タイムアウト/タイムオーバー

2002/10/12

むかしのひび

こんばんは。いくつになってもドキドキを忘れずにいたいものです。たとえば手のひらの上で豆腐を切るときですとか。<あんたいくつだ<主張食い違い 生きることって、思ったほどかんたんではないとも感じます。やはりなにかしら刺激がないとおもしろくありませんし、おもしろいおもしろくない以前に、本当にさみしくて悲しくて、このまま朝なんて来なければいいのになんて思ってしまうときもあったりなかったり以前に。自分がそこにいることを実感できるときってどんなときでしょう。目的もない、使命もない、死んだらなにも残らない、それでも生きています。なにもしなくても、たとえば仕事なんてしなくても生きていけてしまう、それほどにこの社会はうるおっています。みちみちています。努力すればある程度それに見あった報酬も得られるでしょう。こんなにわかりやすい合理的な世の中にあって、なぜ生きることを悩みたがるのか。言うなればぜいたくな悩みというやつでしょうか。それはひとが心をもっているからだと思います。思考があるから、なにかを考えようとします。たとえば宇宙の果て、たとえば人生の終わりのその先、たとえば穴埋めパズル。気持ちをもっているから、それが肉体や精神や行動や、いろんなところに作用してきます。楽しいことは時間を忘れて没頭したり、しんみりしたいときは静かな音楽をこのんでみたり、怒っているときは頭に血がのぼってことばづかいが荒くなったり。こういうふうにしたい、またはこれをしなければならないというスケジュールと、感情が引き起こす応答とが排他的に作動しなかったとき、それはジレンマとなり自己矛盾となります。自分はなんてことをしたんだとか、頭ではわかっていたのにどうしてやらなかったのかと考えてしまいます。生きることがあたりまえで、だけれどもなにかを考える、なにかを思う、そのときに断層が生じればそれが悩みとなるのでしょう。あたりまえだけれど生きるのですか。自分なりに意義を設定した上で生きるのですか。それともそれを模索するために生きるのですか。それはかんたんなことだと、あたりまえのことだとひとことでかたづけていいものではけしてないと思います。では、なにを考えるのでしょう。なにを思うのでしょう。生きていくうえで、やるべきことを果たすうえで、障壁となるかもしれないもの。邪魔な感覚。そう。邪魔だったのです。
さて、夜の話をしましょうか。お気に入りのぬいぐるみといっしょに寝ることがあるとたまに書いている私ですが、枕元に置いたり顔の上に乗せたりするくらいでして、布団に入れて抱いて眠るということはしません。そこまでしなくても、そばに置いておいてちょっとさわるくらいで安心感は得られるから、というのもあるのですが。寝るときにかぎらないのですけれども、ぬいぐるみは頭をなでたりにらめっこをして遊んだりはしますが、ずっと抱いているというのはあまりしている覚えがありません。これは自分の体のにおいがつくのをさけているからです。ひとつひとつを大切に扱いたいと思っているからでしょうか、あまり自分というものをしみつけたくないという気持ちがありまして。愛情表現のかたちは人それぞれでして。たとえばすきな本、大切にしている本というとどのように扱われているものをイメージするでしょう。指紋ひとつつけないように幾重にもカバーをかけてガラス扉のついた本棚に丁重に飾ってある状態でしょうか、それとも、何度も何度も読み通して端がぼろけるくらいになっていてしかも文中には所狭しと傍線が引かれていたりメモが書きこまれている状態でしょうか。手にしたときのオリジナルの状態を保持すること、すべてを取りこもうとして手を加えること、取っている行動は相容れないようではありますが、どちらもそれを大切に思うがゆえのものであることは相違ないと思われます。ただ、相手の立場、その本にとってはどちらがしあわせなのでしょうか。もちろん本は意志をもっていませんからそのようなものを考慮するのは愚かなことなのですが、これはなにも物品のみに言える話ではありませんで。大切にしたいもの、近づきたいものがあって、それにどのように接するか、そのときになにに配慮すべきか。自分でよかれと思ってやっていたことがその対象にはかえって不都合だったり迷惑だったり、またはそんなことを考えようともせず自分のやりたいことばかりを押しつけたり、往々にしてあることですから。どうだったのでしょう。私はそれができていたのでしょうか。ものを大切にしようと思える資格が、私にはあったのでしょうか。今さらですね、つくづく。

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