または準ずるもの

2002/10/08

むかしのひび

素朴な疑問ですが金融と経済財政ってかけもちしても大丈夫なものなんでしょうか。思いっきり時事ネタですすみません。チョコレートを食べると気持ちがほっとします。なんかこう、落ち着くというか、ぽわーっとなるというか。<そんなにもか 子どものころですがバレンタインデーに母から大量のチョコレートを買ってもらって、それをものの数日で食べつくしてしまうという年中行事があったというわが家なのですが、そのころから好物だったように思います。チョコレートはあの甘いにおいもお気に入りです。昨年、神戸の郊外に行ったときのことですが、お菓子メーカーの大きな工場の横を通りかかったときにとてもおいしそうなチョコレートのにおいがただよっていまして、思わずうっとりでした。もうあたり一面チョコアロマです。お菓子の国に迷いこんだみたいでした。<つーか何しに行ってんの 食べ物は生きていくために毎日とらなければなりませんけれど、その中ですこしでも楽しくおいしく、しあわせな気分を味わえたら安上がりいいですよね。
そんなちいさなしあわせ。たまごを食べたらふたごのたまごでした。ラッキーなこと、最近なにかありましたか。小学生のころ校庭に出ると、きまってきれいな色の石ころや四つ葉のクローバーをさがしたものです。いつもがんばってさがすんですけどなかなか見つからなくて。けれど、いざ見つけると、そのときはうれしい気持ちがわいてきますが、それはすぐにどこかへ消えていっちゃうような気がします。茶柱が立っているのを見つけても、それをいつまでも見ていたらお茶がさめてしまいますし。せっかくいいことがあったのに、そのときのよろこびをどうして持っていられないのでしょう。忘れてしまうのは悲しいことかもしれません。でも、それはきっとそれでいいのだと思います。次にまたさがそう、って思えるから。ひとつのしあわせを見つけてそれがいつまでも消えなかったら、ずっとそこで立ち止まったままで先に進みません。だから人間の頭には、忘れたり感情がうすれていったりする“機能”がついているのだと思います。いちどなくしても、またあこがれて、また見つけようとして、そのために努力する。すばらしいことだと思います。こんどはべつのものをさがしてもいいでしょうし、また同じものを見つけようとするのもいいかもしれません。あの日つんだ、四つ葉のクローバーのように。
さて、ことばの真意を突き止めることのむずかしさといいますか。それはワンフレーズだけ聴いて曲名を言い当てるイントロクイズのようなものでしょうか。直接的な言いかたはとげが出てしまったりしますし、かといってぼやかして言うと誤解されてしまったり、言う側にしても受け取る側にしてもむずかしいところがあります。伝えたいことがあるのにうまくことばにできなかったり、ことばだけでは伝えきれない部分があるという限界を感じてしまったり。いっぽう聞くほうも、相手のことばに「?」と思うようなところがあったとき、その真意を問いただしていいものか、あるいはその人の気持ちをうたがってしまったり、などなど、ちょっとした誤解からおもわくがすれちがってしまうこともあるでしょう。こういうのはおたがいの信頼というか、先入観によるところもあると思うのです。相手のことをうさんくさいと思っていたりうたがってかかっていれば、ことばは無意識的に悪意のあるものと受け取ってしまうでしょうし、反対に、その人のことを信頼していたり身近な存在だと感じていたりすれば、きっと好意的にといいますか、自分のいいほうに解釈するんじゃないでしょうか。おなじことばでも、話す人、聞く人、その両者の間柄によって意味合いが変わってくる、それがことばのむずかしいところでもありますし、同時に、おたがいの関係の深さを実感できる機会でもあると思います。私はどうでしょう。私のことばに誠意があるかどうか、それは自分では判断できないものですけれど、そのかわりに、ほかの人のことばはなるべく信じたいです。ほんのワンフレーズでも、ちょっとつぶやいたような、かけらのようなことばでも、きっとその中には気持ちがこめられています。それを大切に取り出すのが、受け取った人の役目ですから。…たとえ都合のいい解釈をしていることにしかならなくても。

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