[こころ] こみゅにけーしょん

コミュニケーション能力という言葉がきらいです。
話すのがうまいか口下手かなんて、単に性格のちがい、個性ではないでしょうか。
それを「能力」なんてつけて人の優劣を決めつけるような風潮が気に入りません。
まあ、話し上手な人が評価されたりもてはやされるのはわからないでもないですが。
しかし、その逆は危険です。会話が苦手な人はだめだ、というレッテルを貼ることは。

そんな考えが世間に広まってしまったら、コミュニケーションに自信がない人が
ますます自信をなくしたり、人と接するのを避ける悪循環につながりかねません。
…というかぼくがそうなんですが。
あまりに不安になって、思いきって勤め先の重役に相談したことがあります。
自分はコミュニケーション能力がないのではないか、って。
もし意思疎通に問題があるなら、仕事に支障が出て会社にも迷惑がかかりますし。
実際、人前でも発言が少なく、必要なことしかしゃべらないような人間なので。
重役からは「そんなことないと思うけど?」と言ってもらえましたが、まだ心配です。

この例に限らず、世の中、いたずらに不安をあおるものが多すぎると思います。
自分の体臭が気になる。肌のべたつきが気になる。肥満ではないかと気になる。
コマーシャルに踊らされ、ありもしないコンプレックスを抱えて悩む現代人の姿。

さて。
コミュニケーションについて、若い人に難ありの人が増えている、と耳にします。
もしかしたら、話し下手かどうかというのとは別の問題なのでしょうか。
電車に乗ると、みんな何かに取り憑かれたように夢中で携帯電話をいじっています。
間隔をつめて座りもしなければ、足の弱いお年寄りが乗ってきても目もくれません。
また、アパートの通路でちょうど玄関から出てきた住人とすれちがおうとしたところ、
その人はこちらの姿を見るなりまた玄関を閉めてしまいました。
同じ建物に住む同士なのに。会釈で十分なのに。なぜ隠れる必要があるのでしょう。
そうした光景を目にすると、なるほど人間関係の希薄な社会になったと感じます。

「能力」ではなく、人が社会の中で生きていくうえで必要な「習慣」ではないでしょうか。

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