俺がノーベル賞だったころ

2003/02/17

むかしのひび

せんせい、あのね。わたしはきょう、はじめてうぃんどうずえっくすぴーをさわったよ。しごとでね。ぼたんがとってもかわいかった。ましんのせっとあっぷをしたかったんだけど、せっていやたいせつなふぁいるがみんなかくれててどこにあるのかわからなかったの。おとなはむずかしいことをすぐみせないようにしちゃうから、ちょっとずるい。
さて本日もようこそ(いきなり素に戻ってみる)。しかし技術者の片隅にもおけねえっていうか、自らの専門分野においてでさえ流行を逸脱しまくりの私。いえどのジャンルでもそうでして、世間の動きに目を向けていないのか関心がないのか、とくに文化的なものといいましょうか、雑誌とかお店とか歌手とか、一般的にはやっているものを自分だけまったく知らないというものが実に多いのよ。すこし前まではスターバックスもユニクロさえも入ったことがありませんでした。こういうのを環境のせいにしてはいけないのでしょうが、まあ家の都合というか、私おばあちゃん子だったもので。<関係ないし 要は田舎ものだったのでひたすら無教養に育ったってことさ。若いうちは世相に流されずに自分を貫くことがかっこいいなどと思いこんでつっぱっていたのですが、ものには限度があるというか、さすがに世間知らずすぎました。そうするとこんどは自分の見識のなさをコンプレックスに感じるようになって。ろくな遊びひとつ知らないつまらない人間になってしまって、自分は今まで世の中のどこを見て生きてきたんだろうって。今でこそわかりはじめていることなのですが、流行とはいってもみんなまわりに流されて生きているわけではないんですよね。たまたまマスメディアの影響力が大きくて特定のものに人気が集中しやすい状況がつくられているだけで、ほんとうはそれぞれ自分の思うままにしたいことや買いたいものを自由にえらんでいる、そこでたくさんの支持を得たものがブームというひとつの流れを形成して波及していく、それが流行とよばれるもののメカニズムなのではないでしょうか。私の場合、近所にナウいショップが集まったところに越したという要因もあって、あるいは社会人としての自覚でしょうか(?)、すこしずついろんなものに目を向けるようになってきたと思います。受動的に群がるのではなく自らの意志で。みんなと同じものだから追うのではなく、自分のほしいものを追っていたらまわりに同じ趣味のひとがたくさんいた、そのほうが集団の形成のありかたとしてはより主体的といいますか、どうせ流行にはまるのならそのほうがきっと自分の選択に誇りがもてるんじゃないかと。

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