wherever has gone

2002/10/15

むかしのひび

とても露骨でした。推論としては自明すぎるものでした。意思表示でした、殺意という名の。ことごとく触れないようにして、見えるものすべてを断ち切って、冷酷にじわじわとなぶって痛めつけて、そして最後に奈落の底へ突き落とそうとするその執行の瞬間を待って、さえいるのかもしれません。そのことばは明後日の方向を見ていました。かつての面影は、シェアはもうありません。クラス全員でひとりを無視するような陰湿。差異に戸惑う余地もなく。ささやかな「抵抗」など取るに足らないでしょう。それは不条理でしょうか。もう見てはいないのですから。そして、記憶から消えていくだけなのですから。いないのです。私はいないのです。そう。私だけが。知ってはならない世界だったのです。
さて、同じということはどのようなものなのでしょう。先日は私の会社の創立日でしたが、その「年齢」はちょうど私と同じだということです。同じくらいの長さの道のりを、いままで両者はあゆんできたことになります。そういう話を聞くとちょっとうれしくなります。ほかにも、出身地や誕生日が同じ有名人に親近感をもったりすることは多いと思います。日ごろの人づきあいにおいても、共通の趣味や関心事をもっている人とは話がはずみますし、性格や考え方が似ている人に親しみをいだいて接するということはよく見られるでしょう。共通点があること、同じものを知っていること、そうした同調に対して人の意識がはたらいているということでしょう。しかし人間関係では反対のパターンもあります。それは違いという認識です。まねのできないすごい特技をもっている人、自分にはない視点をもっている人にひかれるということもよくあります。それらのふたつの系統の要因がかみあって関係というものがリンクされているのですけれど、両者の人と人とを結びつける力としての意味あいは異なるような気がします。自然界にも4種類の力があるように。自分と周囲の人との関係について、どちらの力がどれくらいの割合で構成されているか洗い出してみるのも面白いかもしれません。考えてみたところでなにが解決されるわけでもないのですけれど。いずれにせよ、同調性も相違性も、他人に接近するための建前でしかないのかもしれません。すべては親密を願う意志が前段階にあって、その気持ちがはたらいた結果としてその人のいいところや自分と似かよっているところを無意識的にさがそうとするだけだ、とも考えられます。

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