[こころ] ともだち

友だちってなんだろう、と以前ある友だちに聞かれたことがあります。
 それに関しては、私自身も大いに考えるところがありまして。人間関係やコミュニケーションっていうのは人生の永遠のテーマだと思いますから。とくに私は多少の紆余曲折というかがあったもので。幼少のころから他人と接することにあまり積極的ではありませんでした。自分のことにばかりのめりこむタイプだったようです。クラスで問題を解いたり何かを作ったりするときでも、ほかの子といっしょにやったりしないでいつもひとりだけどんどん先に進めていったり。わからないことがあっても、人に聞くより自分で調べたほうが早いし確実だったからそうしていましたし。言いかえれば、他人のことに気を払わないというか信用していないというか、あまり関心がなかったんでしょう。かつての同級生の卒業後の進路とか現在どうしているかとか、あまり知りませんし気にも留めなかったりしますし、今でも人と会っても最低限のことしか話さなかったり、何の話題を振っていいんだか思いつかないってこともあります。
 友だちを大切にしない子として育ってきた私に、家族もほとほと手を焼いていたようです。…まあ、家族にさえも心を開いていなかったようなかんじなので。上の学校に進学するたびに、勉強のことよりも人間関係のことばかり心配されていました。友だちは一生のものだから大切にしなさい、もっと積極的に人に関わっていきなさい、と何度教えられても、私にはそのことばの重みを感じとれませんでした。それまで自分ひとりで多くのことをやれてきてしまったせいでしょうか。それとも、自分が自分だけの力で生きているなんてかんちがいをしていたのでしょうか。口数が少なかったり挙動がおかしかったりというのは、自分の根っからのものなので観念していましたが、人と接したり話すことをめんどうな作業としか思えず、その楽しみや意義を見出せない私はたしかにおかしいのではないかという気がして。
 それに加えて、大学時代に起こした不祥事の数々。これは今だからやっとこんなふうに口にできるようになったというほどのもので、たくさんの人に非礼をはたらいたり迷惑をかけまくってきました。現在の私の自省的な部分のもとになっているのかもしれません。いろんなところで衝突したり自分勝手なことを言ったりして、人間関係がうまくいかなくて、そのたびに人と接することを避けるようになりました。家から出なくなったばかりか、会いたいと誘ってくれたメールを無視したりもして。今にして思えばただ意地を張っていただけなんですが、孤独でみじめな生活にあえて身を投じていました。ですが、意識的に遠ざけようとすればするほど、本能的なさびしさは募っていくばかりで。失ってはじめてその大切さがわかる、とはこういうことでしょうか。都合のいいことを言うようですけれど、しだいに自分の考えを改められるようになりました。
 さらに、社会人になると、あらたな出会いの機会そのものががくんと減ってしまいます。それまでの人脈が命綱になってくるわけで、なおさら守っていかなければいけないという気持ちが強くなりました。仕事のことを話しあえる人もいれば、そのことから頭を離してリラックスさせてくれる関係もある。ことばを交わしたり思いあったり、そうしたことのよさが、実に遅まきではあるんですがじわじわと感じられるようになりました。ことばを投げかけたら応答が返ってくる、会いたいと願ったら迎え入れてくれる、笑顔を見せあったり感情をぶつけられる、そういう存在がいるって本当に意味のあることなんだと、そんな気がします。いつも自分の心のどこかにいてくれる人、いてほしい人、それが友だちというものなのかな、というのを冒頭の答えにしたいと思います。

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