首肯できない

2003/08/18

むかしのひび

08/14のつづきです。いいかげんしつこいですか。スッポンのondと呼ばれていてよ?<いてよ?
ら抜き表現を「よその地方の方言」と形容したことに関してですが。ほかの多くの“流行語”と同様に、たまたまテレビなどのせいで急速に全国に広まっただけで、一部の人たちだけが使用しているという点ではやはりかぎられた範囲での用法なのだろうなという認識でいっぱいですわたくし。だから、方言というより集団内用語と呼ぶべきものでしょうか。
社会には大小さまざまの集団があって、略称や特別なものの呼びかたなど、その中でだけ用いられるタームというものが多かれ少なかれあると思います。中の人どうしではそれは共通の約束ごととして知っているから通じるのですが、その輪から一歩外に出ると使えなくなります。そうした用語が増え、そして難解になるほど、その集団は閉鎖的で排他的なものになっていきます。私はこうした集団内言語はなるたけ使うべきでないと考えます。内部的な用語を濫用してしまうと、その集団の中でしか思いどおりの意思疎通がとれなくなって、どうしても内々に閉じこもってしまう傾向があります。それらの用語を無理に外部に持ち出したところで、いわゆる内輪受けにしかなりません。人間関係のつながり・交流を減退させるかせとなってしまいます。異なる世代の人と会話が通じない、いわゆるジェネレーションギャップの一因となっているとも考えられますし。
言語というものは私たちが常日ごろ使っている以上、日々変化し、あらたな語彙や表現が生まれてしかるべきものですから、その流れに水を差すことは申しません。私が危惧しているのは、隔絶の深化がさらに進むことです。ただでさえ個人主義が蔓延している今日このごろ、核家族化や近所づきあいの減少に象徴されるように、他人と関わる機会にめっきり疎くなりました。便利で不自由のなくなった社会、ごくかぎられた友人とだけつるんでいたって生きていけてしまいます。集団はどんどん細分化され、溝は深まり、距離は広まっていきます。外部の人間を必要以上に避け、警戒し、両者のあいだにぎすぎすした空気が漂う、だからささいなことでいがみあったりトラブルが生じてしまうのではないでしょうか。はやりことばに安易に手を染めることの危険性を、私はこんなふうに考えています。
…やはりこんな頭の痛い文章が私の本職なんだろうか。本音ではもっとべつの意味で頭が痛くなるテキストを書きたいんですがね。ここんとこ方向性が迷走しまくりのダメ日記をきょうもお送りしました。

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