[やどりぎ] 進路

 夏だから当たり前といえば当たり前なのだけれど、暑い日が続いている。直上から強烈な日差しが照りつけて、つばのついた帽子をかぶっていても顔面が焼けるように熱くなる。
 私は自宅でデッサンの真っ最中。スケッチブックを膝に抱えて被写体に向き合う。被写体とは、庭にでんとそびえ立つ高い木のこと。
 芯の軟らかい鉛筆を寝かせるように持ち、サッサッと大ざっぱに線を入れる。まっさらな画用紙のページに徐々に輪郭が浮かび上がり、新たな命が吹き込まれていく。今日は葉のざわめく様子を表現しよう。風に揺れる枝の動きを追って鉛筆を走らせる。
 木登り遊びの遊具や、自然観察の教材だけにとどまらない。昔からこの庭に植わっている木は、私にとって最も身近な絵のモデルでもあった。
 幼少の頃から、何度この木を題材にして絵を描いたことだろう。緑と茶色のクレヨンでぐるぐる塗りした。枝に留まる美しい小鳥を色鉛筆で写し取った。雨の日も木陰に潜って鉛筆の動きを止めなかった。父の日のプレゼントは、幹に添い立つお父さんの姿絵。
 次はこんな視点で、もっと違った表情を。何枚描いてもアイディアは尽きない。……だから今日は、暑いのにこんな場所でスケッチをしているのだけれど。
 家の前の坂道に目をやると、自転車を押して上ってくる人影が見えた。背の低い門を自分で開けてうちの庭に入ってくる。今日のお客さんだ。
「風、いらっしゃい!」
 その人――風は辺りを見回した。声はすれど姿は見えず。私を見つけられなくてきょろきょろするさまがおかしくて憎めない。と、あまり意地悪しては酷だから、今度は自分のいる場所がわかるように声をかけた。
「ここだよ、上、上。玄関から上がってきて」
 さらに手を振ると、風はやっとこちらを見上げた。そして、開口一番こんな一言。
「わ、スサ。……屋根の修理しているの?」
 屋根の上でスケッチブックを持っている様子が、大工さんがセメント塗りの作業をしているみたいに見えたんだって。

 よっこいしょ。窓のさんをまたいで自分の部屋に入った。野球帽を脱いで額に浮かんだ汗を拭うと、部屋の入口から、森の動物みたいに風がひょっこり顔を出した。
「お邪魔しまーす」
「どうぞどうぞ。迎えに行かなくてごめんね。お父さんが出かけてるから留守番していないといけなくて」
「大丈夫。もう道覚えちゃったから」
 そう言いながら、へなへなと床に膝をつく風。この暑さの中を自転車で来たから大変だっただろう。扇風機の首振りを止めて、風にだけ冷気が当たるようにした。
「だけどびっくりした。あんな屋根の上でもスケッチするんだね」
「うん。あ、今日はたまたま。いろんな角度を試してるから」
 スケッチブックを差し出すと、風は受け取って画用紙を繰った。今ほど私が木の線画を描き込んだページを開いて、窓から見える実物の木の姿と見比べている。
「よく描けてる。葉っぱがこっちに迫ってくるみたい」
 描きかけのデッサンでも、必ずいいところを見つけてほめる。友だちのよしみではなく、風は本当に私の腕前を買ってくれている。
「それよりも。今日はこっち見に来たんでしょう?」
 本棚から大きい封筒を取り出すと、風はそれにも飛びついた。封筒の中から私の新作を引っぱり出して読みふける。少女の家に突如まんまるニワトリのクックちゃんが現れて、騒動を巻き起こすドタバタ漫画。気に入ってくれるといいな。
 それから風は、いくつか原稿を読んで感想を言ってくれたり、私が購読している漫画雑誌も珍しそうに読んだ。そして最後にいつものリクエスト。中学校に上がりたてのときに私が初めて風に見せた作品。二人肩を並べて、懐かしみながら原稿に目を落とす。
 だいぶ前に描いたものなので絵は下手だし恥ずかしいけれど、風はこれが最も思い入れがあって好きだと話す。その気持ちは私も同じ。この漫画が私たちを結び合わせた。

 楽しいおしゃべりの時間は流れて、私が先日行ってきた映画の話題になった。映画館から持ち帰ったパンフレットを見せたところ、風は原作の児童文学を知っているという。
「それだったら風と一緒に行きたかったな」
 あーあ、と両手を床についてそり返った。実際は、遊び慣れしている朱ちゃんに同行してもらって助かったし、思わぬところで友情の再確認もできたから、あれはあれで実になったのだけれど。しかし、元をただせば最初に誘ったのは風だ。
「実を言うと……私、暗いところ苦手なの」
 眠るときも豆球つけておかないと心もとなくて。恥ずかしそうに下を向いた。
 確かに映画館のホールは薄暗くて、上映が始まればスクリーン以外は真っ暗になる。それで映画に行きたくなかったのか。意外なのか風らしいのか。暗がりを怖がるなんて子供っぽいと言う人もいるだろうけれど、そんなに気にするようなことでもないのに。
 しかし、風がうつむいたのは別の理由からだった。沈んだ声で語り始める。
「小学校のとき、準備室に閉じ込められてたの。一人で授業の道具を取りに行かされて、部屋に入ると、外から大勢で扉を閉めて押さえつけるんだ。窓は黒いカーテンが引かれて、段ボールで全部ふさがれて、光が全然入らなくて真っ暗。手を痛くして戸を叩いても、出してって頼んでも、怖くなって泣いても、絶対開けてくれない。扉の向こうでみんなが笑ってるの。私が大声で泣いたり叫ぶほど、面白がって楽しそうにけらけら笑ってた」
 話が終わるころ、私は風の手を取り、自分の頬に押し当てて泣いていた。恋人同士のように絡めた指の間を、とめどない涙が伝って流れた。血のように熱い涙だった。
 悔しさや怒りが次々とこみ上げる。過去のひどいいじめが暗闇へのトラウマを植えつけたのではないか。風に何の罪があってそんな目に遭わなければならなかったのか。私も私だ。風はあのとき確かに暗い顔をしていたのに、どうして早く気づかなかったんだ。
「私は平気。スサがいてくれるもの。ね、もう泣かないで」
 私が握っている手とは反対の手で、頭をいいこいいこしてくれる。優しくて温かい感触が今は心苦しい。泣いてばかりで言葉のひとつもかけられない。風を慰めなければいけないときに逆に慰められている。自分があまりに情けなくて、風の胸に飛び込んだ。
「これじゃあ、立場があべこべだよ……」
「そんな。いつも支えてもらってるよ。だから、スサに何かあったら私にも守らせて」
 泣き疲れた私の上体はずるずると崩れて、風の脚の上に頭を乗っけてうつ伏せた。髪をなでながらかけてくれる風の力強い言葉を、膝枕でうとうとしながら耳にしていた。

 期末試験が終了して生徒たちが一時の解放感に浸っているある日、クラスに一枚のプリントが配布された。進路希望調査票、と書かれていた。第三希望までを記入して提出。
 まだ卒業後の進路を具体的に計画するには時期が早い。だけれど、大人になったら就きたい職業や、大まかな目標など、つまりは将来の夢を聞いておきたいらしい。
 提出期限が迫ってきて、私は悩んでいた。いや私だけではないだろう。その日その日のことで精一杯なのに、進路なんて突然尋ねられても。未来のことなど考えられない。
 将来、どんな大人になりたいか。最も身近な大人のサンプルである、お母さんとお父さんがまず思い出される。二人は私にとってお手本のような理想的な大人なので、両親のようになれたらとは思う。けれど、その願望は人柄や性格についてのものだから。具体的な職業の志望や人生設計にはどうしても結びつかない。お母さんのように出版社に勤めたいわけではないし、お父さんのように家事に専念したいというのも違う。
 私が思い描く将来への希望と、学校の先生たちが求めている進路希望には、少なからず隔たりがあるように感じられた。そんなわけだから、まだ第一希望も埋められない。
 ――と、風に話したところ、面食らったような顔をされた。
「うそ。信じられない」
 驚きの声が存外大音量になってしまい、風は慌てて口を押さえた。休み時間の教室は騒がしいから、幸い誰もこちらに気づかなかったけれど。ひそひそ声に戻して風が続ける。
「スサは進路希望なんてすぐ書けると思ったのに。将来は漫画家になりたいって」
 そうか。風は私の漫画のファンだから、そのように誤解されても仕方のないことだ。
「違うんだ。もちろん漫画は好き。だけど、別にプロになりたいわけじゃなくて」
「あーら、それはもったいないわね」
 風の口からではない、別の方向から声が聞こえた。振り返ると、背後を取り囲んで三人の女子生徒が立っていた。せーので揃えたような同じ腕組みのポーズで。
 小学校時代、よく私の漫画の趣味をからかっていた子たちだ。
 隅っこにイラストを描いたノートを私から取り上げては、ゲラゲラ笑い飛ばしたり、ページを破って黒板に貼りつけたり、上から落書きをしたり。正直言ってあまりいい思い出はない。
 中学では大人しくなったと思っていたのに、また突っかかるのか。背筋が寒くなった。
「久しぶりに志恵のクラス来てみたら、ずいぶん楽しそうじゃない」
「それより今の、うちらの聞き間違いよね? プロにならないって」
「あの漫画大好きの須里センセイが、まさか漫画家にならないなんてこと、ねえ」
「ベレー帽とかお似合いで? 漫画大賞とか応募してて?」
「キャハハハ、言えてるかも。しかも自分で描いた美男子が恋人なのよ」
「やだそれ、まるっきりおたくじゃない! 気持ちわるーい」
「今のうちに志恵のサインもらっておく? 将来値打ち出たりしてね」
 品のない笑い声が耳に障る。こちらが黙っていると好き放題喋りたおす。とは言え百ぺん聞いたからかい文句だから、この場は聞き流そうと考えたのだけれど。
「やめなさいよ! さっきから寄ってたかって何なの」
 風が辛抱しきれなかった。思いきり机を叩いて立ち上がり彼女たちに怒鳴りつけた。こんな大声を出すなんてめったにないことだから、私までどきりとした。教室の喧騒がぴたりと止んで注目が集まってもひるむ様子も見せず、怖い顔をして三人ににじり寄る。
「そんな幼稚なこと言って。恥ずかしくないの?」
「な……なによ、風祭さんには関係ないでしょ!」
「大ありです! スサをからかうんなら私が容赦しないんだから」
 私を背中に隠してガードしながら、堂々と三人に立ち向かう。嬉しさがこみ上げる一方で、疑問もよぎる。風はこんなとき前に出てくる子じゃないのに。悪口を言い返すなんて苦手なはずなのに。どうして、そこまで無理を押して私のためになんか。
 ――スサに何かあったら守らせて。あの口約束を、果たすために?
「だいたい、菊地さんたちに何がわかるって言うの。スサの絵は本当にすごいんだから。家でもたくさん漫画の練習してるのに。夢に向かって一生懸命努力してるのに。何にも知らないくせにばかにする権利なんかない!」
 掴みかかりそうな勢いの風を見ていて、ふと思い出した。強気で頼りがいがあって。これは確か、私にすべてを打ち明ける以前に演じていた方の性格だ。まさか、私をかばおうと必死のあまり、自分の人格まで見失ってしまったのか。危険だから止めさせないと。
 キーン、コーン……。休み時間終了を告げるチャイムに救われた。
「……ふん。漫画おたくと根暗女、あんたらお似合いだわ」
 捨て台詞を残して三人は散っていった。うち二人は教室を飛び出て自分のクラスへ。
 傍観していた生徒たちも着席する中、ただ一人風だけが呆然と立っていた。おそるおそる顔を覗き見ると、やや疲れた様子だけれど、控えめに微笑むいつもの風に戻っていた。

「さっき、守ってくれてありがとう」
 清掃を終えて教室に戻る途中、階段の踊り場で立ち止まって風に告げた。気勢を張って盾になってくれた姿には胸が熱くなった。やはり風のほうが私を支えていると思う。
「でも、あんまり無茶なことしないでね。風がどうにかなっちゃうかと思った」
「無茶……って? 夢中だったからよく覚えてない」
 眉がしゅんと垂れる。こういった反応は間違いなく普段の風だ。本当に身に覚えがないのかな。頭に血が上って、一時的に違う性格に切り替わったとでもいうのか。
「あのときの話だけど。やっぱり、進路希望には漫画家って書くつもりはない」
「そんな……。菊地さんたちがばかにするから? スサ絶対に才能あるのに」
「そうじゃないよ。せっかくかばってもらって、こんなこと言うの悪いけれど」
 私を応援してくれる風にだからこそ、きちんと自分の考えを説明しなければいけない。漫画は本当に楽しくてずっと続けたいけれど、それを目標や仕事に据えるのは気が進まない、ということを。残念そうな顔をしながらも、風はうんうんとうなずいてくれた。
「一番好きなことを仕事にするのが一番だと思ってたけど、そんなに単純じゃないんだね」
 と風は理解を示したけれど、実際には風の言い分のほうが多数意見ではなかろうか。将来の夢や進路というものに対して、きっと私がうがった見方をしているだけ。
「それだったら、スサもおうちの人に相談したらいいよ。私もそうしたから」
 にっこり笑って言う。風は進路希望なんてまるで見当がつかないから、早々にご両親に意見を求めたそうだ。かつては風に冷たかったご両親とも、今はちゃんと話ができているようだ。
 そして、その結果記入した第一希望はというと、小学校の先生。
「担任になったら、絶対にいじめのない学級にするんだ」
 おどけて話す瞳の奥には、静かなる熱意が燃えていた。

 

 小学生のとき、好きだった人がいた。
 本丸さんという上級生。硬い髪がつんつんに立っていて、いつも大げさな身振りをする。少年漫画のキャラクターが本から飛び出たような、見ていて退屈しない人だった。
 そして何より、とても絵が上手だった。私が三年生のとき、体育館への渡り廊下に一枚の水彩画が展示された。県のコンクールで優秀賞に選ばれたという四年生の作品。
 丘の上から夕日を望む一本の巨木。微妙に濃さの違う色を幾重にも塗り重ねて、幹の丸さや樹皮の凹凸にまで質感を持たせている。立体のオブジェが紙から飛び出していると錯覚するほど。徐々に赤く染まる雲の色合いは、静止画なのに時間の流れすら漂わせた。
 まるで格の違うその絵の素晴らしさに一目で心奪われた。渡り廊下に足を運んでは絵を眺めていると、ある放課後、茶色のランドセルを背負った児童が近づいてきた。
「いつも見てるね。僕の絵、そんなに気に入ったの?」
 胸の名札を見ると、絵に添えられた氏名と同じ。本丸さんとの出会いだった。私が毎日夢中で絵を見ていることに気づいていたらしい。急に恥ずかしくなった。
「う、うん。上手できれいな絵だから」
「ありがとさん。でも、いい絵を見分けられるってことは、きっときみも絵の素質があるんだよ」
 それが正しいかどうかはわからないけれど、ほめられて少し嬉しい気持ちになった。
 その後本丸さんと接するようになった。気づいたことは、言動が面白いというか変わっている。いきなり冗談を言ったり人前で歌いだしたり、一緒にいて恥ずかしくなることもあった。私につけたあだ名もなぜかイヤミちゃん。別に私が嫌味を言うからではない、と思う。
 そんな不思議さは嫌いではなかった。私も受け答えが変わっていると言われることがある。噛み合わない会話ですら楽しかった。変な子同士、馬が合うのかもしれない。
「下絵を正確に描くにはどうしたらいいの?」
「そうだね、とにかく対象をよく観察すること。描く面以外にもいろんな方向から見て」
 絵のこつを質問すると、自分の知識や経験を惜しまず話してくれる。教わったとおりにスケッチを描いてみて、それを本丸さんに見せて指摘してもらったりした。本丸さんの指導で上達するのが嬉しくて、みるみる絵を描く魅力に引き込まれていった。本丸さんも私につきあって練習するようになり、いつしか二人きりの美術クラブが生まれていた。
「下向かないで。まっすぐこっち見て」
「でも、自分のも描かないといけないし……」
 放課後の教室。向かい合っておたがいの似顔絵を描く練習。これがなかなか難しい。相手が下を向いていると顔がよく見えない。相手に顔を見せていると自分が描けない。
「ほーら、イヤミちゃんばっかり描いてるよ。顔上げて」
 仕方なく手を止めて顔を上げる。すると、こちらを見つめている本丸さんとばっちり目が合った。心臓がどくんと跳ねる。緊張のあまり全身硬直して顔を逸らせなかった。
 本丸さんは一センチも視線を外すことなく、私の顔をまじまじと観察している。まるで蛇に睨まれた蛙。背中に汗がにじむのがわかる。時折、画板に目を落としてサラサラと鉛筆を走らせるけれど、わずかの時間ですぐ戻ってくる。また目が合って逃げられない。
 似顔絵のための観察なんか忘れて、本丸さんの顔を一心に見つめていた。いつものおどけた雰囲気が消え去った、きりっとした鋭い目つき。私を捕らえて離さない真剣なまなざしに吸い込まれそう。
「後で、ほっぺたを赤く塗らないといけないな」
 不意の本丸さんのつぶやきで、初めて自分の顔が紅潮していることに気がついた。
「ええっ! やだ、そんな」
 羞恥心に堪えかねて両手で顔を覆い隠す。完全にノックアウト。結局、私は全然描き終わらなかったのに、本丸さんはしっかり下絵を完成させていた。しかも、私とは似ても似つかぬ美少女。
「見たまんまを忠実に描いただけだって。イヤミちゃんは本当にかわいい」
 頭の中まで茹で上がるかと思った。
 最初、本丸さんに抱いていた気持ちは、好意よりも尊敬の念に近かったと思う。
 その感情が変化してきていると、自分でもわかり始めていた。本丸さんと一緒に絵の練習をしてきた時間の積み重ねがあったから、こんなに絵を好きになることができた。
 これからも、本丸さんに絵を教えてほしい。絵を通じて、二人でもっといろんなことをしたい。本丸さんと一緒に絵を続けたい。そう願った。

 五年生の冬。放課後遅くになって、本丸さんのクラスに呼ばれた。静まり返って冷え冷えした教室。ストーブはすでに火が落ちているのに、二人きりの空間は寒く感じなかった。
 プレゼント。そう言って、私の手に小さな包みを握らせた。指先を重ねながら。リボンを解いた中身は、市販のチョコレート。学校にお菓子なんか持ってきたらいけないのに。
「相変わらず堅いな。今日くらいは大目に見てよ」
 その日の日付は、二月十四日だった。
 バレンタインデーの風習は国ごとに異なり、男の人が女の人に贈り物をするところもあるという。男でも女でも、好きな相手に渡したらいい。人と違うことをしたがる本丸さんらしい発想だ。
「私……本丸さんのことが好き」
 ずっと温めていた気持ちを、初めて口に出した。本丸さんは私への気持ちを示してくれた。お返しのプレゼントを用意していない。六年生はもうじぎ卒業してしまう。いろいろな条件が瞬時に頭の中を駆け抜けて、言うタイミングは今しかないと思い至った。
 こくん。優しく笑った顔で、本丸さんが私に小さくうなずく。動揺した素振りや嫌そうな顔は見せない。私が慕っていることくらい前から気づいていただろう。
 自分の思いが受け入れられたことに舞い上がり、勢いに任せて思いの丈をぶつけた。
「これからも、本丸さんと一緒に絵をやっていきたい。もっといろんなこと教えて。中学に上がっても」
 本丸さんや私が進学する中学校には美術部がある。本丸さんもずっと絵を続けると言っているから、美術部に入部するのは間違いない。正式な部活動ということなら気兼ねなく好きなだけ指導してもらえる。甘い学校生活を夢想した。
「私も美術部に入るから。一年間は別れ別れだけど、私のこと待ってて」
 祈りを込めるように、心からの願いを言葉に紡いだ。
 ずっと笑顔のまま話を聞いていた本丸さんが、近くの机の上に座って語りだした。
「ありがとさん。イヤミちゃんと絵の練習できて僕も楽しかった。でも……」
 でも、と口にした途端、本丸さんの表情から柔らかさがすっと消えた。裁判官が判決を言い渡す瞬間の法廷のような、緊迫した空気が一瞬にして辺りを覆う。
 そして。想像を絶するような審判が下された。
「もうさよならだね。実は、四月から附属中に行くんだ」
 県内の大学の附属中学校は部活動が非常に盛んなことで知られている。美術部の顧問の先生も、芸術関係で権威のある人らしい。真剣に画家を志す本丸さんは、そこを進学先に選び受験した。この日は合格通知が届いたことを私に知らせたかったそうだ。
 そんな話、喜べるわけがない。本丸さんが離れていってしまう。しかも、通学のために親戚の家へ引っ越すという。遠くなるのは学校だけでない。視界が暗転した。
「会えなくなるのは寂しいけどさ、どうしても附属で絵がやりたかったから」
 そんな顔しないで。寂しいと口では言いながら、顔つきは清々しく晴れやかだった。すでに新しい学校生活のことで頭がいっぱいなんだ。もう私のことなんかどうでもいいんだ。
 立ちくらみを起こしたようにその場にへたり込む。おしりをついた木の床は氷のように冷たかった。好きだと伝えて浮かれていたさっきまでの気分が嘘のよう。悪い夢なら醒めてほしかった。
 見かねた本丸さんが私の前にしゃがんだ。しかし、目と目が合っても、以前のように鼓動は早まらなかった。力強くて優しい目つきは変わらないのに、まるで別人のように映る。
「イヤミちゃんも絵の才能あるよ。それは保証する。だから、僕がいなくても必ず上達できるって」
 違う違う。うつむいたままぶんぶんと首を振る。本丸さんの慰めの言葉は私をさらに突き放した。そんなことを心配しているんじゃない。私の気持ち全然わかっていない。
 本丸さんと一緒に絵を描く時間が幸せだったのに。本丸さんが側にいてくれなければ絵をやる意味なんてないのに。絵の道を選んだ本丸さんに、私は見捨てられた。
 本丸さんが私の腕を掴んで立ち上がらせようとしたのを、無言で振り払った。自力で立ってふらふらと教室を後にする。さようならの言葉もなく。帰宅してから食べたチョコレートは、涙の塩味しかしなかった。
 本丸吏沙子さん。もう過去の人。

 もとより好きだったせいもあって、苦い思いをした後でも絵を続けている。写実的な水彩画よりも、イラストや漫画を多く描くようになった程度の変化はあるけれど。
 本丸さんを追って附属中には進まなかった。通える学区内にいなかったし、難関受験も自信がなかった。それ以上に、私の友だちは本丸さんだけではない。六年間仲よくしてきた同級生たちと離れ離れになるのだけは嫌だった。重大な決断をする度胸や、手元にあるものをなげうつ覚悟が、当時の私にはなかった。
 本格的に絵を学ぶために私を置いていった本丸さんを見てから、趣味や特技を生かすために特別な学校に通ったり職業に就くのが本当にいいことなのか、疑問を払えない。
 未来の目標に向かって進路を決めることは、確かに意義のあることだろう。しかし、一つの道を選ぶということは、それ以外の選択肢を捨てることにもなるから。何かを好きとか嫌いというだけで自分の可能性を狭めること、私はしたくない。

 

 家に帰ると、お父さんが庭先で鉢植えに水をまいていた。ゴムホースの先端を指先でつぶしてシャワー状に放水している。今日も夏真っ盛り。花たちは水浴びをして涼しそう。
 そうだ。私は思い立って、靴を脱いで芝生に上がった。
「お父さんお父さん、こっちにも水かけて!」
 木の前でぴょんぴょん跳ねて、自分がターゲットだとアピール。
「そんなことしたら制服が濡れるよ」
「もう汗でびしょびしょだってば。すぐ着替えるから、いいでしょう?」
 しょうがないなと苦笑いして、お父さんはホースを斜め上に向けた。大小の粒になった水しぶきが放物線を描いて頭上に降ってくる。突如生まれた虹に目を輝かせながら、両手を広げて全身で受け止めた。水の冷たさが爽快で、自然と笑い声が漏れる。お父さんもだんだん楽しくなってきたようで、庭を走り回る私の動きに先回りして雨を落とした。
 それで、気がついたらすっかり全身水浸し。すぐに家の脱衣場に駆け込んで、着ているものをみんな脱ぎ捨てた。バスタオルを体に巻いたら二階へ。着替えを済ませて下りてくると、お父さんは脱衣場にいて、洗濯機で制服のスカートを脱水していた。
「後で干して、それからアイロンかけてあげるから」
「えっ、いいよいいよ。自分でやる」
 断った後で、やはりお父さんにお願いしようかなと思ってしまう。お父さんは、男の人だけれどスカートのアイロンがけがとても上手。折り目をぴんと立たせて、しかも余分なしわを一つもつけない。いつも新品のスカートに足を通すような気分になれる。
「それよりも、買いたい物があるの」
 着替えのついでに自分の部屋から持ってきた財布を、お父さんの顔の前にかざした。いいよとうなずいて、お父さんが居間に向かう。私も後に続いた。
「ええとね、黒インクと、トレスペーパーと、スクリーントーンと……」
 品物の名前とおよその金額を申告すると、お父さんがその合計より少し多いお金を出してくれるので、受け取って財布にしまう。これで手続き完了。
 私は毎月のお小遣いをもらっていない。お父さんがあげると言ってくれたのを、自ら辞退した。自由に使えるお金なんて私にはまだ必要ない。
 なので、学校で使う物や欲しい物は、そのつど言って必要な金額だけ出してもらっている。お父さんに知られて困るような買い物はないし、お金をもらう立場である以上、包み隠さず話すほうがよいと思うから。
「志恵。ひとつ聞かせてもらっていいかな」
 家計簿に書きものをしながら遠慮がちに聞いてくる。急に改まったりして、変なお父さん。大きくうなずいて質問の続きを促した。
「さっきのって何の買い物なのか、気になって。美術部の道具?」
「え……。あれは漫画を描くのに使うんだけど。お父さん知ってると思ってた」
 漫画という単語に、うーんと首を傾げるお父さん。本当に知らなかったようだ。
 きちんと話したことがなかったとは言え、同じ家に暮らす子供の趣味に心当たりがないなんてことあるだろうか。いいや、お父さんならありうる。
 お父さんは私がいないときに勝手に私の部屋に入ったりしない。その代わり、掃除や布団干しはすべて自分でやる決まりだけれど。学習机の上に出しっぱなしの下絵や原稿に気がつかなかったのも、それならば納得がいく。部屋くらい別に見たっていいのに、潔癖症なんだから。
「今まで、黙っててごめんなさい」
 包み隠さずなんて言いながら、お父さんに伝えていなかった。これでは隠し事をしていたのと変わらない。実際、恥ずかしくてなかなか言い出せなかった部分はあるから。
「気にしなくていいよ。それにしても漫画か。志恵はやっぱり……」
「うん?」
「いや、何でも。頑張って続けられるといいね」
 それから、お父さんに原稿を見てほしいと頼んだけれど、よくわからないからと断られてしまった。画材の名前も知らないのならばやむかたない。私の漫画の趣味、学校では騒ぎにもなったのに、お父さんはあまり関心ないみたい。お母さんも同じだろう。私のすることに干渉しないから。
 みんながみんな、漫画が私の大部分だと思っているわけではない。そう考えたら、進路のことで肩肘張っていた力がふっと緩んだ。
「ねえお父さん。私もお父さんにひとつ質問していい?」
 お風呂場の方からガタガタ聞こえていた音は、いつしか静かになっていた。洗濯機の脱水が終わったようだ。アイロンがけ、お父さんみたいにできるように頑張ってみよう。

 夕飯の後、自分の部屋にて。かばんから進路希望調査のプリントを出して、第一希望の欄に「樹医」と書き記した。お父さんが子供の頃憧れていた職業で、話を聞いて私も気に入ったので書くことにした。第二と第三は適当に埋めた。もちろん漫画家ではなく。
 樹医。樹木が病気にかかっていないか診断したり、治療をほどこして元気にしたり、よく育つよう環境を整えたり。という、木のお医者さんを生業にしている人が何人かいるらしい。詳しいことはわからないけれど、そんな仕事があるのなら携わってみたいとすぐに思えた。
 それはまだ、窓の外で夜風に吹かれている木の葉みたいにゆらゆらした決意だけれど。

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