「金がねえ、金がねえ、金がねえ……」
俺は頭を抱えていた。机に両肘をついて、誰もいない教室にただ一人。
「いつまでそうしてるの」
背後からかけられた声に振り返る。呆れ顔の女子生徒が、長い髪をさらりと揺らして立っていた。
「おわっ!」
「失礼ね……。人の顔見るなり飛び退かないでくれる?」
「び、びっくりしただけだって。考え事してたから」
ふうん? といった顔で俺を見下ろしているのは、同じクラスの紙屋香子。
小学校からずっと同じだけど、めちゃくちゃ勉強できるし、家は金持ちときた。こんな田舎の高校に通ってるのが不思議なくらいだ。俺とは大違い。
「とっくのとうに放課後よ、彰敬。用がないなら帰ったら?」
「用はないけど……、金もなくてな。それで困ってるんだ」
「はあ? 何それ。また下らないことばっかり考えて」
「俺にとっちゃ重要なんだよ」
そりゃ香子はいいよな。小遣いが少ないとか金欠なんて理由で悩んだことなんか一度もないんだろうさ。
「お金って、何に使うの」
「ちょっとな。買いたい物があって、週末までにいるんだ」
「また急ね。前もって貯めておけばよかったじゃない」
「それが出来るなら今悩んでねえよ……」
計画性のなさとか自覚はしてるけど、あらためて人から言われると悔しいな……。
「買いたい物って何?」
「それは秘密」
「言っとくけど、私を当てにしないでよね」
「まだ何も言ってないのに……。大丈夫だって、おまえが金の貸し借りとかの話嫌いなの知ってるから」
「そう」
まあ最初からそんなことするつもりなかったけど。
「なあ、すぐできるバイトとか知らない?」
「あのね……。クラス委員であり生徒会にも入っている私が、そんなもの紹介すると思う?」
「だよなあ」
アルバイト禁止という校則の存在もあるが、香子自身が風紀の鬼と言わんばかりの非常に生真面目な人間である。俺がどこかでこっそりバイトするのも見逃してはくれまい。
……と思っていたのだが。
「でも、そうね……。だったらちょうどいいかも……ううむ」
「ん? もしもし? どうした香子」
「ちょっと黙ってて。今考えてるんだから」
「だから何をだよ」
俺を無視して、何やら考え中のご様子。
そしてなんか閃いたみたいに顔を上げる。
「喜んで、彰敬。今日一日限りの仕事があるんだけど」
「ほ、本当か? 時給は?」
「時給はわからないけど……。日当で最低……これくらいは」
指で金額を指し示す。……結構な額だ。おいしい話じゃないか。
「やるやる、それやります! ははーっ、神様仏様香子様~」
「ちょっと、気持ち悪いから拝まないで」
「それで何の仕事なんだ? というか、あのお堅い香子が紹介してくれるなんて一体どんな……」
「案内するからついて来て。説明は行きながらするから」
「お、おう」
教室を後にする香子を追って、廊下に出た。
「珍しいじゃない? あなたがこんな時間まで学校にいるなんて」
「ま、まあな。香子は生徒会の仕事?」
「そうね。活動は基本的に毎日。それが終わって教室の様子見に来たら、彰敬が机に伏せてるんだもの。一瞬、具合でも悪いんじゃないかって思って」
「俺のこと心配してくれたんだ……?」
「まさか。間違っても風邪なんか引くわけないし」
遠回しに馬鹿だって言われてる気がするのは気のせいじゃないよな……。
香子は昔っからこうだ。口喧嘩でも男子に負けたことなんかない。それだけ頭の回転が速いってことなんだろうけど。
俺たちはどんどん歩き、とうとう校舎を出て、校門前のバス停まで来た。
「ってこれ、俺んちに帰る路線なんだけど」
「奇遇ね、私もよ。ほら定期券」
同じバスだったのか……。
入学以来一度も一緒になったことなんかないぞ。放課後の生活が違いすぎる。朝もないな。俺いつも遅刻ギリギリだし。
そのうちやって来たバスに乗り込む。二人掛けのシートに俺が座ると、その隣に香子も腰を下ろした。
「おい……」
「何?」
いや近いだろ……。
腕とか太ももとかあたってるし。それだけなのに何だか全身がこそばゆい。そんなくっつかなくても……。
っていうかこいつは気にしないのか?
だが香子が何の疑問も感じてないような顔している以上、こっちもポーカーフェイスを貫くしかない。
「……うちの父がね、急な仕事で今朝出掛けていって」
親父さんって……たしか会社の社長さんか何かだったはずだ。そりゃ色々忙しいんだろう。
それよりも香子のやつ、なんでいきなり家の話なんか?
「世話するために、母も使用人たちも一緒について行っちゃって」
「使用人? お手伝いさんとかいるのか? おまえんちってすげえな……」
「それで、みんな明日にならないと帰って来ないの。今日は私一人だけ」
「……え」
いや、おい……。
正直に言えば、そんな話聞かされても困る。どう反応していいかわからん。
だって……、なんかまるでボーイフレンドを家に誘うみたいな台詞じゃないか。
「ねえ……。だから、彰敬」
「はっ、はい! 何でしょうか香子さん!」
緊張のあまり丁寧語になってるし。
いや落ち着け。そんな展開とかなりっこないだろ。俺たちはその……間違ってもそういう関係じゃないんだから。だいたいいつも叱られてばっかの俺が香子から対等に扱われてるとは思えないし、それに俺なんかじゃ香子とはとても釣り合わないと……、
ってさっきから何考えてんだよ俺!
「……どうしたの。なんか難しい顔してるけど」
「いや何でもない。続けてくれ」
「そう? それじゃ……」
ゴクリ、と耳をそばだてながら意味もなく喉を鳴らす。
「今日一日、うちの使用人として働きなさい」
「命令形かよ!」
間髪入れずに突っ込んでしまった。
使用人どころか下僕扱いだったのかよ俺って……。
「ってツッコミどころはそこじゃねえ! バイトってそれのことか!」
話の流れから、とりあえず香子の家に連れて行かれそうだというのまでは読めたが、まさかお手伝いさんの仕事とはなあ。
まあ難しい仕事ではなさそうだし、その点は心配ないと思う。
ただ、一つ困った問題が。
「それって……セーフなのか……?」
「何の話? ――ああ、校則とか気にしてるの? 彰敬のくせに」
「くせにって何だよ……」
「明日は雪かしらね。……というのは置いといて。うちの個人的な手伝いなんだし、まあ問題ないんじゃない?」
「ああ、まあ……」
そんなことじゃないんだ。俺が気にしているのは。
香子の家で仕事するってことは、つまり香子から給料をもらうってことだ。それって……俺的にアウトなんじゃないか?
しばし考えたが、他に金を手に入れる方法も思いつかない。ここはうだうだ言ってたって始まらない。
「わかった。今日は家事全般俺に任せてくれ」
「そんな過度な期待はしてないけど……。自分の部屋も掃除してなさそうだもの」
「うっ。それは耳に痛い……」
「出来る範囲のことしか頼まないし、私がちゃんと教えるから」
うわぁ、雇われの身なのにめちゃくちゃ気い遣われてるよ。
香子は最低でも俺よりは家事できそうだし、やはりここは、俺に同情して仕事を作ってくれたと考えるのが妥当だろう。
そしてバスが停車。香子の家に到着した。
豪邸と言うほどではないものの、庶民の家よりは格段にでかい。門も玄関も大きくて立派だ。
「ここでちょっと待ってて」
玄関入ってすぐのホールに俺を待たせると、香子は階段を上がってどこかへ消えた。
家の中は……しーんと静まり返っている。本当に誰もいないようだ。
本人は否定するかも知れないが、単にお手伝いとしてだけじゃなく、遊び相手も兼ねて俺を呼んだんじゃなかろうか。こんなだだっ広い家で一人留守番なんて、俺だって心細くなる。
「あ……」
「お待たせ……って何よ。ジロジロ見て」
「いや、香子の私服って珍しいっつーか新鮮だったから」
見慣れない格好だっただけであって、別に見とれてたわけじゃない。
服装も目を引いたが、脇に透明な袋に入った何かを抱えていた。
クリーニングに出した服のようにも見える。こうビニールが掛かってて。
「それは?」
「ふふっ。後のお楽しみ」
悪戯っぽく笑う。学校ではあまり見せない表情だから、なんか意外。
「来て。こっちこっち」
そう言って案内されたのは、一つの部屋。また俺を待機させて、香子だけ中に入る。
普段は、使用人が更衣室や休憩用として部屋なのだそうだ。ということは、今日は俺がここを使えってことか。
少し経って、香子が部屋から出てきた。もう袋は持っていない。
「着替えの準備できたわ」
「着替えって?」
「掃除とかもしてもらうし、制服のままだったら汚れるじゃない」
「へ? いいって、俺気にしないし」
「彰敬が気にしなくても、彰敬のお母さんが気にするでしょ」
「そ……それもそうだな」
正直、考えたことなかった。
「というわけで。作業着、中に用意しといたから、それ着て」
「ああ。わざわざすまないな」
「いいのいいの。それじゃ私は廊下にいるから、着たら出てきて」
「わかった」
なにせ人生初めてのアルバイトなのである。
服も着替えてなんか本格的だな~、とすっかり気分が高揚していて、肝心なことに気づくのが完全に遅れてしまった。
そう。作業着とやらについて。
部屋に入ってそれが目に入った途端、もう言葉が出てこなかった。
「……」
なんでこんな物がここにあるんだ?
いや、ある意味この家にあってしかるべき物だ。むしろここ以上にふさわしい場所はそうあるまい。
だが絶対におかしい。これはここにあるべきじゃない。少なくとも、俺の目の前に置かれている事態は完全にダウトだろう。これは俺が身につけちゃいけないものだ。本能が危険信号を発してる。
香子が用意した着替え、それは……、
メイド服だった!