[やどりぎ] 畑仕事

 今日も一日の授業が終わって、待ち遠しかった放課後がやって来た。
 日直の号令とともに私たちは時間割から解放される。教室内にわっというざわめきが起こり、クラス全員が散り散りになる。仲のいい友だち同士で固まりになったり、部活動や委員会活動に向かったりと、めいめいの行きたいところへと急ぐ。
 帰宅ラッシュを避けるために少し時間をおいてから、私はかばんを持って教室を出た。昇降口で靴を履き替えて、校舎の裏手にあるグラウンドへと回る。
 よく晴れた水色の空に、綿菓子のようなふわふわした雲が浮かんでいる。あの雲に乗ってみたいとか、ちぎって食べたいと思い描いていた幼い時分が懐かしい。雲の正体は冷えた水蒸気の集まりだと授業で習ってからも、空を見上げるときの胸が躍るような気持ちはなくならない。
 グラウンドは視界が開けているから、空や周りの風景がよく望める。名前も知らない遠くの山の稜線もくっきり。そんなことを感じながら歩いてたどり着いたのは、グラウンドの片隅のスペースに作られた学校のサツマイモ畑。
 細長く土を盛った畝が何十本もずらっと並んでいる。畑はクラスごとに区分けされていて、クラス名が記された白い看板が目印になっている。紫がかった濃い緑色の、ハート型をした葉っぱが、地面に貼りついて午後の日差しを受けている。
 学校行事のひとつとして、全校でサツマイモを栽培している。春にいっせいに苗を植えた。クラス単位で育てて秋に収穫することになっている。収穫の日が今から待ちきれないけれど、そのためには水やりなどの世話をきちんとしないといけない。私のクラスでは話し合って、全員が当番制で水やりをすることにした。
 そして、今日の放課後は私が当番、というわけだ。
「みんなお待たせ。元気いっぱいだね」
 自分のクラスの畑を目の前にして、挨拶が口をついて出た。サツマイモのつるがほうぼうに伸びて所狭しと葉を広げ、もう土が見えないくらいに育っている。植物は生育が早いから、日に日に成長していくさまを追うのはとても楽しい。
 これだけ順調に育っているのも、クラスのみんなが当番を守って世話を欠かしていないおかげだろう。初めはあまり乗り気でない子もいたけれど、相手は生き物だから面倒だなんて言っていられない。
 当番でペアになっている香織は、私が教室を出るときにはいなかったのに、まだグラウンドに来ていないようだ。姿を探して周囲を見回すと、畑の脇の水道のところに青色のじょうろがひとつ転がっていた。そうだ、と頭上で豆電球が灯る。このまま香織を待つのも退屈なので、先に水やりを始めることにしよう。
 じょうろは使い終わったら屋外の用具小屋にしまう決まりになっているのに、誰かが置き忘れていったのだろう。後で私が戻しに行けばいい。じょうろに水道の水をくんできて、さあまこうと思ったとき、隣の畑がふと目に入った。
 私たちのクラスのと比べて、サツマイモに元気がない。葉は小さくて張りもなく、何日も水がかかっていないためか地面もすっかり乾ききっていた。
 このままでは干からびてしまう。私は見かねて、隣のクラスに先に水をあげることにした。
「はいお水。早く元気になってね」
 しおれかかった苗にたっぷりめに水を注ぐ。絵の具を塗るみたいに土が濃い色に変わっていく。表面がしっとりと濡れた葉たちは、ようやく与えられた水分を全身で思いきり吸いこんでいるように見えた。
 そんなサツマイモの様子を温かく見つめている私に、背後から大声が飛んだ。
「ちょっと志恵! 何してるの」
「わっ」
 突然の声にびっくりして、手からじょうろを落としそうになる。なんとか取っ手を握り直してセーフだったけれど、もし落としたら足下がびしょびしょになるところだった。
 振り返ると香織が立っていた。両手を腰にあててふくれっ面をしている。
「ごめん、待ってないで勝手に始めちゃって」
 片手だけで手を合わせる仕草をして謝った。けれど、私の言ったことは見当外れだったみたいで、香織は力が抜けたというように表情を緩めた。
「そうじゃなくて。そこ、うちじゃなくて一組の畑でしょ」
 そこ、と言って、私が立っている場所を指さす。どうやら香織は、私が区画を間違えて水をやっていると思ったようだ。
「うん、知ってる。一組の人たち、あんまり水やりしていないみたいだったから」
 それを聞いて、香織はあきれたという顔をしてみせた。私が本来するべきことじゃないけれど、べつに悪いことではないのだし。そんな顔されても困ってしまう。
「他のクラスなんか放っておきなさいよ。後で泣くのは自分たちでしょ。わざわざ志恵がやることないのに、ほんとお人好しなんだから」
「お人好しだなんて、そんなつもりじゃ。ただ、この子たちがのどカラカラでかわいそうだったから」
「この子たちが? のどカラカラ?」
 香織は私の台詞をそっくりなぞるように聞き返すと、それから声を上げて笑いだした。まだ野球部や陸上部の練習は始まっていなくて、人気もまばらなグラウンドに笑い声が響き渡った。
 ……私、そんなにおかしなこと言ったかな。自分で考えてみてもわからない。
「志恵って、基本はいい子だけどさ。その、ときどき不思議なこと言うよね」
 目尻に浮かんだ涙をぬぐいながら香織が言う。まただ、と私は思った。身に覚えがないのに人に笑われるようなことを言ってしまった。
 こんなことで面白がられるのには慣れっこだ。以前から私は、漫画を描く趣味に限らず、少し変わっていると周りから見られている。会話の受け答えや考え方が人の感覚とずれているらしい。
 小学校からのつきあいである香織は、しょっちゅう私をからかう一方で、そんなところが面白くて憎めないと言う。ほめ言葉なのか怪しいところだけれど、私が変な子でも仲よしでいてくれる、そのことはいつもありがたく感じている。

 それから、二人で自分たちのクラスの畑の水やりをした。一緒にやればそれほど時間はかからない。終わってから、私が隣のクラスにも水をまいているのを見て、香織もぶつくさ言いながらだけれど加勢してくれた。
 私は知っている。本当は香織も、枯れそうな植物を見て見ぬふりできる性格ではない。草花が好きな子だから。色とりどりの花に目を輝かせたり、シロツメクサの王冠を編んだり、小学校の花壇の手入れを積極的にしていた姿が思い出される。
 きっと、よそのクラスのためだと思うから面倒に感じるだけ。それは私も同じ。私だってすすんで人の分まで仕事をしょいこもうとは思わない。
「一組と言えば、正樹って最近印象よくなったと思わない?」
 用具小屋にじょうろを返しに行く途中、香織が尋ねてきた。正樹ちゃんのいるクラスだ。香織もかつて、正樹ちゃんを囲んでいたファンの一人だったから、このところ近寄りがたい雰囲気がなくなった正樹ちゃんのことを喜んでいるだろう。
 ただ、その話題を人づてに聞く私の心境は複雑だ。正樹ちゃんは私とのやりとりの中で自分を変えるきっかけを見つけてくれた、そう思っているから。当時ファングループに入っていなかった私が正樹ちゃんと個別に親しくしているなんて知られたら、香織や他の子に何て言われるか。もちろん、今まで正樹ちゃんが抱えていた心の問題をおいそれと口外するつもりはないけれど。
 私がそんな考え事をしていることなどおかまいなしに、香織はすっかり気をよくして言葉を続ける。
「前は愛想悪くて恐かったけど、髪バッサリ切ったからかな。見違えたみたいにハンサムになって。昨日廊下で会ったら笑ってくれたんだよ! もう私、ひさびさにしびれちゃった。ねえ、今から一緒に一組行かない? 正樹まだ教室にいるかな」
 じょうろはとうに片づけたのに、香織は小屋の薄暗い天井をうっとりと見上げたまま動かない。ため息までもらして、すっかり自分の世界だ。
「香織、ハンサムなんて言ったらよくないよ。正樹ちゃんも女の子なんだから」
 エンジンがかかりすぎた香織をなだめようとそう言った。ところが香織はそれを聞くと、悪だくみでも思いついたような笑顔を浮かべて私の顔を見た。
「へーえ、志恵がそんなこと言うなんて意外。私知ってるんだから。志恵も隠れキリシタンだったってこと」
「なっ、何のこと? とにかく今日はパスね。家の用事があるからここでバイバイ」
 とっさにそう言って、香織を残したまま小屋を飛び出した。駐輪場まで一目散に走りながら、自分の顔がみるみる赤く染まっていくのを感じる。ひそかに正樹ちゃんに憧れていたことを、まさか気づかれていたなんて。恥ずかしさに全身が茹で上がるかと思った。

 そんな動揺も、自転車のスピードに身をゆだねているうちにだいぶ落ち着いてきた。涼しい風が体の火照りを静めてくれる。まだ少し頬が上気しているけれど。
 そのうち私は家に着いた。学校からノンストップで家の前の坂道まで上りきったから、足が思うように動かなくて、よろけるように庭の大きな木に抱きついた。ただいま、って声をかけて頬を寄せる。ごつごつした樹皮の感触が気持ちいい。耳をくっつけると、幹の中から声らしきものが響いてくるような、こないような。
 しばらくそうしていると、家をはさんだ向こう側から物音が聞こえた。それで私は思い出した。ちょっと言いわけがましいけれど、家の用があるというのは本当のこと。今日はもうひとつ畑仕事が待っているんだった。小走りで裏手に回る。
「お父さん、もう始めちゃってる?」
 お父さんは地面にしゃがんで何かをしていた。私の声に気づき振り返って立ち上がる。首からタオルをかけ、軍手をした手にはむしった雑草がつままれている。
「おかえりなさい。植えるのはこれからだよ。志恵が帰るのを待っていたから」
「本当? やった」
 喜ぶ私に、お父さんはほら、と言って足下のケースを指し示した。黒いビニールの鉢が並んでいて、数枚の葉をつけたかわいらしい苗木が一本ずつ植わっている。その場にしゃがんで苗を間近に観察する。芽が出てからどれくらいの期間でここまで育つのだろう。やがてもっと大きくなって、ナスやししとうの実をつけるのだから。植物が生きる力には感心する。
 このナスとししとうの苗を畑に植える、というのが今日の仕事。ぜひ手伝わせてほしいって、前々からお父さんにお願いしていた。今日は小庄さんのおじいちゃんも来てくれることになっている。この苗も、種から発芽させるのは難しいというので小庄さんから分けてもらったものだ。
「あれ、おじいちゃんはまだ来ていないの?」
 私がお父さんに尋ねると、後ろのキュウリの葉がガサガサと鳴った。
「わしならさっきからおるよ」
 まばらに広がった葉っぱの横から、突然おじいちゃんがぬっと顔を出したものだから、私は声も出せずに後ずさりした。まったく気配がわからなかった。私よりも先に来ていて、お父さんと二人で畑の手入れや植えつけの準備をしていたそうだ。
「お……おじいちゃんってば、おどかさないでよ」
「カカカッ、これぞ忍法隠れ蓑の術、なんてな」
 おじいちゃんは高笑い。いつも野良仕事に出ているためだろう、浅黒く日焼けした顔をくしゃくしゃにして。年齢は重ねてもいつも元気いっぱいだ。
「志恵、すぐ後ろにいたのに気づいてなかったの?」
 なんて、お父さんにまで笑われてしまった。私ってそんなに鈍感なのかな。
 などと落ち込んでいる場合ではない。私は一旦家に入って制服を着替えてきた。着古したシャツにスパッツ姿。ぶかぶかの軍手をはめて苗植えの作業に加わった。
 お父さんが、裏庭を畑にして家庭菜園を始めたいと言い出したのは五年くらい前のこと。
 働きに出ていないので手持ちぶさただから、と動機を話した。農家の小庄さんと懇意になったことも影響しているだろう。私は面白そうと喜んだけれど、お母さんは、素人にはとても無理といい顔をしなかった。
 実際、お父さんには野菜作りの知識がなかった。小庄さんのおじいちゃんに教わったり道具を借りて、家事の合間には裏庭に出て土を耕した。とても生き生きした表情。それまで趣味らしい趣味のなかったお父さんは、みるみる虜になった。
 それでも、下手の横好きということに変わりはなかった。最初の年に採れたのは、しわしわの熟れたミニトマトだけ。味見をしたお母さんが思いきり顔をしかめた。けれど、お母さんはその顔で「次はきっとうまくできるわよ」と言った。お父さんの家庭菜園をようやく認めてくれた瞬間だった。
 それからは少しずつこつを覚えていって、作れる野菜の種類も増えていった。自分で育てた野菜を自分で調理して家族にふるまう、そのときのお父さんの満足げな顔といったら。また野菜だけでなく、家の周りに花を植えたりプランターを置くようになったのもこの頃から。おかげで家の雰囲気がいっそう華やいだ。
 お父さんには栽培や園芸の才能がある、って私が言うと、笑って否定される。これは僕の力じゃなくて小庄さんのおかげだって。農業のプロであるおじいちゃんに教えてもらって、手伝いにも来てくれたからノウハウを覚えることができたって。
 お父さんがそう言いたくなる気持ち、今こうしておじいちゃんと三人で畑仕事をしていると共感できる。何でも知っているおじいちゃんの適切な指示で、てきぱきと土を掘って苗を移し植えて水やりをして、ってやっていると何だか楽しい。昔から親しんでいるおじいちゃんと一緒に何かをすることの喜びも、多分にある。

 ひと通りの作業が終わるころには、空はすっかり真っ赤になっていた。
 私は小庄さんのおじいちゃんと一緒に、縁側に腰かけて夕焼けを眺めていた。大木の葉が夕日をはじいて、まるでクリスマスツリーのようにきらきら光っている。あの台風の日に刻まれた、私とこの木との思い出は、同時に私とおじいちゃんとの思い出でもある。
 ひと仕事すませた後の心地よい疲労感が全身を包む。隣のおじいちゃんを見ると、さすがに体が疲れたのか、両腕を上げて伸びをしている。私は声をかけた。
「おじいちゃん、肩たたいてあげる」
 おおそうかい、とにこやかに微笑むおじいちゃん。私は縁側に上がっておじいちゃんの後ろに回り、ひざ立ちの姿勢になって肩をたたき始めた。
 大きな背中。私を片腕で担いで救い出しただけあって、肩から腕にかけては高齢とは思えないほどがっちりしている。お父さんも私よりは大きいけれど、男の人の中では小柄なほうだから。間近で見るとおじいちゃんの体つきはまるで違う。
 そういえば私、お父さんに肩たたきってしてあげたことあったっけ。仕事でくたくたのお母さんにはよくするけれど、お父さんはちっとも疲れた素振りを見せないから。そんなことがふと頭をよぎる。
「志恵ちゃん。もう少しばかり強くやってくれんか」
 正面を向いたままおじいちゃんが言う。私ははーいと返事をして、より力をこめてたたいた。おじいちゃんは気持ちいいのか、ふうっと息を吐いた。
 タントンタントン。心の中でリズムを唱える。遠くでカラスが鳴いている。夕日に照らされた縁側。この光景が当たり前の日常であるかのように感じられた。
「そうしていると、まるで本当のお祖父ちゃんと孫みたいだね」
 と、横から声がかかる。お父さんがお盆を持って現れた。私たちの和気あいあいな様子を、にこやかに目を細めて眺めている。
「みたい、じゃなくて。本当に孫なんだから。ね、おじいちゃん」
「ああ、そうじゃったな。いつの話だったかのう」
 小庄さんのおじいちゃんはまどろんでいたのか、半分寝言のような声で返事をした。昔のことだから覚えているのやらいないのやら。お父さんは笑顔のままだ。
「志恵も休んでお茶にしよう。切ってきましたよ、味見してください」
 お父さんはお盆を縁側に置いた。湯呑みが三つと、小鉢に入れたキュウリの塩もみ。今日収穫したばかりのものだろう。お父さんが小鉢をおじいちゃんの前に差し出すと、おじいちゃんは爪楊枝が刺さっているひと切れをつまんで口に放った。カリッカリッとおいしそうな音が響く。さて判定は、とひとり息を飲む私。
「うむ、これはうまい! 君は大したもんだ。これなら売りに出せるぞ」
「はは、お父さんにそう言ってもらえるなんて恐れ入ります」
 お父さん、頭をかいて照れ笑い。私もよかったねって声をかけた。続いて私も味見する。みずみずしさと固い歯ざわりのバランスがよくて、こんなにおいしい野菜が自分の家の畑で採れたなんてちょっと信じられないくらい。
 最近気づいたことなのだけれど、お父さんは、小庄さんのおじいちゃんをときどき「お父さん」と呼んでいる。まあ、私が孫宣言をしてしまったから、自動的にお父さんはおじいちゃんの子ということになるけれど。でも、単に私に話を合わせて呼んでいるというふうではない。親しみをこめて自然な感じで呼んでいる。
 だから、お父さんもおじいちゃんのことを身近な存在だと感じているんだろうな。日が暮れて帰って行くおじいちゃんを、私たちは並んで手を振って見送った。

 

 まだ鮮明に覚えている。私が小学二年生のときだ。
 私たちと小庄さんのおじいちゃんは、すでに日常的におたがいの家を行き来しあう間柄になっていた。その日もおじいちゃんがうちに来ることになっていたのに、約束の時間を過ぎても現れなかった。
 お父さんが電話をかけてみると、意外な知らせを受けた。おじいちゃんは急に起きられない状態になり家で寝たままだという。健康そのものだったおじいちゃんが体をこわすなんて何かの間違いだと思ったが、同時に約束を反故にする人でもない。突然の病気にかかったのでは、と私は気がかりになって、お父さんにお願いしてお見舞いに行くことにし、予定とは反対に小庄さんの家を訪ねた。
 代々続く大農家の立派な門をくぐり、松の木や庭石が並ぶ庭を抜けて、お屋敷と呼んでも差しつかえないほど大きな平屋建ての一番奥、おじいちゃんの寝室に私たちは通された。遊びに来ては探検ごっこをしていた私も初めて入る部屋だった。
「志恵ちゃん、今日はすまなかったね。心配をかけてしまった」
 おじいちゃんは布団に入ったまま私に声をかけた。声や表情はいつものおじいちゃんで、別段苦しそうな様子や弱々しさは感じられなかった。しかし、体が言うことを聞かなくて起き上がれないらしい。腕を伸ばして、いつものように私の頭を力強くなでてもくれない。
「おじいちゃん、ご病気なの? どこか痛いの?」
 私はおじいちゃんに詰め寄った。それから、痛いの痛いのとんでけをしたり、家から持ってきた折り鶴(一羽)を枕元に置いたり、私が風邪を引いたときにお父さんがしてくれるみたいに、布団の上から胸のあたりをさすったりした。おじいちゃんは問いかけには何も答えず、ただ穏やかな笑顔で私の顔をじっと見ていた。
 私にはその笑顔が、かえって痛々しく映った。何かを私に隠しているのではないか。本当は重い病気にかかっているのに、痛みをこらえて私に見せまいとしているのではないか。そう考えると胸が締めつけられる思いがした。……自分のことながら、幼いのによくもそこまで考えがおよんだものだ。
 おじいちゃんの奥さんであるおばあちゃんが寝室に入ってきた。普段と変わらない様子で、私に袋菓子をくれた。いつもは遠慮もなしに受け取る私だけれど、この日ばかりはそんな気になれなかった。おばあちゃんは真剣な面持ちで、おじいちゃんが私との触れ合いを生きがいに思っている、と告げた。まだ子供の私が、誰かの人生の支えになっているなんて。どう受け止めてよいものかわからなった。
 そして、おばあちゃんから小庄さんのご家族の話を聞いた。おじいちゃんたちには二人の息子さんがいるけれど、それぞれ都会で会社勤めをしていて何年も帰ってきていないそうだ。また、どちらも私のお父さんより年上だけれどまだ結婚していなくて、だからおじいちゃんにはお孫さんがいない。
「死ぬ前に孫の顔を見たかったんじゃが、もう叶わんかのう」
 私たちの話を寝床で聞いていたおじいちゃんが、ぽつりとつぶやいた。まるでお別れの挨拶ではないか。あんなに私に優しくて、いつも幸せな気持ちにしてくれるおじいちゃんが、どうしてこんな寂しい思いをしなければならないのか。そんなのかわいそうだ。いても立ってもいられなくなっておじいちゃんに飛びついた。
「おじいちゃん、私おじいちゃんの孫になる」
「志恵ちゃん……」
 お父さんもおばあちゃんもこの発言には驚いたそうだ。おじいちゃんも一瞬目を見開いたけれど、またすぐに静かに笑った。明日もあさっても遊んでくれると、ずっと近くにいてくれると思っていた、そのおじいちゃんが死に際のことを口にしている。とても耐えられなかった。半べそをかきながら私は思いの丈をぶつけた。
「私もおじいちゃんのこと好きだもん。早くよくなって、またいっしょに遊んでよ。おじいちゃんの孫になるから、だから元気になって。いなくならないで。おじいちゃん死なないで!」
 そこまで言うと、私は大声をあげて泣き出した。寝室じゅうがビリビリと震えるほどの泣き声だった。そのまま泣き疲れて眠ってしまったようで、気がついたら自分の家のベッドにいた。横でうつらうつらしていたお父さんを揺すり起こして、おじいちゃんの容体を尋ねた。
 症名はぎっくり腰。――私は思いきり脱力した。

 後日、夜遅くに仕事から帰ってきたお母さんにその出来事を話した。私とお父さんはもう夕飯を終えていて、お父さんはお母さんのおかずを温め直してからお風呂に行った。一人きりの食事なんて寂しいだろうと思って、私はグラスにジュースを注いでお母さんの隣に座った。
 お母さんも、ぎっくり腰とはいえおじいちゃんが体を悪くしたことにはびっくりしていた。私の孫発言については、優しいことを言ったとほめてくれた。志恵がよその家の子になっちゃうのか、としみじみ冗談をつぶやいて。無論、口約束だけで本当の孫になれるわけではないことはお母さんもわかっているだろう。
 それから私は、今回の一件の後浮かんだ疑問をお母さんにぶつけた。それは私の実の祖父母についてである。
 お父さんとお母さんにもそれぞれご両親がいるはずなのに、私はそれまで一度も会うどころか、話を聞いた覚えもなかった。小庄さんのおじいちゃんがあまりに身近だったから、気づくきっかけすらなかったのだと思う。私のお祖父ちゃんやお祖母ちゃんなら当然会いたいし、あちらだって孫の顔を見たがっているはず。
 お母さんは箸を置いて、親とは仲違いしたと話し始めた。お母さんのご両親は一人娘のお母さんを大切に育て、大学にも出してくれた。そのことはお母さんも感謝しているそうだけれど、お父さんとの結婚や家庭と仕事の両立について意見が合わず、しだいに反発するようになったという。
「私が自立して何やろうと勝手じゃないの。そんなことまで束縛される筋合いはないわ」
 感情を押し殺すような低い声。拳を震わせていた。いつもは事務的に淡々と話すお母さんの様子がまるで違うので、私は心なしかおびえていた。
 そして、ついにお母さんと仲直りすることもないまま、お母さんのご両親は他界した。私が生まれて半年もたたないうちに、相次いで急病で倒れたそうだ。ご両親が一番反対していたのが私を産むことだったらしく、それを娘に押し切られたことがよほどショックだったんじゃないか。お母さんはそう冷酷に笑った。
 私には返す言葉もなかった。母方のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんは亡くなっていて、もう会えない。その事実だけでもつらいのに、最後までお母さんといがみ合ったまま世を去ったなんて、きっとやりきれない気持ちだっただろう。お母さんもお母さんだ。少しもご両親の言うことに耳を傾けず、死んでしまったことを省みもしないで呑気に笑うなんて、神経を疑ってしまう。
 にらみつけるような視線を送っている私を、お母さんはきゅっと抱き寄せた。
「そんなに怖い顔しないで。両親をたて続けに失ってもちろん悲しんだし、もっと話し合えばよかったって反省もしているわ。だけど、二人に逆らったことは後悔していない」
 まだ言っている。お母さんのそのわがままがお祖父ちゃんとお祖母ちゃんを心労に追い込んだんじゃないの、って言い返してやりたかった。けれど、お母さんの腕の中はとても温かくていい匂いがして、抱かれているうちに涙がにじんできた。自分が何に対して泣いているのかわからなかった。
「どうして……」
「だって、あなたに会えたから」
 あっ。体の中を一陣の風が吹き抜けるような感覚がして、私は気がついた。
 たしか、お母さんのご両親は出産にも反対したと言っていた。だから、もしお母さんが言われたことに従っていたら、私は生まれてこなかった。お父さんとお母さんの子として、この世に生を受けてこなかったことになる。それは嫌だ。
 お母さんは、たとえご両親と意見が食い違っても、自分の決めた生き方を貫いたんだ。夢中になれる仕事も、支えてくれる夫も、新しい家族も、望んだものは必ず手に入れた。それが自分の幸せをつかむための道だと信じたから。
 私の顔を両手で包んで、頬を伝い落ちる涙を親指でぬぐうお母さん。その後から後から、私の目は涙をこぼした。お母さんが反対を押し切ってまで私を産んだ、その確固たる意志を知ったから。ご両親に楯突いてでも追い求めた今の生活や、そして私のことを、本当に好きでいてくれる。そう実感することができたから。
 だから志恵も大きくなったらそうしなさい。って、お母さんは言った。親だって人の子なのだから絶対ではないからと。そのときの私には、いつか自分がお父さんやお母さんに背く日が来るなんて想像できなかったけれど、でも実際にそうやって生きてきたお母さんの言葉はずっしりと重かった。
 一方、お父さんのご両親については、口を開くのをためらった。お母さんのところよりもさらに複雑な事情があるようだった。理由があって話せない、と正直に白状して、七歳の私に頭を下げた。その辺は大人の対応だと思う。子供が相手でもいい加減にお茶を濁したりはしない。
 話せないというより、全然連絡を取っていないのでお母さんも状況をつかみきれていない様子だった。それならお父さんに直接聞いてみよう、と思い立った私に先回りするように、目の前に人差し指を立てて制した。
「お願い、お父さんにはこのことは触れないであげて。とても根深い問題だから。志恵なら聞き分けてくれるわよね」
「うん、いいよ」
 素直にうなずいた私の頭を、ありがとうと言ってなでた。お母さんにそうまで言われては、聞き分けがよくない子でも引き下がるほかない。それに、不用意な質問でお父さんが傷つくかもしれないのならば、もちろんそんなことしたくたい。
 それよりも、いつも笑顔で怒鳴ったこともなくて、誰ともけんかなんてしそうにないお父さんが、自分のご家族とそんな状態だなんて思いもしなかった。それまではただ優しいお父さんとしか映らなかったけれど、そういった心の深い部分を見せないように気丈にふるまっているのかもしれない、などと考えるようになった。
 だから思う。お父さんは、事情があって私を自分のご両親と会わせることができないから、代わりに小庄さんのおじいちゃんと遊ばせていたのかもしれない。そしてお父さん自身も、おじいちゃんをお父さん代わりに思っているだろう。おじいちゃんから畑仕事を教わるときの、童心に返って父親を見上げる男の子のような純粋なまなざしが、すべてを物語っている気がした。

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