あの星をくれたらね

2002/10/28

むかしのひび

私の名前にかけて。ひと昔前の青春ドラマやアニメでは人を信じることの大切さがよくテーマに描かれることがあります。信じることが当事者におよぼす影響とはなんでしょう。他人を信頼することはその人への強要と依存という独善的な行為と表裏であると考えています。けっしてきれいなことばでもなければきれいな行動でもありません。いえ、むやみやたらと信用してそれで自分が傷ついたり損をしたりするのは当人の勝手ですのでその点はべつにどうということはないのですが、他人に負担を押しつけるという面では悪意のある行為だととられてもしかたありません。これは逆の立場を思い浮かべてみるとわかりやすいかもしれません。ほかの人から頼りにされたり役目をまかされるときどのような気持ちになるでしょうか。うれしいでしょうか。はげみになるでしょうか。期待に応えたいと思うでしょうか。たいていの場合はそうだと思います。しかしたとえば、それが高じてみんなが仕事を押しつけたり責任をまかせっきりにしたり、しだいに度をこえていって遠慮なしに図々しくものをたのんだりしまいにはその関係があたりまえだと思われるようになったり。そうなると頼りにされた側はつらくなってきます。信頼や期待がいつしかプレッシャーに変わります。これはたとえば、最近は企業や政治家の不祥事が相次いでいますが、それらは多くの消費者、顧客、または有権者や団体との信頼関係で成り立っているといってもよいでしょう。私たちの要望に見あうサービスや商品を提供したり政策を実施するかわりに支持を得るという関係です。それがあのように一度問題や疑惑が起こるといっきに信用が崩れ、痛手をみるのはニュースでくり返し報道されているとおりです。信頼が大きくなればなるほど小さな失敗や不正の許されない厳酷な状況におかれます。もちろんその重圧がサービスや政治の質を高めることにつながっているのも事実なのですけれど、私たちはこれら企業や政治家への信用と同時に、それらに多大な期待を押しつけてもいるのです。そしてこれは個人レベルでも言える話でして、職場や学校でそのような経験にあったり、またはだれかをそのような立場に追いこんでしまうということも間々あるでしょう。他人に寄りかかられると、その人の体重を支えていなければならなくなります。とくに気の弱い人ですと仕事をなんでも引き受けてしまいますので、いずれ堪えかねてつぶれてしまうなんてことにもなりかねません。信じることはとても迷惑であるという側面をもっています。
私も自分の学生時代を振り返ってみるとそうだったのかなと思います。責任のある役目についてみんなをまとめて、それがやりがいだったし楽しかったはずなのに、仕事のきつさや立場の重さを思い知らされるたびにいつからかそれがつらいものになっていって、そしてついに逃げ出してしまいました。仲間からの信用を捨てて。ただ断っておきますが、これはまわりのみんなが私に責任を押しつけてきたからではなく、私がそういう役目を負うには精神的に弱くて適さなかったというのが原因です。もちろん今はこのことを反省していますし後悔してもいます。なんてもったいないことをしたんだろうって。そこで先日からたびたび書いている話題と重なるわけですが、やはり人から信頼されるということはある程度は不可欠なのだと思います。もし自分がだれにも必要とされていなかったら、だれからも見てもらえなかったら、きっと生きることはすごくつらくなるんじゃないかと思います。私がそうなったら生きられる自信はありません。他人とのつながりを確立することで人間は社会の一部となりそこに存在しうるわけですので。そしてまた、信じられることと同程度に信じるほうもなければならないということ。だれも信じていないような人を信用することはやはりためらってしまうわけで、信頼を得るためには自分から信じることも必要だと言えます。頼りにすること、必要とすること、おたがいにそうやってすこしずつ寄りあっていって関係は深まっていくものです。でも忘れてはならないのは程度があるということ。依存しすぎてしまうと相手に負担をかけ苦しめてしまいます。かといってまったく信用しなければ相手も自分のほうを見てくれませんから、そのバランスをとるのが大切だと言えるかもしれませんが。…とこんなにえらそうなことを書くくせに、私はなにもわかっていませんでした。信頼されることのプレッシャーを、度の過ぎた甘えがどれほど重くのしかかるものであるかを人一倍よく知っていたのに。この身で知っていたのに。それと同じ苦しみを押しつけてしまったのかもしれません。否定への幇助、信じあえる喜びを、笑顔を、奪って。それでも私は愚かにも信じつづけようとしています。自分のことしか考えられない独善と知っていて。けっしてきれいごとではありません。きたなくて身勝手で、またつらい過ちをくり返すだけなのかもしれないのに。それでもです。信じることをやめてしまうのは、私にとって自己否定のようなものだから。

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