わいわいカルガモ

2004/12/11

むかしのひび

ども、ペルドモです。きょうは生命倫理の話を。(えっ) このフレーズでまず思いつくのがクローン人間でしょうか。フィクションの世界では、スイッチひとつで自分のそっくりさんがずらりとできあがる夢物語がえがかれています。コピーロボットに自分の代わりをさせる、なんて都合のよすぎる話とか。道徳に反してヒトクローンの開発を進めようとする動きがあるのは、やはり実現を望む声があるからでしょう。そこでそもそも疑問なのが、自分のそっくりさんなんて本当にほしいかということです。だって出会ったら死んじゃうじゃないですか。<ドッペルゲンガーとかんちがいしてるよこの人 もしクローンがいたとして、その人に自分の仕事を肩代わりさせたいですか。そんなのはただのものぐさですよね。だいいち、たとえば役割を分担することになったとき、自分は会社に行って仕事して、クローンは家で奥さんと夜の仕事なんてことになったらどうするんですか。悔やんでも悔やみきれませんよ? 竜王に世界の半分をやろうと持ちかけられてうっかりうなずくと男の世界を押しつけられるくらい悔しいですよ?
まあそれはおいといて、現状では、体細胞から胚みたいなのをつくりだして女性の子宮に入れ出産させる、というところまで可能になっているようです。もちろん、受精によらず一個人からあらたな生命を創出するなんてけっしていけないことですが、それはそうとしても、その生まれてきた子ははたして自分のクローンなんでしょうか。とてもそうは言えないと思います。遺伝子が同一というだけの赤の他人です。赤ちゃんだけに。(まじめな話してるときにそういうこと書くなよ) 個人や個性をつくる要因は、出生よりもそのあと成長していく環境のほうがウェイトが重いはずですから。それに、その赤ちゃんを産んだ人の人権や気持ちはどうなるんでしょう。だれの子としておなかの中で育てていけばいいのでしょうか。
ほかにも体外受精や代理出産などともかかわってくる話ですが、やはり心情的には、赤ちゃんを産んだ人をその子のお母さんだと思いたいですよね。女は母になると強くなる、とよく言いますが、それはもちろん壮絶なお産を経験するからです。おなかを痛めて産んだ子どもにこそ本当の愛情を注げるわけで。その子をなんとしても守りたいという強い意志が生まれるわけで。だから、たとえば自分あるいは自分の奥さんが妊娠できないからと言って、生殖子を提供して他人に出産させた子どもを、本当に自分たちの子として愛せるかどうか。疑問が残ります。だれにでも子をもつ権利がある、と主張する人もいますけれど、それは生きものとしての人間が本来できる範ちゅうをはみ出してなんでもかんでもやらかしていいということではないでしょうし。
自分が同じ立場に立ったことがない、また自分の知っている人の範囲でそのような話を聞かない、というせいかもしれませんけど、どうしても賛同する気にはなれません。夫婦が先天的な問題で子どもを作れないのなら、それは子宝にめぐまれなかったということで涙を飲んであきらめてもらうしかないのではないでしょうか。自然信仰?をかかげる私としては、人間は自然の摂理をおかしてはいけないと思うんです。ただこういう話になると、現在でも医療現場では倫理スレスレの生命操作がふつうに行われているわけで、あれはよくてこれはだめだっていう線引きがむずかしい状態になっています。延命装置とか臓器移植とか性転換とか、最近では着床前診断なども問題になっています。ですが、「線引きがむずかしい」という言いわけを盾にして、あいまいな境界線をずかずかと踏み上がっていくというか、NO BORDERとしてしまうようなことがあってはなりません。命の大切さ、というものが声高にさけばれる今だからこそ、人の命をとりまく現況を見つめなおす必要があるのではないでしょうか。

…そんなことよりも、妊娠中絶が日常的に横行している事実のほうがよっぽど嘆かわしいんですが。まあどのみち漏れには縁のない話だけどな。(でたよ)

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