[なのはSS] My graduation(サンプル)

 窓から差し込んだ西日がおぼろげに反射するリノリウムの廊下を、はやては歩いていた。
 かすかに鼻をつく消毒液の臭い。この建物で長い時間を過ごした少女にはむしろ慣れ親しんだ空気だった。けして帰るべきところではないのに、居心地のよさすら抱かせる。
 かつて車椅子で行き来していた通路に、今は自分の足で立っている。あれから身長も伸びて景色も少しだけ違って見えた。
 途中の学年から小学校に編入したはやてにとって、それまで通いつめ、時には寝泊まりもしたこの場所は、最初に「卒業」したところと呼んでいいかもしれない。
 海鳴大学病院。市の郊外に建つ、青い海をはるか望む総合病院。病室が並ぶフロアにはやてはいた。
 入院している誰かの見舞いに来たわけではない。会いに来たのは病院関係者。約束していた面会時間まで少し時間が空いたから、何の気はなしに病棟内を散歩していただけのこと。
 ――過日を懐かしんでいるのだろうか。心のどこかで、別れを惜しんでいたりするのか。
 取り留めのない行動の理由を自己分析しながら歩いていると、男の子の元気な声が思索を遮った。
「うん! 退院したら友達といっぱい遊ぶんだ」
 ちょうど横を通りがかった病室の中からだった。ドアは開け放たれていたので、足を止めて室内の様子を探った。
 両サイドに並んだベッドのうちの一つに、声の主と思われる少年の姿があった。体は起こしていて顔の血色はよく、脇に立つ白衣姿の大人と手振りを交えながら話している。
「いいわね。みんなと何して遊びたい?」
「サッカー!」
「それは……。退院後すぐは激しい運動はできないの。もう少しだけ我慢ね」
「えーっ! じゃあサッカーできないの? やだやだー」
「ちょっとずつ生活に慣れて、体力が戻ったら好きなだけ遊べるから。――約束できる?」
「ううー……。はーい、先生」
 意地っぱりでもやはり男の子、女の人には弱いようだ。微笑ましくて思わず頬が緩んだ。
 先生と呼ばれたその人物、背を向けていて顔は窺えないけれど、患者に慕われるよい医師だろうと推察された。腰を低くかがめ少年と目の高さを合わせて会話する姿勢――真摯に相手に向きあおうとする態度の表れだ。ちょっとした動作に人の本心は垣間見えるものだから。
 ……というより、さすがに誰かわかった。落ち着き払った声も、短髪の丸い後ろ頭もはやてはとてもよく知っている。そして彼女こそ、この日会うことになっていた相手でもある。
 部屋の入り口で立ち尽くしているはやての気配に、先に少年が気づいて顔を上げる。視線につられるようにして女性医師もこちらを振り向いた。
「はやてちゃん――」
「こんにちは。ご無沙汰してます……石田先生」
 この病院に勤務するはやての主治医、石田幸恵先生。
 予定外の場所ではやてと出くわしたからか、常にクールな表情に驚きの色が混じっている。
「ひょっとして、私を捜しに……?」
「いいえっ! 時間までぶらぶらしてたらたまたま見つけて」
 胸の前で手を振って否定する。二人のやりとりを傍で見ていた男の子が白衣の袖を引いた。
「ねー、先生の知ってる人ー?」
 説明しようとした石田先生に先んじて、はやてが口を開く。部屋の入り口からでも届く大きく明朗な――誇らしげな声で。
「わたしもちっちゃい頃、脚の病気で歩かれへんかったんを先生が治してくれたんよー」
 その後、病室を後にした石田先生と連れだって当初の訪問先へと向かった。床面を鳴らす二人分の足音が長い廊下の先まで木霊する。
「お仕事ええんですか? まだ時間なんと……」
「ちょうどさっきの子で終わりだったの。患者さんの見回り」
 クリップボード片手に唇の端を上げ、ウィンクする。幼い頃にはあまりお目にかかれなかった茶目っ気。先生にしてもはやて自身にしても、月日というのは人を変化させるものだ。
 ――当時は二人とも深刻に思いつめていて、気楽に笑う心のゆとりなんてなかったから。
「背、随分高くなったわね。そのうち追いつかれるかも」
「ありえませんって。クラスの中でもちっこいほうやのに……あ、こんにちはー」
 病院内には長年勤務する看護師などはやての顔見知りも多く、すれ違っては言葉を交わす。
「スタッフみんな喜んでるわ。はやてちゃんがよくなったこと」
「はい――。みなさんにはほんま感謝してます」
「もちろん私も……ね。こんなふうに一緒に歩けるなんて」
 先生の横顔に目をやった。正面を向いたまま目を細め、時折何かを思い出したのか感慨深げに小さく頷いたり。
「あははー……。何年前の話ですか、それ」
 おどけてみせたのは、自分も同じ気持ちでいたことを知られるのが照れくさかったから。
 石田先生と隣りあって肩を並べられる日が来ようとは――。
 お互いのペースを意識して歩幅を合わせる、目的地までのほんのわずかな道のりにも心が躍る。羽が生えたように軽やかなステップを一歩また一歩と踏みだした。

 

 神経内科の診療室。机上が几帳面に整頓されたデスクチェアに石田先生が腰かけ、対面する患者用の丸椅子にはやても腰を下ろした。かつて診察を受けていたときと同じ位置関係。
 唯一異なるのは、二人の手に先生自ら入れてくれた湯飲み茶碗が握られている点くらい。
 うららかな午後のひととき、お茶しながら積もる話に花を咲かせるのもいいかもしれない。しかし――そんなことのために先生の元を訪ねたのではない。伝えたいことが、あった。
「……何のこと?」
 真顔で聞き返す石田先生。ずっと答えを返すのを先延ばしにしていた、というはやての告白に対して。ふと柔らかさの消えたはやての顔つきから、ただの世間話をしに来たのではないと察したようだ。
「わたし――先生のうちの子にはなれません」
 抑揚をつけずに端的に告げると、先生がはっと顔を上げた。口は薄く開き、はやての視線から逃れるように目が泳ぐ。やがて、自分を落ち着かせるためか一つ息を吐いた。
「ああ……。昔言ったかもしれないわね、そんなこと。聞き流してくれてよかったのに」
 痛いところを突かれた、とばかりに前髪をかき上げて弱々しく頬を揺らす。……お互い過ぎた話、気にする必要なんかない。はやてはにっこりと笑顔を返した。
 天涯孤独だったはやてを見かねて持ちかけたのだと思う。
 はやてには最初から承諾する意思はなかった。同情を誘っているようで先生に申し訳なかったし、唯一の心の拠りどころであるあの家から出るなんて考えられなかった。独りきりの生活も苦痛ではなく、それは病気を治すことや生きること自体に執着していなかったから。
 せめて医者と患者の関係でなかったら――。はやての担当医は石田先生しかいないけれど、先生の受け持ちは何人もいる。ある患者だけ特別に目をかけたりしたら問題だし、何より負担が重くのしかかる。そこは踏み越えてはいけない一線だと、幼いはやても理解していた。
 それでも、一緒に暮らさないかと誘ってくれた気持ちは素直に嬉しくて、すぐに断るのは忍びなかった。ずるずると返事を渋っているうちに……あの誕生日を迎える。
「シャマルさんたち『ご親戚』が現れてから……はやてちゃん、変わったわ」
 それは本人が一番自覚していることだったので、はい、と頭を大きく上下させた。
 一挙に増えた家族との賑やかな新生活。その親密ぶりや絆の深さは石田先生も幾度となく目にしたことだろう。今になってそれでもはやてを引き取りたいとは言い出すまい。
「じゃあ、これからもあの家でみなさんと暮らすのね。進学なんかは……」
「そのことですけど。――卒業したら引っ越そう思うてます」
 管理局での仕事の山は日増しに積み上がり、海鳴とミッドの往復ではもはや立ち行かなくなっていた。今の学校を出たら一家で移り住むことを決め、すでに新居探しの段階にある。
 自分の胸元、黄土色のブレザーの襟を慈しむように指でなぞった。数えきれない思い出が染みついたこの制服ともあと一年足らずでお別れかと思うと、一抹の寂しさが胸に過ぎる。
 残りの学校生活や友達との時間を大切にしよう、という思いを強くする。自分の足で毎日通える喜びを――ささやかな、しかしはやてには特別大きな喜びを噛みしめながら。
 その喜びは、かつて石田先生と二人三脚で目指し続けてきたものだったから。思春期の少女として日々を謳歌し、未来へと羽ばたくことが恩返しになると信じている。
 ――それによって恩人の元から巣立つという身勝手な選択をしたとしても。
「ずーっと遠いとこです。誰も知らんような別世界」
 引っ越しってどこに、という問いかけに答えるはやて。……別に嘘は言っていない。
 しかし石田先生にははぐらかされたと受け取られたらしく、椅子に深く背をもたれて目を伏せた。曇った表情の裏に隠された胸の内を推し量ることは難しくなかった。
 笑顔を取り戻すのは困難と思われた薄幸の少女が、勝手に一人で幸せを見つけ、どこへとも告げず立ち去ろうとしているのだから。
「……駄目ね。患者さんの将来を素直に祝えないなんて、担当医として失格」
 小さく自嘲してフッと息を漏らす。痛々しい笑い顔を向けられ、はやても胸が詰まった。
「そんなことないです。わたしのために……誰より一生懸命になってくれたんと違いますか。石田先生ほど立派なお医者さんはいません。そやから脚の病気も……」
「はやてちゃんが自分で頑張っただけよ。――肝心の原因は結局何一つ判明しなかったもの」
「それは……っ」
 正論だった。核心を突く指摘に口をつぐむより他ない。空になった湯飲みを握りしめた。
 闇の書のこと、魔導のこと、次元世界のこと――。
 秘密にしなければと思ってこれまで言い出さなかったのではない。両親のいないはやてのよき理解者だった石田先生には話しておきたかった。洗いざらい打ち明けたかった。でも。
(わたしの脚が麻痺してたんは、魔導書の呪いが原因でした)
 ……もしそんなことを口にしたらどんな反応をするだろう。難病から救うため何年も心血を注いできた治療が無為だったなんて知ったら。もちろん、生活面のサポートや健康管理、回復後のリハビリなどは本当に石田先生の力が不可欠だったし、全くの徒労ではないにしても。
 今も先端医療に携わる人にそんなSFみたいな話、耳に入れるわけにはいかない。
 それが……病院から少しずつ足が遠のいた最大の理由だった。
 完治してからだって、はやてが顔を出せば先生は笑顔で迎えてくれたし、はやても会いたかった。その一方で、隠し事をしたままこれ以上向きあうのは心苦しくて耐えられなかった。
 相反する二つの感情を抱え、ちょうどよい距離感を測りきれないまま今日に至った。
 一年後には旅立ちを迎える。この町から――この世界からはやては姿を消す。それまでにけじめをつけておきたかった。石田先生に対しても、自身の気持ちに対しても。
「今日はさよならを言いに来たんです」
 そう告げてから、おもむろに丸椅子を立った。湯飲みをデスクに置いて一歩詰め寄る。見上げる石田先生の顔は混乱から引きつっているようにも見えた。
 そんな様子に構うことなく、プリーツスカートの端を両手でつまむとたくし上げた。舞台の幕が開く。
「せやから最後に……診察してくれませんか。わたしの脚」
「な――」
 制服の下から伸びたむき出しの太ももを見せつけながら、さらに前へ踏み出し、スカートをめくる。やがて視界に入った白色の逆三角形に、石田先生が思いきり赤面してたじろいだ。
「は、はやてちゃん! 何してるの、やめなさいこんなこと」
「遠慮せんでええんですよ……? 気づいてましたから」
 何に、と聞き返されるよりも先に次の句を続ける。
「先生が、やらしい気持ちでわたしに触ってたこと」
「ッ……」
 椅子の上で腰が前方にスライドし、上体がずるずると崩れ落ちた。これまで保っていた面目が潰され、事切れたようにうなだれる先生。頭をかいて「参ったわね」と独りごちた。
「前から鋭い子だと思っていたけど……。検察官とか探偵になれるんじゃない?」
 ――それに近い職ならもう就いています、という切り返しは心の中だけに留めておいた。
 先生との距離はいよいよ縮まり、膝の上をまたぐように両足を広げて立った。下着もほぼ丸見え。本性を暴いた相手をさらにその気にさせ、自ら毒牙にかかろうと大胆に仕掛ける。
 あでやかな夕焼け色に染まる目の前の素足に誘惑され、白衣の腕が震えながら伸びる。きれいでも色気もない脚だけれど、それでも石田先生の心を揺さぶれたのなら鼻が高い。
「あん……っ」
 やがて、ももの外側に手のひらが重ねられた。――大きな手。実際は成人女性の平均的なサイズだろうけれど、はやてを癒した頼もしさ、包み込むような優しさがそう感じさせる。
 内ももにも反対の手が触れ、両側から上下にさすりだした。肉づき、肌の張り、感触……発育期にある少女の成長具合を確認するように。
「……うん、健康そのものね。弾力もあるし、筋肉もきちんとついてる。定期的な運動は?」
「あは……ちょう苦手でして。体育は楽しいですけど……んっ」
「皮膚もつやがあるし……、血行もいいわ。ほら、色白だから血管がくっきり透けて」
「ええっ? やっ、そんな目凝らさんといてください……」
 本当の診察さながらに太ももの状態をチェックし、事細かに説明する。マッサージのようにしきりに指を食い込ませる先生の目つきは真剣で、しかし行為に没入している様子ではない。目元が時折緩んだ。
 はやての成長を喜んでくれているのではないだろうか。
 幼少期は華奢でか細く、ろくに動かせなかった両脚。それが完全に機能を取り戻して、順調に育ち女らしさも帯びつつある。その変化を自ら触れて確かめている。噛みしめている。
 最後の検査から何年もたった今でも、親身になってはやてを見つめる――本物の主治医だ。
「あ……っふあ、んっ……」
 手のひらから伝わる熱い気持ちがはやてを昂らせ、感度の上がった肌が繰り返し撫でられる緩やかな刺激に吐息を漏らした。膝が笑いだし立っているのがやっと。そのときだった。
「ひゃあぁん!」
 上下させていた手が勢い余って、はやての脚の間にぶつかった。予想だにしなかった場所が薄い布越しにノックされ全身が総毛立つ。
 石田先生は慌てて手を引っ込めたけれど、時すでに遅し。両足から崩れたはやてが膝の上に乗った。頬を上気させて息を散らし、目に溜めた涙でぼやけた先生の顔を見つめる。
「もー、不意打ちなんてずるいですって。――収まりつかんなってまうやないですか」
「えっ、ちょっと……はやてちゃん?」
 戸惑う先生の首の後ろに両手を回すと、騎乗するように腰を前後に振った。股下を湿らせる染みが白衣の下のタイトスカートを汚していく。そして甘えるような声でねだった。
「わたし……体が変なんです。顔が熱うなって、動悸も早なって、あそこムズムズして……。もっと診てもらえますか? 石田先生の手で体じゅう調べ倒してほしいんですっ……」
 誘い文句に先生は目を見開き、焦点のおぼつかない瞳にはやての顔を映した。

(つづく)

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