいてくれた。感激で胸がいっぱいになった。
 お母さん、今日の予定を空けるために仕事を前倒しして片づけたそうだ。ここ数日とくに多忙だったのもそのためで、しかも私を驚かそうとお父さんにも内緒にしていたらしい。ちなみに、一人で夜食を作って食べることもあるから料理の腕はまあまあとか。
 入りづらそうに廊下に立っていた風をリビングに引き入れて、お父さんとお母さんに紹介した。
「あ、初めまして。今日はお世話になります」
 ちょこんと頭を下げる風に、お母さんが目を輝かせて近づいた。
「ようこそいらっしゃい。会いたかったわ。本当に可愛い子」
 なんて、猫なで声出しながら、ミトンをはめたままの手で風の頭をいい子いい子する。動物さえ毛嫌いするお母さんが臆面もなく可愛いだって。こんな母性丸出しのお母さん、今まで見たことない。
「そうだわ。草子ちゃん、後で一緒にお風呂に入りましょうか」
「えっ? えっ?」
「だ、だめっ。風は私と入るんだから」
 いきなりとんでもないことを言い出すお母さん。予期せぬライバルの登場に私も思わず名乗りを上げた。たがいに風と体を洗いっこするんだと言い張って聞かない。風は頬を紅潮させてうつむいていた。よほど恥ずかしかったとみえる。
「こら、だめじゃないか志津。草子さんが困ってるよ」
 お父さんが半分呆れて止めに入った。我に返ったお母さんと私は顔を見合せて苦笑い。
「驚かせてごめんなさいね。志恵の想い人だって言うから、母親としても仲良くしておきたくて」
 なんてはにかんだように言う。それを聞いて私は、お母さんも風に会いたいと思ってくれていたのだと気づいた。嬉しくて胸がじーんとなる。でも想い人って。風のこと好きなのは本当だけれど、それは絶対に意味がずれている。
 何はともあれ、今日はお母さんも一緒で本当によかった。風には私の全部を見せたかったから。形は異なるけれど、お父さんもお母さんもいつも私を見守っている。二人の愛情に包まれたこの家庭で私が生まれ育ったことを、私のかけがえのない両親を胸を張って誇りたい。
 だって。私の名前、志恵は、お母さんとお父さんから一字ずつもらったものだから。

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